狂 言 
 忍 池 抄 



 (一) (二) (三) (四) (五)

からみ みもと とういそくみょう うけ けんざい いのち ちよろず ずいひつ つつが がっかい いせいしゃ やまいじょうず ずくにゅう

からみ



私、中国人の留学生です。日本でアニメーション勉強しています。日本のアニメ技術、世界で最高と思います。ですが、日本の中国に対する論説、首かしげたくなります。先頃、中国が人工衛星、破壊実験しました。ある新聞の論説に中国の役人、口そろえて「中国は脅威ではない」というのが「信頼できない」と書いてありました。しかし、どこの戦士が自分の手の内明かすでしょう?そんなのキャプテン翼にもキャプテンハーロックにも出てきません。私、マンガでしか知りませんが、かの有名な剣術士、宮本武蔵だっていろんなズルい手、使ったいいます。わざと時間に遅れて相手いらつかせたり、『北斗の拳』の「お前はもう死んでいる」じゃないですが、「お前は負けだ」なんてハッタリかましたり。勝つためならどんなことでもやる。忍者なんかも煙幕攻撃とかいろんな秘術、駆使したといいますし。夫婦喧嘩だって今は相手のケータイさぐり合う情報戦の時代です。「浮気してるでしょ!」「してないよ」だけで夫婦の間が平和に治まるならこんなラクなことありません。それとも日本の家庭、それで治まるのでしょうか?そもそも夫婦喧嘩しないんじゃないでしょうか?「中国は脅威でない」というのは「中国は世界が脅威でない」といってるように私、聞きます。人は他人のこといってるつもりで自分のこといってるものですから。逆に中国が脅威は、それにこだわってる方じゃないでしょうか?アメリカとか。そんなに脅威なら相手に確かめるまでもなく、冷戦時代みたいに密かに防衛策講じればいいです。痴漢対策でスタンガンや少林寺拳法身につける女性のように、相手が人工衛星で破壊してくるならこっちも人工衛星で監視すればいいです。日本は地震や津波、気象情報のリモートセンシング技術進んでいると聞きますから、それ防衛で応用すればいいです。それ軍拡だ、いう人いますが、正確な情報無しに非難したり、攻撃するからいつの時代も悲惨な歴史繰り返されるです。「浮気なんかしてない」という言葉の裏、読むところから平和、築かれると思います。「信頼できない」と非難してるだけ、それ絡み合いにもなりません。偉い人、少しはガンダムでも勉強してほしいものです。 2007年2月13日

みもと



わたしはだれも知らない有名人。どういう意味かというと、わたしの裸をネットサイト上で知る人は数百万人もいるけど、周りはだれも知らないということ。そこには顔は写ってないけど、アソコはちゃんと写ってる。しかも、いつもしてるようにキレイに毛をそって、生まれたままの姿で。そしてわたしのお気に入りの、おヘソのピアスもちゃんと写ってる。ふつうは人に見せるために耳とかにピアスするけど、わたしは自分が見て触れないとイヤ。それに服はぬいでもピアスははずさない。お守りみたいに、はだみはなさず身につけていたいから。だけど、毛をそってることはもちろん、ピアスのことも学校の友だちも家族も知らない。知るはずがない。学校でも家でもわたしはいてもいなくてもいいようなものだから。友だちはいっぱいいるけど、プリクラみたいにぺらっぺらな関係でしかない。学校でわたしが一番ホッとできるのはトイレの中くらい。家に帰っても家族はわたしが髪の色を変えたことすら気にもとめない。一番ホッとできるのはやっぱりトイレかおフロ。そのプライベートゾーンでピアスをいじったり、そった毛のところをなでてみたりするのが至福のとき。そんなわたしの幸せをわざわざだれかに知ってほしくて、ネットにのせるのかもしれない。だからおカネのためでも有名になりたいわけでもない。そうせずにおれないのだ。何でわたしはそんなにわたしを世界に知らせたいのだろう?世界とつながっていたいならケータイでみんなとつながってるのに。それじゃもの足りないのかな?言葉とかお金だけの関係じゃ。そういえば、ニュースで日本の子供の三割がコドクを感じていて、世界でもダントツだっていう。この子たちもわたしみたいなんだろうな。「タダより高いものはない」っていうけど、わたしのモロ画像のせいで商売あがったりのAV女優とかもいるらしい。けど、結局、そういう人たちのほしいものはブランド品であったりお金で買えるものにすぎない。その点、わたしのほしいものはそういうものじゃない。何一つ隠さず、ありのままの姿で世界に君臨する快感。たとえ一時でも、その絶頂感がほしいだけなのだ。それはきっとわたしの身元がほしいんだろう。たとえ裸であっても、王様の。 2007年2月16日

