のらびと(5)



リソウの政治とは? 川の思ひ 生活狂 ワライの研究 現代探偵方法論

リソウの政治とは?

「私個人としては、先ず、大体に、アナーキズムが、やや理想に近い社会形態であると考えている。共産主義社会も、今ある日本の社会形態よりも、ましな形態であるのは分りきっている。然し、それを、いきなり実現しようとするのはムリだ。人類の善意と相互扶助による政府や役人のいらない社会などが、我々の理想社会として、最良のものであるのは分りきったことである。しかし、人間のすべてが賢人聖者となる以外に、かかる理想の実現される筈もなく、又、すべての人間が、賢人聖者となりうる日が、ありうるか、どうかは、疑わしい。然し、かかる最高の理想に向って、各時代の善意と努力をつくし、ムリをさけて、少しずつ、少しずつ、向上の歩みを怠らぬことは、政治に於て、最も望ましいことである。」(『戦争論』坂口安吾 1948) さて、昨年5月、世界経済フォーラムのダボス会議で掲げられた「グレートリセット」というのは、ここで安吾がいう「最高の理想」への一歩なのだろうか。その背景には、新型コロナウィルスの感染拡大や気候変動、格差の拡大といった危機的状況があるというが、むしろ、逆に背景を作り出して「ムリ」に経済社会システムの再構築を行なってるように見える。ついに1ドル140円に到達しそうな円安インフレの急速な進行に対して、何もしない現政権と日銀を見ていてもそう思わざるを得ない。 「咢堂の世界浪人論によれば、明治維新前の日本はまだ日本ではなく、各藩であり、藩民であつて、各藩毎に対立し、思考も拘束されてゐた。日本及び日本人といふ意識は少なかつたのである。この藩民の対立感情が失はれ、藩浪人若もしくは非藩民となつたとき日本人が誕生したのであつて、現在は日本人であり他国に対する対立感情をもつてゐるが、要するに対立感情は文化の低さに由来し、部落の対立、藩の対立、国家の対立、対立に変りはない。今後の日本人は世界浪人となり、非国民とならなければならぬのだが、非国民とは名誉の言葉で高度の文化を意味してゐる。日本人だの外国人だのと狭い量見で考へずに、世界を一つの国と見て考へるべしと言ふのであつた。即ち彼の世界聯邦論の根柢である。」(『咢堂小論』坂口安吾 1945?) 「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄(咢堂)は、第一回衆議院総選挙で当選以来、94歳まで63年間、連続25回当選という世界記録を持つ人物だが、21歳のとき、新潟新聞の主筆をしていたといい、たしか安吾の兄はその後継にあたる新潟日報の社長だったので、その縁も感じていたかもしれない。だが、安吾はこの神様のいう「世界連邦論」を全肯定してるわけではない。 「部落的、藩民的、国家的な対立感情を取除くことによつて全ての対立感情が失はれるかといへば、決してさうは参らぬ。ここに個人的対立感情があつて、この感情は文化の低さに由来するどころか、むしろ文化の高さと共に激化せられる如き性質を示してゐる。」(『咢堂小論』坂口安吾 1945?) さすが、小説家の視点。仏文学なんかドロドロだもんね。それを言ったら、現代のSNSは誹謗中傷の嵐、いや溶岩の如くドロッドロ。それがもし噴火したらどんな豪奢な見世物になるだろう。先の参院選でNHK党のガーシーに投票した人の心理はそれではないか? 「写真週刊誌が爆発的に売れているのは、もちろん、読者大衆の何らかの欲望を満たしているからである。その欲望とは、芸能人をはじめとする有名人一般への嫉妬、彼らのプライバシーを暴くことによって彼らを引きずりおろしたい欲望であると思う。」(『FF現象の背景』岸田秀 1987) この記事の発端は、まぎれもなく、たけし軍団によるフライデー襲撃事件であり、「FF現象」とはFRIDAYやFLASH、FOCUSといった80年代半ばに大手出版社から発刊された写真週刊誌が過激な取材で最高時には300万部まで売り上げた現象のこと。 「有名人に対する嫉妬があまりにも強烈になったため、嫉妬を何らかの口実によって正当化して満足させる必要が生じ、その役を引き受けているのが写真週刊誌であると思う。」(『FF現象の背景』岸田秀 1987) いま思えば、そのFF現象もバブルだったと気づく。