私笑劇
 漫ろ生く冬通り(東)

 花咲爺の哀欲
 青鬼と赤い糸
 バラック建築家
 神様のくれた紙切れ
 戦前のアプレゲール
 永久戦犯者の遺言
 テロリストの駆落ち
 ウルトラヘブン
 ブルーワイルド演じる
 七つの子鳴き別れ

花咲爺の哀欲


 デリヘル嬢だった頃のわたしは人妻であることを客には内緒にしていた。あれはちょうどあの仕事を始めて4年目の梅雨の時期だった。まだ二十五だったわたしは早くも人生に疲れていた。いつでも海外旅行に行ける暇とカネもあった。「借金くらいないと生き甲斐がない」とマンションもローンで購入したばかり。愛車も愛犬も可愛がっていた。しかし結婚5年目の夫との間に子供ができなかった。それも当然、生理が来ないことはザラだったから。それにアパレルの仕事で交友関係の広い夫はわたしは相手にせず、愛人を何人も換えていた。そんな男と何で別れなかったかっていうと、夫とは小学校以来の幼なじみで、丁度いい喧嘩相手だったから。
 そんなある日、突然、生理が来たのだ。あんまり久しぶりだったから大事をとって一週間もたっぷり仕事を休んでいた。そのときだ、あの男からの初メールがきたのは。その前の月に初めて会った客だった。男からのメールに長々と返事を書いていたら夫が覗き込んで「それ誰?楽しそうじゃん…」と珍しくわたしの行動を気にしていた。それから三ヶ月して、わたしは妊娠した。むろん夫の子だったが、あの男と会うようになってから生理が順調に戻っていたことは夫も気づいていた。
「どうするんだ?」「もちろん産む」「ちがう。仕事やめられるのか?」「もちろん!」「例のメールの相手はどうするんだ」「そんなの仕事だけの関係だもん」そうは言っても子供を産むなんて自覚もなく三ヶ月くらいやり過ごして、やっと年も暮れる頃に仕事をやめる決心をした。それを男に告げたが、何も言わず愛欲に夢中だった。考えてみれば、人のカラダを何だと思ってるのかってくらいイヤらしい奴だった。で、あれは最後の出勤日が迫っていた頃だ。
「最後の日、トリプルで予約できない?」と男から直接わたしに問い合わせがあって「女の子には予約の裁量はないんです」「君は何て冷たい人だ」「何を怒っているのですか?お店のシステムを説明しただけです」つい逆ギレしてしまったけど、結局、アイツと会うことは二度となかった。アイツ、奥さんも彼女もいなかったんだろうな。デリヘル嬢のわたしなんかに本気になるなんて哀しい男。今頃どうしてるかなぁ…どうせ別の子にまた夢中になってるんだろうな…子種をムダにばらまいて…まぁいいや、今日でもう臨月。この子ったら、お腹の中でわたしを蹴ってる。きっと元気な男の子になるに違いない。2005年10月18日