とういそくみょう



私は芥川賞作家、となるはずだったが、辞退した。「人がやろうというのに受取らぬとはけしからぬ。恥をかかされたこっちは迷惑だ」そこの重鎮はそういったという。ああ、あの本を世に出すんじゃなかった。つくづく快楽はこっそりとやるものだ。所詮、人々がほしいのは見世物であって、そのヤジ馬の先頭に立つのがジャーナリズムにすぎない。天下の芥川賞といえどもヤジ馬ショーの端くれにすぎない。ところが私は近所の火事すら見物したことがない。そんな私が賞をもらうのはお門違いと思い、辞退した。自分にはその素質はないが、人間のヤジ馬根性は面白いと思う。大火事があって、それを面白く伝えてくれるヤジ馬がいたら、そういう人をジャーナリストと呼びたい。「はいった!はいった!ごーーーーーる!」みたいなのは一番、芸がない。見りゃわかるよ。見てない物を、見た者よりも鮮やかに見せる。そこに独自の表現が生ずる。だから私は落語とかラジオが好きなのだ。そんな私から見るとやっぱり芥川賞はいただかなくてよかったと思う。かの太宰治は気が狂うほど第一回受賞にこだわったというが、あれも彼流の「サーヴィス」だったにちがいない。戦後は石原とか村上が時代の喝采を浴びながら殴り込みした文壇も今は風化著しい。馬鹿の一念ではないが、賞を与えられると人間もそのように生きていくから不思議。ポストが人をつくるのだ。私はそのポストを嫌う。何だっていいじゃない、肩書きなんて。アインシュタインがうまいこと言っている。物理学者になるには学校を出たら靴磨きになれと。私にいわせれば文学者になるにはヤジ馬になれだ。そこにトビ職とか芸者がいたっていいのに、それがみんなメガネかけたカネ持ちの近眼ヤローとなったらつまらないねえ。最近はハタチくらいのおねえちゃんが芥川賞とったりしているらしいが、賞を背負うには若いんじゃない?やっぱり賞というものは新人に与うるものではない。何十年脈々とやってきた人にこっそり敬意を表するものだ。それをパッと出の人にハイどーぞ!次の日から鼻高々、片手ウチワ…一番困るのは本人だよ。まぐれ当たりが次も次も当たるわけがない。大衆の方も最初は買いかぶるだろうが、そんなのも三年でしょう。熱しやすく冷めやすいのもヤジ馬。飽きられたら最後です。不思議なのは、私以来、芥川賞辞退者が出ていない事。前もって辞退しないか確かめてから受賞させてたりして。これじゃあ、「もらってもらってる」わけだ。私に「けしからん」といった人がそれ知ったら泣くよ。まあ、メディアの環境が変わってるのだから無理もない。戦時中まで出版界は政界に対抗しうる唯一の言論機関だった。いわば第二の権威。今でこそテレビやネットがあったり、百万部の時代だが、あの頃の基本は三千部。しかも再版なし。それでも発禁になるということは、いかにその影響力が大きかったか。売れているからではなく、売ってはならぬから、かえって興味もそそられた。今なら発禁なんてせいぜい罰金とられて出版社が損だらけだから、そんな危ないネタは扱わぬ方がよいと、よけいつまらなくなる。誰かブッシュかライス長官に「けしからぬ!」といわせないものかネ?それこそ世界の誰もが見たい見世物だろう。?? もう言わせてるのかもしれぬ。ビンラディンだっけ?有名だけどいまだに消息不明。ホントにいるのかネ??それじゃあ、相手としちゃ、怒りのぶつけようがない。作者不明の壁の落書きに怒ってるようなものだ。そういうネット上の落書きが朝日よりもジャーナリズム宣言してる十億総ヤジ馬世界なのかもしれないなア。手間もいらずデマもテーマもメクラ滅法タレ流されているとしたら、もう小説なんて無用の長物でしょう。一発の核爆弾でアッという間に都市が全滅。戦争が始まる前に終わってるようなものだ。「ペンは剣より強し」なんて悠長なことはいってられない。求められるのは当意即妙の機転だけ。いいかえれば「The Farce is mightier than the force.」ブンガクもストリップショーになるしかないな。デタラメだっていいのだ。戦争より面白ければ。イヤ、面白くないとヤバイのだ!何せ、芥川賞はあの戦争中パッタリお休みだったのだ。ペンは何一つ剣に勝てなかったではないか! 2007年2月20日