景気が悪くなっても人々の嫉妬はなくならないどころか、SNSの発達でますます広がって、安吾のいう「文化の高さと共に激化せられ」ている。NHK党、東谷義和氏の当選はそれを象徴する事件だろう。そもそも彼は選挙活動を一切おこなっていない。のみならず日本にもおらず、ドバイから配信していただけ。さらに彼は一切、取材をしていない。タレコミが彼の元にどんどん入ってくるからだ。いわば、彼は編集者で、記者は彼とネットワークのある女性たち。誰々が何処どこで何してたよ、と女性たちが動画という証拠とともに彼に垂れ込む、彼がそれを暴露する。芸能人のみならず、大手企業社長まで。それを知りたがる人々はますます彼の配信から目が離せない、という図式。彼の当選は今後の選挙のあり方まで大きく変える可能性があるが、グレートリセットなる世界統一政府による超管理社会が実現したとしても、個々人の対立感情を誰が管理するのだろうか。 ガーシー議員がそれを解決してくれるかといえば、それも疑わしい。 「政治家は政治が好きで政治をやっているのである。あるいは政治が好きな人が政治家になっているのである。天下国家のためということも考えないではないが、それはあくまでもタテマエである。(中略)人びとに感謝されたがるこの傾向は、その「人びと」というのが特定の利益団体や圧力団体、選挙区の特定の人たちに限られがちなので、天下国家の見地からはいろいろ問題を起こす。」(『政治家とは』岸田秀 1987) そういえば、安倍元首相が銃殺された途端、旧統一教会との癒着問題が大手メディアから噴出している現象も、政治家というものの「傾向」をよく指し示している。国葬に反意を示す人が多いのも、安倍氏が国民のためというより、特定の仲間だけを優遇する政治を行なっていたからではないか。「憲政の神様」と呼ばれるには、そんなタテマエだけでは困難な、険しい道のりなのではなかろうか。 2022年7月15日

川の思ひ

先日、来日したビルゲイツ氏に旭日大綬章が授与されたという。氏の財団が進める感染症対策が、保健分野で日本の国際貢献の向上に寄与したカドで、ホントは二年前に渡す予定がコロナの感染拡大で遅れに遅れて今回の授与となったとのこと。二年前に?日本がそんなに国際貢献したの?どういうこと?まさか彼の財団に大口の寄付とかしたわけ? 「人間の場合には、現実主義者であることには無理があり、われわれは、おのれの本質的な部分をあえて無視することによってしか現実主義者になることができない。(中略)意識は(擬似)現実とつながっており、無意識は(私的)幻想の巣窟である。(中略)この(擬似)現実も、しょせん(共同)幻想でしかなく、ただ、共同化されているかいないかという点で、無意識の私的幻想と異なっているに過ぎない。(中略)そのため不可避的に現実というものは、われわれにとってつねに不満で、退屈で貧困で、重苦しくわずらわしいものにならざるを得ない。」(『現実と超現実 ―シュルレアリスム論』岸田秀) ゲイツ氏が抱える地球規模の問題というのも、彼の意識にある擬似現実であり、だからつねに不満で貧困で重苦しい。そこで彼は莫大な私財を投じてWHOやCDC、各国首脳に働きかけて、その問題を共同化しようとする。しかし、それもしょせん幻想でしかないゆえ、共同化されない民衆にとっては甚だ理解を超える。「人口削減」といえば聞こえはいいが、大量殺戮と何が違うのか。日本の人口は昨年、例年を上回って大幅に減少し、今夏も世界一感染爆発しているということは、世界一彼の「良き理解者」ということになろう。一方で回を追うごとにワクチン接種率は低下しており、ツイッター界隈では「打てば打つほど感染する」と真相が暴露されている。これも一つの共同幻想であるが、フォロワーの性格によっては正反対にもなる、一貫性のない共同幻想。ここが一様に口を揃えて、統一教会を槍玉にあげているマスメディアと異なるところで、せめて謎多き安倍事件の真相に触れるメディアがあってもよさそうなものだが、あくまで教会に恨みを持つ信者関係者の単独犯という設定を共同化したいらしい。場外の野次馬としてはスナイパー説、ガリウム弾、警察グル説、CIAだか中共陰謀説など、どれも退屈しのぎにはいいが、どれが真相であっても穏便とはいくまい。ワクチン然り、陰謀を暴くのもいいが、そればかり毎日毎日叫んでいて疲れないのだろうか。 