青鬼と赤い糸


 私は出家こそしていないが、生涯、女を所有しないという持論を五十のこの歳になるまで守っていた。四年前に病気で母を亡くしたとき、私はさして悲しいとも思わなかった。父や姪や親友たちが死んだときもそうだった。人間なんて元々、一人ぽっちだから。だが、その死んだ母が最近、生き返って私の前に現れたから困っている。彼女こそ、あの憎しき母の生き写しなのだ。アタマでどう合理化してもカラダは無意識に反応してしまう。これが「運命の赤い糸」に引っ張られているということなのだろうか。幼い頃に求めても求めても叶わなかった母への虚しい思いを、この女にぶつけて砕け散ってもいいとさえ思っている。この女との生活が私の死に場所だとも。「じゃあ、おまえに十年だけ時間をやろう」悪魔が私にそう囁いた翌日、私は持論を曲げて結婚を決意した。
 彼女との暮らしは、それまでの夢想に満ちたものとは大違いで、それはそれは充実した。まるで何かに憑かれたように日々は色鮮やかに過ぎていった。私はそれまで自分の夢想の自由を欲しいままにしていたが、肉体がこんなにも自由になれることを彼女に教えられた。世間的な地位や名声を手に入れたのも彼女のお陰だ。そんな楽しい生活の中で、十年前にした悪魔との約束を私はすっかり忘れていた。そして知らぬ間に精神を病み、そして肉体の健康も失いつつあった。酒でも眠れなくなり睡眠薬を多量に飲まねばならなくなっていた。孤独な暗い青春に慣れてきた私にとって、彼女の愛情はときに重荷であり、束縛であった。
 そんな錯乱したウツ状態に一筋の灯りとなったのは暗いはずの青春の記憶だった。私は青春期や少年期のことをよく回想するようになった。思えば子供の頃から可愛げのないマセガキだった。大人の読む新聞や講談を読みふけり、落語を聞いてはセリフを真似していた。母親に抱っこされたことなどない。「おまえは橋の下で拾った子だ」などと言われて家出したこともあった…ああ懐かしい…あの頃に帰りたい。いま、私には外にあるものは何も見えない。睡眠薬でウトウトしている私の傍で心配しているだろう妻も、私の仕事に期待する世間も。ただ目の前は記憶の中の風景に満ち満ちている。故郷の空と海と松林と祭の笛太鼓、幼い頃に遊んだ子供らがそのままの姿で光の中に遊んでいる。老人は昔のことほどよく覚えているというし、天国というのも子供のようでなければ行けないというが、まだ還暦を迎えたばかりの私の身にも死が迫っているのだろうか?この光の先には何が在るのだろう?いつもそうして風の向こうに母を虚しく求め、何人もの女と徒に戯れ、夢の中の恋人とは永遠に絶縁し、死んだ母の生き写しの妻と暮らして、いつだって私の魂は母に還る孤独な旅をしていたような気がする…これも母に殉ずる運命の赤い糸のせいなのだろう…老いとは生いへの旅なんだ!…そう考えついたとき、全てが真っ白になった。
 
 
 
 
 
 呼吸は止まり、鼓動も止まったらしい。なのに何でこんなに懐かしい温かさだろう…母親の胎内にいるようじゃないか…今日は、そういえば母の命日だ。そしてそれが私の命日になるらしい。2005年10月21日

バラック建築家


 建築家である私が生まれて初めて造った建築は、十一歳のとき近所の友人と河原に建てた粗大ゴミのバラックだった。拾ってきた畳を床にして、網戸と雨戸を壁と屋根にした、たった一畳の空間だったが秘密基地には十分だった。河原には不思議なモノが捨てられていた。建設廃材だけでなく、突然小さな倉庫があって中には真新しいバスケのボールや水道工事の部品があったり…そんなものを見つけては秘密基地に持ち込んでいた。基地の周辺は私たちの背丈よりずっと高いススキの茂みになっており、誰が切り開いたか迷路のような小径ができていた。所々に広い空間があって、ここにも変なモノが落ちていた。爆竹や花火の残骸、駄菓子の袋、メンコやマンガ、エロ本…きっとそこを隠れ家にして子供らは遊んでいたのだろう。私らも秘密基地に食べ物やオモチャを持ち込んで遊んだものだ。その友人が書いていた推理小説を読ませてもらったり、鉄道に詳しかった彼の新型車両の話やパソコンゲームの話…自分の知らないことばかりでワクワクしたものだ。
 ある日、大雨の後に行ってみると畳が濡れてジメジメとしてカビ臭くなっていた。そのときは何となく侘びしい気持だった。ビニールシートでも被せておけばよかったと後悔した。そしてまたある日、台風の去った後に行ってみると今度は跡形もなく基地は消えていた。川の水量がかなり増水したので、どうやら流されてしまったらしい。こうなると、さして悲しいとも思わなかった。もともとゴミ捨て場から拾って造ったバラックだし、何より自然の力には敵いッこない。真実とは、いつもそういう薄情なものだと子供ながらに悟っていた。
 さて、私の建築は今や世界から「ネオ・チャシツ」と高い評価を得ているが、初期作品の頃は雑誌編集者に「バラック建築」と皮肉られたものだ。私から見ると昨今の雑誌に溢れる近代建築は徒に意味が多すぎる気がした。それだったら軍艦や工場、吊り橋のほうが造形として美しい。そしてミイラや廃墟のようにいつまでも残るくらいなら、いっそキレイに燃えてしまえばいいと考えている。その一方、処女作当初から私は古民家の廃材を再利用しており、私にとって設計とは、二つとないイビツな廃材を適材適所に配置することであり、解体業者から刻々と寄せられる情報はこちらの意図とは無関係かつ迅速な判断を要求されるので、まるでオークションのように反射神経が全てであった。しかしそうした「勿体ない」や「仕方ない」が優先される現場主義は大工の職人魂と共鳴することが多く、彼らとの仕事はいつしかの友人との探険ごっこの追体験になった。そして私は敷地を平坦に造成したり、生えていた木を一本も伐ることをしなかったから、そこまでコストをケチらなくてもと言われた。私としてはコストのことなどまったく念頭になく、敷地条件が厳しければ厳しいほど、あの河原のバラックを思い出して武者震いしていたのだ。しかし未だにあのときの暗くて狭くて湿った、何とも懐かしい秘密に満ちた空間は再現できていない。そして何より、私の建てたバラックが、まだ一つも天災によって消失していないことが残念でならない。2005年10月23日