うけ



あたしはパートやってる30代主婦。経済のことはチンプンカンプンだけど、日銀が金利を上げ下げしても、あたしんちの家計には何の影響もないことだけはいえる。それって、パンクしたタイヤにえっちらこっちら空気入れてるようなもんだ。傍目八目というけど、ああいう難しい政策きめる人の中にも、あたしらみたいにおバカなのがいたほうがいいんじゃない?あたし的には今の日本経済って末端冷え性みたい。あるいは脳梗塞になりそうなメタボオヤジ。要は大動脈ばかりに血がたまってて、先っぽまで巡ってない。そういう体質を改善しないで懸命にポンプ押したって、よけい血圧が上がるだけでしょ。「経済成長!」なんていってるうちに突然死ぬよ。イザナギ景気がイマイチ景気なのも、痒いところに手が、いやカネが届いてないからだ。一体、どこにカネはたまってるんだろう?CTスキャンできたらいいのに。旦那みてて思うのは、日本はカイシャ人間が多いこと。会社なんて単なる看板じゃん。買収したり、されたり、合併したり…コロコロ変わる。だのに恐竜みたいにデカい顔して人間を喰いものにしてる。人間の方も自ら喰い下がって必死にそのネームバリューを守ってる。自分の健康より会社の看板が大事みたい。日銀がいくら利上げしたって、その影響は全部、この恐竜が呑み込んじゃう。人間にまでその栄養がいかない。これじゃ子供だって産む気もしない。だけど、旦那に会社なんか捨ててフリーになっちゃいなよ!ともいえない。あーあ、隕石でも落ちてきて恐竜絶滅させないかなあ。あたしの人生が有卦に入るのはいつのことやら。 2007年2月22日

けんざい



わたしは五十になる今日まで何人の男を愛したんだろう?わたしの好きになる男は決まって結婚に向いてない人だったためか?いまだにわたしは独身。どうしてわたしはダメ男ばかり愛してしまうのだろう?それがようやく最近わかってきたのだ。九十近い両親が二人とも健在で、その介護をするようになって気づいた。父こそ、ダメ男そのものだった!小さい頃は家にほとんど不在だったからわからなかったのだ。わたしの探していた恋人はこの人だったのかッ!実にショックである。そんな父に長い事、困らされてきた母も最近、介護認定を受けた。二人の老人を抱えて、ますますわたしの結婚は遠のくばかり。あーあ、あの時のあの人と籍入れちゃえばよかったな…。幾人もの面影が脳裏をよぎる。でも、どの男と一緒になっても、きっと母のように寂しい運命だったかも。それに比べれば、今はとっても幸せ。わたしがいないとあの人たちはまるでダメなんだから!自宅での介護は体力的にも精神的にもラクじゃないけど、家族水入らずってやっぱりいい。随分、遠回りしたなあ。思えば、わたしは何を必死に頑張っていたんだろう?恋愛にせよ、仕事にせよ。遊びですら、幼い頃になくしたものを探していただけだった気がする。それらはすべて母に愛されたいという願望の代償だった。もっとも愛したい人を愛せないことへの当てつけだった。女性としてだけでなく、人間としても母に認められたい一心でガムシャラに走ってきた。気がついたら、周りには誰もいない。両親が逝ってしまったら、独り残されるわたしはどうなるんだろう?もう当てつける相手もいないし、頑張る必要もなくなる。そんな張り合いのない生活に耐えられるだろうか?やっぱり、わたしにはサンドバックみたいにパンチを受けとめてくれる人が必要だ。完全に独りぼっちになったわたしは案外、あっさり結婚するような気がする。ずーっと年下のダメ男と。「わたしがいないとあの人はまるでダメなんだから」それでこそわたしの反骨精神も健在だ。 2007年2月23日