「動物に直接聞いたわけではないから確かではないが、動物は決して退屈しないであろう。ここに、動物が接している本物の現実と、われわれが接しているひからびた、まがいものの現実との大きな違いがある。したがって、人間の場合、現実主義はその精神をますます貧困な、窮屈なものにしてゆく。これは誰しも耐えがたいことである。われわれは現実を超えてゆかねばならないし、また、超えてゆくことができる。(中略)われわれが現実を超えてゆくときの足場となるのはわれわれの(私的)幻想である。」(『現実と超現実 ―シュルレアリスム論』岸田秀) ツイッターなどSNSの発達も、そうした現実を超えてゆこうとするゆえだろうが、他人の超現実ばかりに付き合っていても、こちらは超現実にゆけるどころか、ますます窮屈だ。 「どうして、こうも悲しい国なのだろう。ただこれ強制に服する根性というものは、己れ以下の弱者に対しては、ただこれ強制する根性なのだ。この一人二役ぐらい文化に距りあるものはないのである。己れというものが本来空しいデクノボーが己れがある如くに振舞う時に何が起るか。国事は空理空論に支えられて、一人合点に、独裁政治の山上へ駈け登って行くだけのことだ。」(『風流』坂口安吾) ワクチンを打ちまくって、PCR検査もしまくって、マスクも強制して、それなのに世界一の感染者数という、どうして、こうも悲しい国なのだろう。それも一億総デクノボーだからか?その「感染対策」なる空理空論によって、自民党=統一教会が独裁政治へ駈け登っていくはずのところを、奈良在住の山上氏の凶弾によって、つまずいたのだとしたら、教団の身から出た錆だろう。米国の戦争屋の口車に乗せられて、危うく台湾有事とか日本有事で中国と戦争させられるところだったらしい。 「飛鳥川というものは、川の幅が三間ぐらいしかないのである。山から流れてくるけれども、耳成山だの天ノ香具山だのウネビ山だのという箱庭程度の小づくりの山からチョロチョロと流れてきて、古の帝都の盆地を走っているにすぎない。」(『国宝焼亡結構論』坂口安吾) 「元来、残堀川は水が流れたり流れなかったりする涸れ川である。(中略)しかし河川敷に水がなくとも、その地下の伏流水はあるから、多摩川の崖線にくると、一年を通して水が流れてもおかしくはない。(中略)とかくこの地区には何々川と何々川は伏流水でつながっている、といったことを言う人が多い。」(『武蔵野ものがたり』三浦朱門) ここでなぜ川の話をするかというと、退屈しのぎに川ばかり散歩しているからでもあるが、冒頭の、意識と無意識、つまり現実と幻想の話と同じと思うからだ。安吾のいうように飛鳥川は小川にすぎないし、朱門のいうように残堀川も涸れ川だが、それは表層の姿であり、礫層の中を伏流するのが日本の川の真の姿で、だから日本中あちこちに温泉が湧いたり、井戸が掘れる。それを地表を流れている姿だけが川だと思っているのが、意識でしか現実を見ないのと同じだと思うのだ。 狭山丘陵の伏流水を水源とする残堀川。その瀬切れ対策として都では不透水層の設置を含む河川整備計画を立てているというが、全部コンクリで固める気か。どうしてつねに水が流れていないといけないのか。そのくせ大雨で増水も困るとはなんとワガママな。人間の意識もそのようにワガママな浅知恵だから、誤った現実認識に振り回されるのである。ちなみに残堀川は、名の由来に「蛇堀川」とあり、また流域に「砂川」という地名があるように、もともと蛇が棲みつくような砂の多い川であり、すぐ近くを流れる空堀川にしても同様に涸れ川だし、玉川上水の拝島付近にある「水喰い土」も水を吸い込みやすい地層なのである。伏流水のように、意識下にある無意識を流れ漂う幻想を足場にして、現実を固定化しないというのが、川歩きから学んだ思考法である。 2022年8月29日

生活狂