神様のくれた紙切れ


「わしは紙切れなんて何も持ってないから、こうして仕事をくれる人が神様だ」我が家の改築工事に来ていた年配の左官職人が私にいった。私はその「紙切れ」の為に今までどれだけ苦労してきたことか。私はもともとゲームが大好きで、とくに人間を次々に殺していくようなのが好きだった。ある時、ふと思い立って調理師の資格を取ろうと猛勉強した。何故、調理師かというと刃物を合法的にいじれるからだ。人間の肉でなくとも、ケモノの肉を切り刻めるのは魅力的にみえた。だが試験はダメだった。実技はよかったが、法律の細かなことを覚えられなかった。
 私は刃物のほかにも銃にも興味があったから、今度は自衛官になろうと考えた。実弾を使った射撃訓練ができるなんて夢のようだった。ところが、自衛官になるにも年齢制限があることを知らなかった。私の年齢ではもうとっくにダメだった。「あーあ、エアガン士なんて資格あったらいいのにな。プロ・エアガンマーなんて商売があったらなりてー!せめて実技検定かコンテストでもいいんだけどな」しかたなくエアガンで虚しく空き缶を凹ましていたら、例の左官職人がそれを見ていった。「そんなオモチャで止まったもん撃ったってつまらねえでしょう。昔の狩人はホンモノの鉄砲で鴨だの熊だのを仕留めたんだからスゲえもんだ」「狩人も紙切れは持ってなかったんでしょうね」「そりゃそうだ。その代わり神様を信じてたんだな」「カミサマ?」「命懸けってことだ。それがいまじゃ、何でもお上様になっちまった」「おカミサマ??」「一級ナントカ士だの仕事を管理されて、カネにつられて魂まで売り渡してさ。みんなお上の発行する紙切れのせいさ」「じゃあイノチガケになれたら紙切れも、こんなオモチャもいらないんでしょうかね」「女は子供を産むだろ?あれに紙切れなんていらないし、イノチガケだから女は強くなるんだ」「でも男が子供産むわけにいかないでしょう?」「子供じゃなくたっていいじゃないか。このオレをみろ」左官職人の手にしていたヘラがぎらっと光ったように見えた。これもちょっとした刃物だ。やはり男には凶器が必要なのだ。そう気づいた私はヘラではなくホラ吹きになりたいと思った。人の命を奪うことが犯罪者か裁判官にしかできないなら、人々が命のように大切にしてる常識や幻想をブサブサと突き刺してやりたいと、誰も踏み入らない野山をほっつき歩きながら独り考えた。しかし紙切れだの凶器だの、世間への執着も捨てられなければ、世に恐れられる一流のホラ吹きにはなれない。来る日も、来る日も、カメラをぶら下げて何の目的もなく、同じ野山の道なき道に分け入った。そこではたまに珍しい蝶や雲に出会うこともあったが、足を滑らせ沢に落ちて骨を折りそうになったり、食ったら死ぬかも知れないキノコを食べて、死なずにすんで安堵したり、危ない目にもあった。
 三十年後、「130億円の現金を拾った人」として世に知られることになった。それは私がいつもの野山で興に任せて無心に遊んでいたときに発見した紙切れだった。思いもよらぬ拾いモノをした私は、その使い道も思いもよらなかった。2005年10月29日