いのち



私は狼を飼っている。つねに心のオリの中に閉じ込めている。それを一時、野に放つと大暴れする。それで反省して、また閉じ込める。また野に放つ。するとまた大暴れ。ふつうは、それを繰り返しているうちに年老いて大人しくなるが、私は若い頃から二十年も閉じ込めっきりにしたため、狂犬のごとく、自らをも殺しかねない凶暴さに困り果てていた。いくらオリの中に閉じ込めても手に負えない。私は睡眠薬の注射を自分の体に打って、一時、眠りにつく。しかし、また覚醒すると狼は狂いだす。全く、バカは死ななきゃ治らない。この狼はしかし、作文が好きだった。私がペンを握ると不思議と狼は大人しくなった。私に夢中で書かせるのだった。それも何晩も眠らず、今度はその愉しみを貪る。狂犬は何をさせたってクレイジー。お陰で私は眠気と闘うために今度は覚醒剤を致死量の何倍もかッ込まねばならない。カァーッ!と冴え渡る。ドーッ!!と書きナグる。頭は狼でも体は人間だから寝ないとマズいッてんで、今度は睡眠薬とアルコールを同時にかッ込む。ちょっとウトウトするが、そんな都合よく体は寝たり起きたりしてくれン。いつしか文字も書けぬくらいフラフラに。オリよりも薬はオリだった。命を縮める。死にそうになりながら私はフラフラの頭で考えた。「これからはデジタルに生きよう。自分はクレイジーだと認めよう。それを人畜無害な文字のオリに納めよう」と。あたかもウラン濃縮して核燃料を抽出するかのように、私は書斎で狂気を濃縮抽出した。思えば、私の波乱の人生はアナログだった。はみ出したまま歪んでいた。いや、いかに豪快に歪ますかに愉悦さえ覚えていた。デジタルに生きるとは、例えば写真を何万もの画素に分割して、その一つ一つに何万もの色を塗りわけられるように、私が見るもの、思うもの、欲するもの、好くもの、嫌うもの、憎むもの、呪うもの…すべてが何万もの観念に分割され、何万もの言葉に変換され、それを自由自在に組み替えられる、ということ。ここには一切のはみ出しも歪みもない。じっと黙ったまま、すべてがクレイジーのままサクレツ。これは核兵器というより、原発の原理。かくして、狼少年だった私は狂言師になった。言葉は薬より薬だった。むろんオリよりオリだった。命を縮めることのない。 2007年2月24日

ちよろず



私の趣味は地図を眺めること。当てずっぽうに眺めることも楽しいが、最近はカーナビのようにランドマークを入力するだけで画面上にパッと表示され、縮尺も自在に変えられるので大変重宝している。どう使うのかはわからないが、航空写真まで写し出される。そうなってくると、地図がなかった時代の人々の地理感覚というのが懐かしい。よく「富士見通り」とか「富士見町」という地名があると、昔はここから富士山がよく見えたんだろうと思う。地上から目立つものがランドマークになっていたのだ。地理の話を歴史に置き換えてみると、我々が一般に知る歴史上の事件、例えば大化の改新とかはランドマークみたいなものだろう。その時代の人口がどれほどだったかはわからないが、その他の人々は歴史にはほとんど記されていないのだ。それは歴史が統治者、つまり勝者の歴史だからだ。ということは、地図のなかった時代の地理感覚でしか、我々は歴史を知らないことになる。戦国武将の生き様からその時代を描くという小説は多い。その場合、人物というのもやはりランドマークなのだろう。私が興味を持つのは、ランドマーク以外の歴史。どんな高い山にも麓があるのに、その頂きしか見えないのでは燈台もと暗し。現代日本が自由平等というなら、高い山も麓も同じ平面にあり、貴族も平民も同じ座標上の点にすぎない。それは歴史も詳細な地図を持ったことを意味し、あらゆる既存の価値がもう一度、正確に測量される必要があるといえる。例えば、美しいはずの富士も真上から見ればデキモノみたいに見えるし、もっと目を凝らせば、今まで目に入らなかった新たなランドマークが発見されるかも知れない。こういうフラットな価値観がもっとも要求されるのは、例えば裁判官や医師だろう。異常な犯罪や特異な病気というのが新たな歴史のランドマークなのだ。それは誰に起こるかわからない。だからこそ、その千万の命を簡単に切り捨てたり見捨ててはならないと思うのだ。新たな地図づくり、いや、歴史づくりのために。 2007年2月25日