「まづ一番勢力のあるものは何と言つても近代教でせう。生活教とも言ひますがね」(『河童』芥川龍之介 1927) 河童の世界に迷い込んだ人間が、河童の哲学者に宗教について聞いたとき、キリスト教や仏教もあるが、と言って、彼はこう答える。要は、「近代文明とは、生きることがすべて」みたいな、作者流の皮肉なのだろう。そういえば、信者から多額のカネを搾り取って、家庭まで崩壊させる新興宗教というのも、生活教なのかもしれない。 「病者芥川は、健康な人が誰一人見ることの出来なかった近代人の隠れた宗教を見事に暴露した。それは、表は生命の崇拝、裏は食欲と性欲の崇拝である。彼の時代の人たちもこのような宗教を信じていたであろうが、戦後日本人の間にこのような宗教はますます蔓延し、他の宗教はすっかり衰微してしまったように思われる。」(『百人一語』梅原猛 1993) ここで「健康な人」とは、いったい、どんな人か。 「現実とは、発見し、認識するものではなく、子どもが親(または親代理)との関係のなかで、まずはじめは親から一方的に押し付けられるものである。子どもは親から押し付けられた現実を、まず容認し、それを基盤としてあとからいろいろ修正や追加を施し、自分なりの現実を構築してゆく。(中略)親から押し付けられた現実を基本的には容認し、それをそのまま現実と信じて一生疑わず、そこに安住する人たちが、いわゆる正常人である。」(『シニシズムの破綻』岸田秀 1977) じゃあ、その反対は? 「精神病者とは、押し付けられた現実を否定して自分の現実を構築したものの、それを人びとに認めさせるのに成功しなかった人である。したがって、彼が現実と信じているところのものは、人びとから妄想と呼ばれる。神経症者とは、押し付けられた現実を、意識的には容認していながら無意識的には否定しており、そこに葛藤がある人である。」(『シニシズムの破綻』岸田秀 1977) そういえば、先日、旧統一教会の元二世信者の女性が外国人記者に向けて会見を開いたが、すぐ中止の要請が教会側から寄せられて、思わず涙ぐむというニュースがあった。あの涙は「人びとに認めさせる」のを阻止され、自分が再構築した現実を両親からウソよばわりされた悔しさだろう。芥川の場合はさらに複雑。 「龍之介は、実父母、養父母、そして伯母の三つの世界とかかわりをもち、三つの現実を押し付けられた。そのいずれの現実にも彼は安住できなかった。(中略)彼は、この三つの現実を容認したわけではないが、はっきりと否定するところまでゆかず、いわば中間的妥協として、それらすべて相対化し、それから距離を保つという方法を取った。彼は、現実を冷笑し、軽蔑し、冷静な認識者、傍観者、批判者として現実の上に立って君臨しようとした。」(『シニシズムの破綻』岸田秀 1977) 小説家としては、この方法は成功したようだ。 「突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。」(『文学のふるさと』坂口安吾 1941) だけど芥川は死を選んでしまった。作品の中に安住することもできなかった。それはなぜか。 「現実なるものの相対性や仮構性を暴くのはよい。(中略)そうするのは別の新たな現実を構築するための必要不可欠な第一歩である。しかし、龍之介はこの第一歩でとどまってしまう。(中略)批判は、批判すべき現実のある側面をただあげつらっているだけでは有効なものになり得ないからである。批判すべきその側面は批判者と決して無関係ではない。(中略)現実のその側面と、それを支える、自分自身のなかの要素とをともに摘出し、ともに乗り越えてこそ、はじめて批判は有効であり得る。」(『シニシズムの破綻』岸田秀 1977) 先の旧統一教会の話でいうと、元信者だからこそ教会の批判は有効であり、いろんな弁護士やジャーナリストよりも的確に暴くことができる。芥川の方法だと、信者でありながら教会を冷笑し、軽蔑し、さらにそれを棚に上げて、他の教団の批判をするようなものだ。 「龍之介の晩年の諸作品は、自分のなかにそのような足場を見つけ出そうとする試みであった。(中略)この試みに成功することは、しょせん無理であった。それに失敗したとき、もう彼には自殺しか道は残されていなかったのであろう。」(『シニシズムの破綻』岸田秀 1977) 「晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家(中略)が、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、(中略)生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。