戦前のアプレゲール


 私がまだ新進作家だった戦前の頃は、まったく愉しい時代だった。田舎者の私には同人雑誌という手段で言説を世に問うことができるなど夢にも知らなかった。私は思いつくままに洋書の翻訳をしたり、「落語は最高の芸術だ」「法隆寺など燃えてしまって構わない」などと言いたい放題。作家同士で「あいつは欺瞞だ、通俗だ」と罵り合ったのも戦国武将の斬り合いみたいに真剣勝負だった。風格とか品位などと文学の空虚な「質」に拘る巨匠たちにも一泡吹かせてやろうとフランス文学やロシア文学を原書で読み漁ったり、彼らが夢にも知らぬような下流社会の底知れぬ生命力を発掘したりもした。私の周りの活字に飢えた若者も中流か上流の出だったが、「質」より「必」を求めるのは同じだった。レコードを聴くにも音質よりも「音必」。ジャズなんてケタタマシイ音楽は低俗だなどと言われようが今聞きたいものが最高だった。巷、つまり公共というのは万人向けの鏡みたいなものだからそれが最先端に遅れをとるのは仕方がないとしても、その鏡が権力で曇り始めたのは、思えば戦争が起こる数年前からだった。大新聞には一面の大広告ばかり占めるようになり、肝心の社説は隅に追いやられ、反戦を訴える言論なんぞは完全に無視されていた。ラジオも宣伝ばかりで、かつての文明開化の活況はなく、野球や相撲の中継は白け、劇や映画も安上がりに使い回された。これでは文化の死だ。私は何度か大新聞社にそうした時評の原稿を持ち込んだが見向きもされなかった。私は部屋に籠もって孤独に小説を書いた。戦国時代のカビ臭い文献資料の中の方が、同時代のメディアより、よっぽど戦時中だった。
 ロレンスの名作の翻訳書に猥褻罪や共謀罪という起訴状が出た頃から言論統制も厳しくなった。本来、平和を喧伝するのが仕事であるはずの言葉の職人たちが、戦争を肯定する政府に反抗もせず、一緒になって無知な世論の激情を助長している光景に唖然とした。もはや書籍も手に入れられないほど戦渦が広がってくると私は白痴のように女と戯れた。普段なら言葉すら交わせないカフェの女給とも寝台の床なら私は能弁だった。乳飲み子のように言葉の匂いだけを嗅ぎ、耳を澄まして反応していただけだった。「どうせ死ぬんだ」それが口癖になった。目の前に明滅する鮮烈な感覚が現実のすべてであった。恐らく戦場もそうだったろう。
 私がそうして「公」の現実から逸脱している間も、砂上の楼閣の住人たちは呑気に花見酒をしていた。戦況は楽観できるはずもなかったのに、権力の犬となっていた。その結果がご覧の通り。終戦を迎えた今になって大新聞社は私に小説連載を依頼してきた。「代表的な戦後派作家」などと称して。ウソをつけウソを。私はいつだって戦中派なのだ。2005年11月11日