ずいひつ



私は私小説家。最近は私事を書いても本が売れないので困っている。何か面白い事はないかと身辺を探していたら、これは私の事ではないが、先日、新聞に警察官が下半身を丸出しにして街頭を歩いていて猥褻罪で逮捕されたという記事があった。こういう人の心理とはいかなるものか?露出狂という精神病理で片付けたくない。ふつうの人は服を着たり、肩書きを持つことで安心する。それが社会の一員であるという自覚を与えるからだ。それが何かのはずみでハジキ出されてしまうと、途端に不安になり自殺したりもする。借金、病気、いじめ、リストラ…2007年問題もそうだろう。団塊世代は総リストラされて大丈夫か?その点、フルチン男は大丈夫だろう。ハミ出したくて露出させたんだから。先日、これもラジオで耳に挟んだんだが、フランスに旅行にいった人が、街ですれ違った女性に声をかけられて振り返ると、いきなり着ていた毛皮のコートの前をパッと開いたという。すると、中はすッぽんぽんだったという。これも一種の露出魔ですな。こういう心理は誰にでもあるのかもしれない。かくいう私だって私事を露出して本にしているのだから。公も私もあったもんじゃない。そういえば、欧州のホテルに泊まると土足であがるのに抵抗を感じて、ついスリッパに履き替えたくなる。日本は内と外をはっきり区別する習慣があるからだ。これは公私の区別といってもいい。だからなのか、日本人は自分の家はこぎれいにしても、都市景観には無頓着。西洋人はアパートの一室ですら半公共だから街角も半私的空間となりうる。だから看板が見苦しいと外させたり、ライトアップに凝ったりする。街も家の延長なのだ。そうなると、コートの下はすッぽんぽんで歩くのも、バスローブ感覚だったのかもしれない。逮捕されたフルチン男もフランス女性のように、ちょっといたずら気分だったのかも。警官という職業も四六時中、街頭に立つわけだから、極度に公共精神が要求される。これは内と外をわける日本人には厳しいのかもしれない。息が詰まって、それで露出狂に走るのかも。小さい頃は私も家の中で王様だったはず。それが大人になるにつれ王様は委縮しがちになり、それでも王様気分を守ろうとして私も図々しく私事を露出するのかもしれない。私小説というジャンルが世界的に特異なのも内と外、私と公をはっきりわける日本文化の特異さなのかも。フルチン男も、私が私事をブッちゃけるときのように精神が昂揚状態だったに違いない。私もよく書きながら神様というより悪魔が囁く。「出せ!出せ!全部出しちまえ!」と。悪魔と神は同じなのだ。アメリカの神がアラブにとって悪魔なように。それが世界統一されるか、日本みたいにカオス状態になる日まで紛争は絶えないだろう。これも小耳に挟んだ話だが、狼の群れの中で育った少女がいるという。こういう人は人間を神にはしまい。神などいらぬか?恐らく自分自身だけが頼りなのだろう。自分が神様。きっと狼も、自然界の生物はみんなそうだろう。フルチン男も極度の孤独から野生が目覚めて「オレは狼だぞ。おまえ喰っちゃうぞ」と赤頭巾ちゃんに近づいたのだろう。最近、多い、幼児虐待とか性的虐待とかも、ありゃ野生化人間の仕業かも。元気な老人が社会から溢れ出したら、こういう危険な人間が増えるかもなあ。あれれ?……私の事なんか何一つ書けないや。いいや、これからは随筆家になろうッと。 2007年2月27日