(中略)彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。」(『文学のふるさと』坂口安吾 1941) 誠実な生き方などせず、生活教に則って、労働と消費だけしていれば、芥川のように自殺することもないのだが、その生活が疫病やら戦争、物価高で圧迫されてきたらそうもいくまい。 ときに、先日、西部邁氏が生前に座談会の中で放った言葉にぐっときた。以下、簡略に抜粋。 「アメリカはよく他国のことを、ならず者国家(ローグステート)と言ってましたが、アメリカを動かしてるのは今に始まったことじゃないが、一握りのならず者たちで、行政とか司法というふうな既存の権力機構ではなくて、要するに、カネ狂い、権力狂い、陰謀狂いで、そのためならばアメリカの政府なり軍隊なりを動かす。そしてやってることときたら、全世界の破壊も厭わずといった調子で、宗教観も文明観も歴史観もほとんどないような、目先のカネとパワーを目指して動いてるというような、とんでもない、お化けのような国とも言えないような国がアメリカ」 今もノルドストリームやクリミア橋の破壊工作など、あらゆる挑発をウクライナやNATOに仕向けて、真珠湾や911と同じ手口で、ロシアに核兵器による第三次世界大戦の開戦を仕向けている。 「河童の世界では、メスが必ずオスを追い掛け、オスがメスを追い掛けるように見える場合も、それは必ずメスがそのように仕向けたものである。」(『百人一語』梅原猛 1993) 芥川のみた河童の世界とは、アメリカのお化けたちの跋扈する現代の世界でもある。 2022年10月11日

ワライの研究

大昔のモノクロ写真に映った人々の顔はだいたい無表情である。いつから人はカメラの前で「ハイチーズ」と笑って顔をつくるようになったのか。「わたしの考えを一言で言えば、笑いとは、「共同幻想(擬似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放」の表現である。」(『笑いについて』岸田秀 1977) 「フロイドによれば、笑いは余剰エネルギーの放出である。(中略)笑いはわずかなエネルギー消費で精神生活を営むことができた幸福な幼児期への退行」(『笑いについて』岸田秀 1977) たしかに大昔は封建社会という共同幻想の中で、文明の利器もなく人々は暮らしていて、余剰エネルギーなどあるわけないか。 「人は生活して行かなければならなかった。(中略)生活するということは行為することである。(中略)つまり云ってしまえば、我々は物そのものを見ているのではないのである。たいがいの場合には、我々は物の上に貼りつけてある付け札を読むだけにしているのだ。(中略)物に対しても外側に、我々に対してもまた外側に生活しているのである。しかし時折放心によって、生活からずっと解脱している精神を自然が出現させることがある。」(『笑の研究(原題Le rire)』H.L.ベルグソン 1900) たかだか笑いに、なんだか難しい説明だが、ある時期、哲学者や精神分析の世界で「笑い」が研究された時代があったのは、人々がどうしてそんなに笑わなければならないのかと説明を要求した時代があったということか。 詩人の中原中也の日記にはこう記されていたという。 「私は大概の時に純粋持続の上にをる。文明人は常に生活の流れを遮断して生活している。余はベルグソンを尊敬する者なり」 ここで中也の「純粋持続」というのが、ベルグソンのいう放心とか解脱ということらしい。 「ベルグソンは、普通世間でいう「時間」とは例えば時計の針の動きで計るような、実のところ空間化された時間であって、人間が精神の裡で経験する時間、いわば「生きられる時間」ではないということを明らかにしたのである。」(『汚れつちまつた悲しみに……』解説 新保祐司) 「♪泣きな〜さ〜い 笑い〜な〜さ〜い」と喜納昌吉も歌ったような、そういう自然にほとばしる感情、健やかな笑い、悲しみはむしろ、人間の機械的生活が何らかの理由で滞ったり、社会や関係に亀裂が生じたりした時に湧き起こる。 だが、テレビなどを見ていると、こういう笑いとは異質の、いかにも予定調和なワライがあふれている。 「アメリカ文化はスポーツ、スリル、セックスの三Sだと云われるが、(中略)要するに、スポーツ、スリル、セックス、品は変れども同趣味で、執拗なる根気と、術策と手管、之が彼等の日常の人生であり趣味であり信条だ。