永久戦犯者の遺言


「アンタねー、ソコ、ちっとも気持ちよくないわよ!」そんな若妻の不満に懸命に応えようとしていた米国駐在の頃は、思えば平和だった。私が防衛庁長官になった頃から夫婦の会話は成り立たなくなっていった。「ねー、アレ買っていい?」「いくらだ?」「五十億よ」「そんなのムリだよ」「そんなら入水自殺して死んでやる!」「……」
 そんな時、孤独な私を慰めてくれたのは「翼の会」の仲間たちだった。「やべぇよ、よってたかって大国から経済の締め出し食らってるぜ」「しかも、この負債じゃ首もまわらねぇ…こうなったら中国を攻めるっきゃねえだろ?」「そりゃあ、いいアイデアで。そんならまずはオリンピックのある北京を落とすなんざ、どうで?」「そんでもってIT先進国のインドに手を伸ばせば資源はいくらでもあるぜ」「でもさ首相はウンとはいわないだろ?」「そんならオマエが首相になっちまえよ。あんなパソコンもいじれねぇポンコツ野郎は総辞職させろ!」「そうだ!そうだ!」「でもよ天皇をどう説得する?」「天皇?そんなレッサーパンダかオオサンショウオみてぇなもんにお伺いたててどーする」「じゃあ議会をどう通すんだ?経済界には波及効果も説明しないと」「そんなの、ちょれーぜ。オレが各界のドンに手え打っとくからよ。メディア業界さえ牛耳れば国民の顔色なんざ何色にでもならあ」
 仲間と連んでいれば、どんな夢想も実現できるようなポジティブな気分になれた。今思えば、麻薬を吸い合う仲間のように私らは軍備の話に酔っていた。迎撃ミサイルや戦闘機の破壊能力を議論することは秘め事のように愉しかった。妻との関係が冷戦状態にさえならなければ、ああまで戦争中毒にはならなかったろう。そして今、その夢から醒めて裁判にかけられている。まさかこの私がA級戦犯者になるとは!
 私は牢屋のなかで独り考えた。何で私だけが裁かれるのか。私は犠牲者だ。みんなで私をダマしたんだ。お人好しの私を戦争の責任者に祭り上げて、自分らは無責任に権力の遊びを楽しんでたくせに!私は牢屋の中で、かの有名な独裁首相の残した言葉を噛みしめていた。
「この戦争は自衛戦であり、国際法に違反せぬ」
「敗戦の責任については受託ではなく、進んでこれを負荷する」
「生きて恥をさらすより死すべし」
 彼は帝国の教祖で、裁判は基督受難の茶番劇みたいだと思った。確かに何かの犠牲無くしては進歩はないのかもしれない。しかし私の死刑が一体、何の犠牲になるのか?これで永久に戦争はなくなるのか?
 数日後、判決は言い渡された。「君に死罪を言い渡す。執行は一ヶ月後とする」「私に三ヶ月の執行猶予を下さい」「何の為にだ?」「遺書を書きます。同じ歴史が繰り返されない為に真実を書きます」「シンジツ?君のせいでこんなに多数の死者が出たのに、それ以上に何の真実があるのか?」
 結局、執行猶予は与えられなかった。一ヶ月後に死刑は執行される。今さら何を書いても私と一緒に焼き払われるだろう。それでも私は自らを傷つけて出した血で便所の落とし紙に書きだした。「…人は神ではないからマチガイを犯す。神になれる人がもしいるとしたら、それは自分の過ちを最も恐れる臆病者のはず。しかしそんな者がどうして国家を自営できるだろうか?ならば国家は永久に戦争を防ぐことは出来ない。ヒモの切れたバブルは、何がそのバブルを膨らませ、何がヒモを切ったか?そこを解かねば戦争を裁いたことにはならないだろう。私は愛しい妻と、優しい仲間たちの戦争責任を問う。そして彼らに一切の疑いを持つことを恐れた私自身の愚かさの責任をとって、ここに重刑を受託する」2005年11月13日