つつが



血液検査の結果が出た。総合判定が「C」だって!?こんなツツガない私に限ってそんなバカな!と思って詳細に見ると、炎症がその要因だった。炎症とは白血球数で判断するのだが、それが基準値の3500/μlを下回る3000だった。どうりで、その日の夜半に熱が38℃以上も出て、吐気にみまわれた。その日は体が重く、仕事がしんどかったのも、すでに風邪の菌にやられていたのだ。血液の中では白血球が死闘を繰り広げていて、その戦死者が多量に出ていたのだ!ああ、この結果がすぐわかっていたら、あの日は速効、早退したのに。だが、あの晩は気分もハイだった。アソビもいつもより乗っていたし。高熱と吐気に襲われたのは、そのずっと後、就寝してからだ。まア、この一時的な炎症は問題ないとして、血中脂質が「B(軽度の異常だが心配はない)」というのは何だ?よくみると中性脂肪が26mg/dlと適正範囲30〜149を下回って、HDL、いわゆる善玉コレステロールが78mg/dlと男性の適正範囲40〜77をギリギリアウト。ネットで調べてみると、これは全然あっていいのだ。むしろ、善玉と悪玉のバランスが大事らしい。計算すると私の場合、78:102だった。これが40:140だと動脈硬化や心臓病のリスクが高いとか。そして総コレステは高すぎても低すぎてもリスクが高く、かえって低い方がガンやウツになりやすいという。セロトニンという脳内物質が心の不安を取り除いて希望を持たせるらしく、コレステが少ないとこの物質も減るという。そうか、じゃあ心配性の私はもっとコレステ増やさなくちゃ!やや高め(210〜239)の人に長寿が多いというのも、その楽天性がいいのかも。ちょっと面白い記事があった。ある学者が犯罪者のコレステ値を研究したところ、数値が低い方が殺人暴行犯が多く、高い方が詐欺偽造、つまり知能犯が多いという。じゃあ、どんどんホラ吹いてコレステ値を上げよう!憎まれっ子、世にハバカろう!ちなみに甘党の私としては血糖値が気になるが、今回は下限ギリギリの71mg/dlでした。余裕でセーフ。ちなみに五年前は98もあった。今と生活上違うのは、あの頃はまだ一日三食も食っていたし、米も酒も絶ってなかった、そして何より悪党でなかった…。 2007年2月28日

がっかい



だけど、どーなのかナァ?「君が代」が過去のアジア侵略と結びついてるって見解は。今の子供らにはピンとこないよナ。そりゃ、そうだ。歌の中にはそんな事は一切詠われていない。歌そのものには何の罪もない。人を怨んで歌怨まず。罪を問うなら当時の人々に問うべきだが、死人に口なし。入学式でピアノ伴奏を拒否したこの教諭の中では、この歴史は生きており、従って歌も悪なのだ。果たして伴奏を命じた学校側に悪意はあったか?「あるわけないわよ!わたしが気に食わないのは国歌じゃなくて、国家権力なの!」何万とある曲の中で「君が代」だけが嫌いなら、その人の思想は反国家主義らしい。国家なんて二百年前にはなかったんだから二百年後もないかもしれないのに。その頃にはもっといい社会システムが仕切ってるよ…まア、そんな仙人みたいな考えは置いといて。五人の裁判官の一人は反対だったというし、同じような訴訟でこうした判決が出たのは初めてというから司法としても悩ましい問題なのだろう。もしや、この時期にということは、例の教育基本法の「愛国心」の記述が後押ししたんじゃない?「特定の思想を強制したりするものでない云々」という判決文も、要は「タカがピアノ伴奏くらいでガタガタいうなよ」と聞こえない事もない。けどねー、いつの時代も言論統制というのはそうして進んだりする。ディズニーの物語が実はキリスト教の布教の意図があったり、日本の昔話なんかも儒教の説話臭いのが多いし、あのオウム真理教だって、私が高校の時、高田馬場でマンガを配布していた。友人に見せてもらったが、まさか数年後にサリン事件起こすとは想像もできなかった。いつの世も宗教戦争が静かに吹き荒れているのだ。孤独な人からみれば、野球観戦に行列する人々も集団中毒だし、結婚はもっとも小さい社会信仰だし、さらに言えばお金や言葉を使うこと自体が国家を信じることなのだ。先の教諭も日本語を常用している時点で国家主義なのだ。それを否定するならバイリンガルになるしかない。要は、この人は愛国心で反抗してるのじゃないか?また、こういう訴訟をいちいち取り上げて、あたかも社会問題のように扱うメディアそのものが国家のプロパガンダに協力している。「何だって、いいじゃん、そんなの」という白けた態度が一番いい。かつて竹中“チャー”尚人氏はジミヘンに習って「君が代」をライブで演奏したという。さぞ耳を塞ぎたくなるような轟音だったろう。この教諭もそんなにイヤだったら「君が代ルンバ」とか、ナメ切った演奏しちゃえば、子供らもプッと吹き出したに違いない。いずれにせよクビだろうが、信念なり思想を掲げるなら体くらい張れ。懲戒処分に腹を立てるとは公僕のクセに生意気な。年金もらいたいならそのくらい我慢せい。しかし、いつか亀田のボクシングの試合でTボランが「君が代」を独唱してたけど、あれを海外の、特にかつて侵略したアジアの国でやる勇気があったら凄いね。国歌が異国の地でデカい顔できるのもスポーツの祭典くらいだろう。頭まで筋肉でできてそうな輩には歌に思想は感じないだろうから。それが芸術の世界だったら、即、ブーイングの嵐でしょう。きっと、あの教諭は学界でなく楽界に入るべきであったね。 2007年2月28日