(中略)ところが、日本人は探偵小説に於けるアメリカの被害者達とは全く類を異にしている。日本人は概してユーモアに乏しく、又之を好まぬ傾向があるが、実は根柢的に楽天的な国民で、日本人がシンから悲観し打ちのめされるなどということは殆ど有り得ぬ。」(『予告殺人事件』坂口安吾 1945) スリル(thrill)はSではないので、たしか「スクリーン(screen)」、つまり映画だったように思うが、実は、「スマイル(smile)」ではなかったか。それがアメリカ、GHQが戦後日本に植え付けようとした三S政策なのではないか。安吾のいうように戦前までの日本人はユーモアのない、生真面目な国民性で、それを見たアメリカ人たちは、教育文化などあらゆる面でスマイルを根付かせようとしたのかもしれない。その反動が安保闘争のような怒りの連鎖につながった時代もあったが、いつしかメディアからは不穏当なものは消え、いまや安全なスマイルばかりで、それはむしろ不安や不満の顕れであり、それを隠すために人々はマスクを外せないのでは? 「諸君は僕を、「ほがらか」でないといふ。しかし、そんな定規みたいな「ほがらか」なんぞおやめなさい。ほがらかとは、恐らくは、悲しい時には悲しいだけ 悲しんでいられることでせう?」(『酒場にて』中原中也) そろそろマスクを捨てて、ほがらかに戻ってはどうか、日本人。 2022年11月24日

現代探偵方法論

中央線の駅でたまに目にする「高麗川行」の表示。何となく遠く異国の地のようで、間違って乗って、寝過ごしたら大変そうだ。 「これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。この高麗は新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。」(『高麗神社の祭の笛 ―武蔵野の巻―』坂口安吾 1951) 続日本紀によれば、八世紀はじめごろに関東七国に散在していた高麗人、約千八百人がその地に集められたといい、また八世紀半ばには帰化の新羅僧などを移して新羅郡をおいた、それが現在の新座だという。埼玉南部は何だかエキゾチックな土地だ。 「国史以前に、コクリ、クダラ、シラギ等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの部落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外から有力な氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争わるるに至ったと思う」(『道鏡童子』坂口安吾 1952) そこで日本国が誕生、というわけだが、それにはある契機があったという。 「六六三年の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れたからだと思います。(中略)大敗によって倭人は韓半島から追い出され、そのため、大帝国の唐が列島にまで攻め込んでくる危機を感じたか、または、唐軍が列島の一部を占領したという事実があって、危機に対処するためにそれまでばらばらだった豪族たちは急遽まとまって中央集権体制を作り、日本という国を作ったのではないかと考えられます。」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) それで渡来人は豪族たちの目につかない、武蔵野の寒村に閉じ込められたというわけか。  「今日の日本が統一されてみんな日本人になるまでには、一部にこのように悲痛な運命を負うた人々の群れが在ったのは事実ですから。このコマ村が、それらの悲しい人々の本流か末流かは知らないが、特に悲痛な運命を負うた悲劇的な人々の主たるものがコマ系に多かったことだけは断言しうると思います。」(『高麗神社の祭の笛 ―武蔵野の巻―』坂口安吾 1951) そんな高麗神社には不思議な開運出世の縁起があるという。 「参拝の人々の記名帳をひらくと、(中略)呆れたことには、参拝者の大部分が政治家で、特に総理大臣級が甚だ多く参拝している。