テロリストの駆落ち


 「へぇー、こんなトコで働いてんだぁ…」私が会社を辞職して郊外の老人ホームに勤めるようになった当初は、彼女も都心のマンションからここに遊びに来てくれた。だがお洒落なデートスポットでなく近場の里山公園でアオカンするようになると彼女は愛想を尽かして連絡は途絶えた。その頃から私は酒に浸り、部屋に閉じこもって聴く音楽はヒップホップになり、喧嘩や痴漢、器物損壊で菊の御紋のお世話になるようになった。保険制度が改定されるたびにホームの経営状態は悪化し、所得税や消費税が上がるとギリギリの生活となった。これ以上求人のない田舎には住めないし、求人の多い都心は家賃が高くて住めない。私は転職する意欲も失い、郊外で進退きわまっていた。
 そんな私の前にヒーローが現れた。ズシンズシンとウーファーを響かせた外車に乗り、ブランド品とキレイなビッチをアクセサリーにしてBボーイを体現していた彼らのバックには暴力団があった。ハードボイルドに出てくるイメージと違って彼らの手口は知能犯だった。「今どきオレオレ、なんて言ったって大学出の団塊の世代には通じませんよ」ホームで培った経験と話術が彼らに認められると新車のジャガーを与えられ、幹部の会食にも同行を許された。銘刀、関の孫六を触らせて貰ったり、指を何本も詰めた男から陽明哲学とやらを説教された。「西郷先生や松陰先生みてぇにな、男ってのは行動が肝心だぜ。それ以外に男を証明する手はねぇ。オレもこうして指を詰めながら男を上げてきたんだ」彼らの理屈は滅茶苦茶だったが今まで付き合ってきた連中よりは確かに行動に筋が通っていた。「おい、ついに行動の時がきたぞ」「いつ、どこでやるんすか?」「一週間後の日米首脳会談だ」「どんな行動を?」「自爆テロさ」「誰がやるんすか?」「オマエ、愛車で突っ込め」「…イヤッすよ!」「じゃあ、このオトシマエはどうつけるんだ」その明細書は今まで豪遊した総額一億円だった。「ボクの命は一億なんすか」「オマエが一生働いたって稼げねぇだろう?今どき何処の保険入ったってそんな大金下りねぇ。それにうまく行きゃア永久に英雄だ」「特攻隊員みたいにですか」「あんな大勢じゃ靖国に行かなきゃ写真も見れめぇ。単独行動だらア歴史に名が刻めるんだ」
 その明くる日、五年前に連絡の途絶えていた例の彼女から携帯にメールがきた。「まだ結婚してないんだ?」「うん。高望みしすぎてたんだと思う。今は田舎で平凡に暮らしてもいいって思う」「実は今オレ、殺されそうなんだ。一緒に逃げてくんない?」私はイキサツを何もかも彼女に話した。「日本にいたら危ないよ」「じゃあフランスに逃げよう。あそこなら受け入れてくれる」「近代的な国じゃ、すぐ捕まるよ。チベットの山奥に逃げようよ」

 駆落ちして一年が経った。今、彼女のお腹の中には私の子供が宿っている。こんな原始的な暮らしじゃ避妊のしようがない。思えば今まで私はゴムをつけずにしたことは一度もなかった。子供ができるのが恐かったのだ。彼女が愛想を尽かした理由はそこだった。そう気づいたとき私は男の決心をした。指の数より多く行動してやろうと。2005年11月16日


ウルトラヘブン


 ゴーーー!!「何、コノ音!?」「あ、そっかア、初めての人はみんなビックリするけど、あたしはもう慣れちゃってるのよネ」彼女はバツイチで六歳の息子と両親の元で暮らしていた。その住宅地は米軍キャンプと隣接していた。私はテレビ局のディレクターでマンションも都心だったから、地球の裏側の事情には明るかったが、わずか数十キロ離れた場所でこんな軍事活動が行われてるなんて夢にも知らなかった。「トウダイモトクラシだね」「何ソレ、何かの暗号?」「毎日毎日こんなんじゃタマんないでしょ」「一応ね、防音工事とエアコンも設置してくれてんのよ。けど天気がいいのに閉めッきりにするワケにもいかないでしょ?それに子供がいるし…」息子君はアトピーと喘息の持病があった。
 ある日、職場のビルの窓から街並みを見下ろしていたら、その中にポッカリと空き地があった。「アレ何だろう?」翌日、出勤前に車で近づいてみた。かなり広い敷地だが高い塀があって中は覗けない。ときどきプロペラのような音が向こうから聞こえる。「まさかこんな都会の真ん中に基地があるわけないよなア」調べてみると、そこの近くには防衛庁本部があって近々移転する予定だという。「また高層ビルが建つのかア…ますます燈台元暗しだなア」街が静かになるのはいいことだけど、原子力発電所とか終末処理場みたいに当事者以外にリスクが肌で解らなくなる。そこを照らすのが公共メディアの仕事ではないか?私は考え抜いた提案を上司に相談した。「なにイ?自衛隊駐屯地と米軍キャンプ内に報道スタジオをつくれだと?」「そうです。政治もガラス貼りの時代です。我々には監視する義務があります。それがホントの安全保障でしょう」「そんなのアカハタじゃないか!」
 一年が経ち、私は例の彼女と結婚して家族と同居していた。ラジオの寄席を聞いていたときだった。キィーーーン!!!「おい、音速超えたゾ、いまの!」肝心の所で音は掻き消された。米軍再編されてから航空機の離着陸が頻繁になった。彼女の父が言った。「昔はビデオの録画中に、ザーーー…なんてネ。いまはケーブルテレビになったからいいけど」そのテレビでいま息子君が『ウルトラマン』の新番組を見ている。「懐かしいですネ」「わしの時代は特撮はまだ無かったよ。ずいぶん大きくなってから『ウルトラQ』が始まったんだ」見ていると警備隊も肝心のヒーローも出てこない。「我々の頃のウルトラマンは救世主でしたよネ」「まア、赤銅鈴之介も宮本武蔵も、ヒーローは絶対に負けないものだったネ」「最後には絶対に勝つとわかっていてもカラータイマーが鳴り出すとハラハラするんですよね」ところがいつまで見ていても敵も味方もわからず、やたら建物は爆破され、人々は薬物で犯され、まるで地獄絵さながらのまま番組は終わってしまった。「ねぇコレ何が面白いの?」真剣に見ていた息子君に聞いてみた。「別に面白くないよ」「じゃあ、何で見てんの?」「さア…生きててよかった!みたいナ?」そのとき番組のタイトルが出た。「あ、それでウルトラヘブンっていうのか」2005年11月17日