いせいしゃ



私の父は知事でしたが、不祥事を起こして辞任しました。「あの子、逮捕された前の知事の娘よ」おかげで私はどこへいっても陰口をたたかれます。そんなに父は悪い事をしたのでしょうか?それを問うよりも知事というポストのあり方を問うべきだと思います。最近の立候補者には「退職金はいりません」「給料ボーナスはカット」「任期は一期のみ」と公約する人もいるようですが、どんなクリーンな人も最後にはドロドロになるような、まるでヘドロの詰まった下水管みたいな構造があるように思います。父も最初はずいぶん高い支持率で当選しました。それは四年間で千回以上もの住民集会を開いて、足で信頼を稼いできた成果だと思いました。それがいつの間に壁の向こう側の住人になってしまったのでしょう?かつて「ガラス張りの知事室」を謳った長野県知事ですら、書類偽装やら公文書破棄で責任を問われています。曇らないガラスはないのでしょうか?こうなると、知事って何だろう?と思わざるを得ません。みんなの代表であるはずなのに、みんなから隠れなきゃならないなんて、おかしくないですか?何で隠れなきゃならないのかって考えると、みんなの敵になっちゃうからじゃないですか?権力があるっていうことは、みんなから信頼されて尊敬されるんじゃなくて、みんなから憎まれて、いじめられる役でしかないからじゃないですか?異性関係やお金の使い途ならいざしらず、ちょっとした発言とか一挙一動まで監視されて、チクチクと槍玉にあげられたら、秘書ですら明智光秀に見えてくるんじゃないでしょうか?そんな四面楚歌の状況に置かれたら、それは外部の人と癒着なり談合したくもなりますよ。だから父も数少ない自分の味方との信頼関係を断ち切ることができなかったんじゃないでしょうか?「それもお前の甘さだ」というなら、為政者になれる人なんて、よッぽど奇人変人か、操り人形みたいな人じゃないでしょうか。こんなに無党派層が増えて、政治そのものが信頼を失うのは、そういう醜い権力争いのせいじゃないでしょうか?ヘドロの詰まった下水管は取り替えるしかないと思います。 2007年3月1日

やまいじょうず



日本人の平均寿命がまた延びたという。女性85.59歳で、男性78.64歳。それはめでたい。けれど安心してもいられない。平均寿命とは「0歳の平均余命」であり、その年の死亡状況を集約したものにすぎない。今年死んだ人と今年生まれた人が同じと仮定した数値である。大正生まれと平成生まれが同じなわけがない。激動の時代を生き抜いてきた世代と、平和で豊かな時代で温々してる世代では、アフリカ人とアメリカ人くらい違う。ちなみに日本が向かう先の社会であろう?アメリカの平均寿命は男性74.5歳、女性79.9歳(2002年)。これが十年後の日本の姿だとすると、現在のアフリカのナイジェリアは男性52歳、女性52.2歳だから、ちょうど日本の終戦直後、昭和22年の平均寿命(男性50.06歳、女性53.96歳)と同じくらい。よくも60年で寿命が30年も延びたものだが、それよりも男女差が3.9歳から6.95歳にひらいたのが不思議。死因別でみると心疾患とか病死は女性の方が多く、男性で多いのは自殺、不慮の事故、それと肝疾患。要するに過労死といってもいい。今でこそ男女雇用均等法なんてあるが、今の繁栄は男性がその寿命を磨り減らせて築いてきたものなのではないか?しかし、そういうオトコ社会は徐々に崩れている。これから寿命の男女差はまた狭まっていくのではないか?それに平均寿命も急下降するかもしれない。0歳の死因別死亡率でもっとも高いのは「悪性新生物」という。何それ?ウィルス?インフルエンザ?まア、今のような超衛生的な環境にいたら、そりゃ免疫力も落ちる。それともう一つ、忘れてならないのは自殺。その予備軍まで含めたら、これはグンと増える気がする。昔から「病上手に死に下手」といって、ちょくちょく軽い病気をしている人の方が長生きで、日頃丈夫な人はひょっこり死んだりする。大正生まれが「病上手」なら、平成生まれは「死に下手」になる気がする。 2007年3月2日