(中略)当社のオ守りは総理大臣になるオ守りだそうで、いつから誰が言い出したのか知りませんが、たまたま当社に参拝された方々から都合よく二三の総理大臣が現れて、政界に信心が起ったのかも知れませんな。」(『高麗神社の祭の笛 ―武蔵野の巻―』坂口安吾 1951) ほんと、たまたまでは?と思うが、「(聖徳)太子もコクリ系の人」と語る安吾の日本史を読んでいると、ありうる、かもと思えてくる。そういえば、大手メディアのアナウンサーのほとんどが在日系と言われているし、自民党との癒着が問題になっている旧統一教会も南朝鮮が発祥だし、北朝鮮は旧日本軍の残党が建国に関与しているともきくし、日本列島と韓半島の政治を動かしてきたのは、実はかつての高句麗人かも。 「むろん政治には色々の裏があり綾があるから、表面の史実をウノミにすれば裏面の真相は判らない。政治というものは、現代史の裏面すら一般の現代人にはわからないのだ。」(『高麗神社の祭の笛 ―武蔵野の巻―』坂口安吾 1951) 今も大手メディアが言わぬことが、まことしやかにSNSでは語られている。たとえば、イーロン・マスクがツイッター社を買収し、政治の裏側を暴露していることも、日本の国民の八割が打ってる例の注射も、それを推し進める厚労省職員や国会議員、医師は二割も打ってない事実なども、一般人にはわからないのだろう。さすが父親が地方政治家だった安吾は政治の裏事情に詳しいけれど、そういう境遇だけではないようだ。 「坂口安吾は日本の古代史家を批判しつつ、自らの方法を「歴史探偵方法論」と呼んでいる。(中略)しかし、探偵的方法について語る時、安吾は一つの事実を隠している。それは記紀の「解釈」において精神分析を応用していることである。(中略)たとえば、患者が分析医の指摘した事柄に抵抗し、ムキになって否定するとき、まさにそれが真実だということを告げているのだ、とフロイトはいっている。」(『坂口安吾とフロイト』柄谷行人 2000) これも現代のメディアでよくあることだ。たとえば、Buzz Feed Japanがファクトチェックの結果、誤りとツイートし、なぜかそれがトレンド入りしている状況なども、要するに、火消しであって、否定されるとかえって信憑性に箔がついたと断言する強者もいる。 「安吾は、天皇制の「カラクリ」を、記紀の中に見ようとした。それがいかなる意図で編集されたか。記紀が隠している事実は何か。何を隠すことで、皇室、あるいは日本の同一性を形成したか。いうまでもなく、朝鮮である。」 (『坂口安吾とフロイト』柄谷行人 2000) よく「反日」とか「在日」と揶揄されるのも、その反動なのでは?アメリカもそうだが、無理矢理な同一性の形成が、かえって差別を生んでいるのでは? 「日本の古代史家は大マジメで記紀の規準を信じこんでいるからそのタンテイ力に於てはまさしくゼロである。」(『歴史探偵方法論』坂口安吾 1951) よくテレビで経済や軍事の評論家が大マジメに時事問題を解説しているが、その内容はすべて「規準」に基づいて、その範囲で見解を述べているにすぎない。SNSでは言いたい放題の学者がテレビに出演すると言いたいことが何も言えないか、言えてもカットされることもザラで、歴史というのも時の政権に都合の悪いことはカットされている。 「記紀を読み、また他の史料を読むうちにだんだん証拠が現れてきて、そうか、さてはこの事実を隠すために記紀はこんな風に偽装したのか、ということが現れてくる。現場に証拠があって、いろいろ偽装を施した事実が語られているから、次第にその結論が得られるまでの話である。歴史たると現代の犯罪たると問わずタンテイ作業は同じことで、ただ現場の証拠が語る言葉や事実を突きとめて行くだけのことだ。」(『歴史探偵方法論』坂口安吾 1951) ここで安吾は「犯罪」と限定しているが、「現代」そのものが、偽装を施しているから、探偵作業を発動せねばならない。たとえば、北朝鮮のミサイルがどこを飛んで、どこに落下したのか、その残骸の映像すら見当たらないから、そもそも本当に打ったのかと疑わざるを得ない。だから日本では入手しにくい情報筋をかき集めて、多方面から吟味している人の見解に頼るほかないが、そういう名探偵はなかなかいない。嘘には嘘をと、撹乱や煙幕も辞さない大本営発表の前にはパンピーは迷える子羊の如きである。 2022年12月6日