ブルーワイルド演じる


 ミュージシャンとして一世を風靡した私はかつてレコードでは誘惑するような卑猥な表現をわざと使い、ステージでは楽器を派手に破壊して聴衆を煽っていた。電気で増幅した爆音は彼らの眠った本能を揺り起こし、その空間が母の胎内のような一体感を生み出していた。それを「天空の教会」と名付けていた頃は、バンドの音は夫婦仲のように密やかな会話ができていた。聴衆とも祈りのように深いコミュニケーションができていた。それが私が不能になった頃から変わってしまった。いつものように演奏し始めても音は出ているのに魂は沈黙したままだった。ペダルを踏んづけて必死に音を奮い立たせようとすればするほどバンドから孤立した自閉的な演奏に陥った。そんなときバンドには「勝手について来い」という態度でいたが、そんな私にソッポを向くメンバーはいなかった。私が押しも押されぬ人気者だったからだ。「こいつらはオレの昔のヒット曲と派手なパフォーマンスしか求めてないんだ」私はそのうち顔のない聴衆にまで不信感を抱くようになった。
 あれはイギリスのポップフェスティバルのときだった。いつものように舞台に上がる前にMC担当とメンバー紹介の段取りをしていた。「オレの名は…そうだナ、ブルーワイルドエンジェルだ、青ざめてワイルドな天使。そう言っといてくれ」私は自分の名前に嫌気すらさしていたからフザケてそういった。演奏はやはりスリルのない演技だった。「そのうち調子が出てくるから我慢してくれ。朝までやってもいい…」二時間の懸命な努力が徒労に終わったとき、しかし聴衆は割れるような大歓声。それがかえって私を孤独にした。「我慢してくれてアリガトウ、またいつか会おう。平和と幸福を祈るよ」私は愛想よく大歓声に応えたが一刻も早くそこから立ち去りたかったから楽器を放り投げてステージを降りた。
 それから二週間経った夜、私はワインとLSDでかなりラリっていた。「オマエは最初から手の届かぬ相手と性交していたようなものだ」三年前にスペインの古城の壁画で見たドラゴンが夢に出てきた。「死刑台の電気椅子のようにオマエは電気楽器に魂を抜き取られていたのだ。だから同じように電気に魂を吸い取られた聴衆もオマエの魂の音を浴びて喝采していたのだ」私はうつろな頭で考えた。(それじゃ、我々は皆、被害者だ。エレクトリックの魔物の…私は、あのロバートと同じくクロスロードで悪魔と密約を交わしてしまっていたのか)ドラゴンは人間の男性器に姿を変えていった。「オマエはオレとだけ対話していればよかったのに百万の大衆に魂を売り渡したからそのデカイヤツを沈黙させてやったのさ」
 翌朝、目が覚めたとき私は二度とステージには上がらない決心をした。「♪グッバイ、エブリバデ…」そしてデビュー当時よく歌ったジョーの唄のように忽然と姿をくらました。後始末はすべてガールフレンドに任せて、誰も私を知らない土地で静かに暮らすために。そして、いまメキシコに向かう車中で私は一冊の本を手にしている。日系二世の継母アヤコがくれた日本のコメディアンが書いた本だった。「アソビセムトヤウマレケム」とはどういう意味?と聞くと彼女は「ボーン、トゥ、ラブ」と教えてくれた。ついでに「ボーン、トゥ、メイク、ミステイクス」とも。「生きてるついでに男女を演じてるのよ」そういって私を救ってくれた彼女こそ、まさしくブルーワイルドエンジェルだった。 2005年11月21日