ずくにゅう



しかし、最近のテレビはうさん臭い。捏造なんかまだいい。ドラマの友情とか涙もうさん臭い。わしは奇麗事なんかより修羅場がみたいのだ。昔、『危険な関係』という貴族の恋愛ゲームを描いた作品があったが、それを現代日本ではホストやキャバクラを舞台にしてドラマ化するのが、いかにも下流だ。同じ花柳でも、下流はやたらケバケバしくて安直。どこかの議員がブラジルだかの女に不正なカネを何十億か貢いだ事件のほうがまだ危険な関係。といっても所詮、数字の危険。戦争ほどの危険ではない。偉大なる欲望は必ずや秩序を破壊する。そして秩序は必ず敗れる。そしてまた新たな秩序が生まれる。その繰り返しで世界は変化してきた。戦争によって文明は発展もしてきた。それがなければ平和だったろうが、いまだに鎖国日本だったろう。むろん、クルマもケータイも牛乳すらなかったはず。悪欲が秩序を破ることによってそれらは得られたのだ。永遠なる秩序などない。約束は必ず破られる。破られても破られてもつくられ、破られるとわかっていてもつくらねばならぬ。社会そのものがお約束なのだ。しかし欲望は約束なんて知らない。エネルギーはそのまま炸裂したい。それでは危険なので約束がいる。約束の中でなら悪も善になりうる。そうして文明はあらゆる欲望に対処する柔軟性を獲得してきた。しかし、それで完全に人間の欲望を支配し尽くせたわけではない。すべての欲がご褒美で満ち足るものでもない。中には罰に当たりたい欲もある。すべての人を殺すか、自分が死ぬか。それを同時に満たすと自爆テロ。日本にも昔、神風特攻隊があった。生きる事を禁止されたら死ぬ事でしか解放できぬ。ここ十年くらい自殺者が三万人いるというから自殺も禁止しなければならぬらしい。欲望というのは禁止されることによって膨らむ。親の躾や学校の規則が厳しかった人ほど、彼等が禁止しなかったことでその欲望を解放しようとする。食う事や働く事、欲しい物を買う事を禁止する親はいないから、そこに解放を求めて暴飲暴食でデブになり、働き過ぎでウツになり、使い過ぎで破産し、稼ぎ過ぎでホリエモンになる。過ぎたるは何ぞやで、禁制も生真面目に守り過ぎるから、善も悪になる。だったらテキトーに約束を破りつつ、自分にあった約束をつくれば、それを自律生活という。それには悪欲を引っぱり出さなければできない。エゴイズムなしにモラルはつくられない。押し着せの制服も脱ぎ捨てて、やりたい放題やって、それで痛い目に遭って、涙を流して、涙も枯れたら、自分の制服を求めるようになる。それを最初から涙を流させることもさせず、テレビが勝手に涙を流してる風なら、何も経験する必要はない。ドラマがうさん臭いのはそのせいだ。天性の娼婦には血や涙はあっても、欲望や官能はない。目の前の男を喜ばすために泣いたりもするが、そこには媚態があるだけだ。そういう女は何も花柳界にいるとは限らない。それは芸人だってそうだ。舞台に上がったら、自分の満足なんか差し置いて、ひたすらお客を喜ばせずにおれぬ。タイコ持ちとはそんなものだ。そこが職人とちがって卑しいところだ。それよりも目の前の男をやっつけ、目の前の聴衆を激怒させる、そんなエゴイストなら、わしは見たい。夫をノコギリでバラバラにした妻のような。あるいは、戦争をオモチャに世界から大顰蹙を買う、どこかの大統領や大将のような。彼等の巨大なエゴのお陰でわしは自殺もテロもせんでいられる。 2007年3月3日

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