七つの子鳴き別れ


 焼け跡が残る終戦間もない頃、私はフラフラと日雇いの仕事で食いつなぎながら女の部屋に転がり込んでいた。「しかしなんで女ってイッてるとき泣くんだ」「泣いてなんかないよ」「さっきまでエヘンエヘン泣いてたぜ」「泣いてないって。ほら涙なんか出てない」「じゃあカラスみたいに鳴いてたのか」「ひッど、まるで動物じゃん」「ホントにアニマル化してたじゃん」「そういうアンタだってウマかウシみたいに…」そのときオギャーーーーと傍で赤ん坊が泣いた。むろん私の子ではなかった。父親は七つ年下だったというから「七つ泣き別れ」の迷信は当たるらしい。この女のことだから父親も私のようにだらしない男だったのだろう。「ほらほら、お乳欲しがってるぜ」「わかってるよ。あーあ、あたしも赤ちゃんに帰ってオッパイ飲んで寝てられたらなー」「やっぱカラスじゃん」「なんで?」「♪かーえろー、かーえろーってカラスは鳴くんだろ」「ばーか」「それにオッパイなら今、オレがやったじゃん」「は?アンタのアレ?」「ちょうど握り具合も哺乳瓶みたいだったろ」「オッパイはあんな苦え味しねーよ…」オギャーオギャーーオギャーーー。「そら早くやれよ。可哀想に真っ赤な顔して泣いてるぜ」「違うよ、ただ鳴いてんだよ」「あ…オマエがイッてるときみたいにか…」女が赤ん坊を抱き寄せて乳房を出すと赤ん坊は眼をつむったまま夢中で乳首に吸いついた。「オレっていつもなんか言ってる?」「寝言?」「違う。ヤッてるとき」「ブツブツ意味不明なこと言ってるときあるけど」「ああ、あれは孔子様とお釈迦様の教えだよ。女ってどうなの?イッてるとき記憶ってある?」「あるある」「でもときどき変なこと言ってるぜ」「え?どんな」「話があちこち飛びまくってシリメツレツ」「ふーん…じゃあアンタも念仏しながらイッてんじゃないの」私は生前、母に自分が乳幼児だったときのことを聞いていた。母の記憶によると私はあまり泣かない子だったが激しく泣くときは大抵オムツがグッショリだったという。食うときより出すときのほうが元気というのは今もそうかもしれないと思って女に聞いてみた。「オレってMだと思う?それともSかな」「どっちかっていうとMじゃない?逝くときもだいたいアンタ下じゃん」女は赤ん坊を離して白い乳房をしまった。「ねぇお願い!」私はお祈りのポーズでいってみた。「どーしたの?急に女の子みたいな声出して」「イジメて!」「なに突然、ばっかじゃない!?」「そうそう!もっともっと!」「ばーーか!へんたーーい!死ね死ねゴリラ!」一緒になって面白がっていたら、オギャーーーオギャーーーー!!さっき寝た子がまた泣き出した。「そら、今度はメシじゃなくてオシメだとヨ」女はかったるそうに赤ん坊のオムツを開いて股を拭いた。オギャー!オギャー!オギャー!「あんまりかまいすぎると、この子もアンタみたいにマゾになっちゃうかもね」赤ん坊は万歳の恰好で口を大きく開けて首を左右に振り振り泣いていた。「でもさ色っぽい顔で泣くね、この子。オメエさんよりずっとベッピンだ」「あたしの方が泣きたいよ。そんなにベッピンならアンタが世話しなよ!」「それよりオレが世話されてーや」「あたしがさっきしてやっただろ!」「ちがうよ、ホントに老後の世話だよ」泣いたり笑ったり忙しい家だったが、明日の食い扶持のアテはまるで無かった。2005年11月30日