2014年1月9日 (木)
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織田如水
大河ドラマになったからというわけでもないが、坂口安吾の「軍師官兵衛」を読んだ。 「私は空襲のころ「二流の人」を書いた。もう原稿用紙もなかったので、いろんな寄せ集めの紙に書いた。」(『世に出るまで』坂口安吾 昭和30) 年譜によれば、昭和二十年「もっぱら「二流の人」を執筆」とある。その寄せ集めもいつ空襲で焼失するか知れない時期だったはず。 「昭和十八年七月には国家総動員体制がしかれ、十一月には兵役法改正で、国民兵役が四十五歳まで延長された。となると、彼にも十分の資格があった。」(『聖なる無頼』村上護) 身の危険を感じて、未完成のまま『黒田如水』として発表したのだろうが、戦後に出版した完全版では、なぜ、『二流の人』に改題したのだろう? 「織田は間もなく肺結核で死んだ。昭和二十二年一月十一日通夜だったが、安吾は、「恋人が死んだ時でも、葬式に行かない男が、一人で飲んで悼んでいます」とことづてて通夜にも葬式にも行かなかった。しかし、哀悼の念は深く、『大阪の反逆』というエッセイを書いている。」(『聖なる無頼』村上護) この「織田」とは「二流文学論」や「可能性の文学」で当時一躍時代の寵児になっていた作家、織田作之助である。この通夜がちょうど九州書房から『二流の人』が出版された時期と重なる。同じ頃、題名について、彼はこんな持論を展開している。 「最も題などアレコレ考えるのは、もう面倒だった。私は昔から題に就てあれこれ悩むのは嫌いで、題などは、文学自体とは何のかかわりもないのだから、作家は小説を書けばよいので、題はなんでも構わない。」(『道鏡』後記 坂口安吾 昭和22.3) このことから改題にあたっても、敬愛する作家の死を哀悼する念が込められていたと考えられなくもない。が、そんな事情など評論家は知る由もない。 「しかし、その黒田如水の生涯を描いた小説を、戦後完成し発表する時、敢えて「二流の人」という題を付け、批判するところに作家のかなしみとにがさが感じられる。如水は軍略の天才であったかも知れないが、天下人としては所詮二流の人に過ぎなかったのだ。」(『坂口安吾』奥野健男) それなら一体、安吾はそんな如水のどこに惹かれたのか? 「如水は戦争マニヤであった。(略)けれども、所詮武将であり、武力あっての統治者だ。(略)如水はかかる戦争の裏側を考えておらぬ。否、その考えの浮かばぬ如水ではなかったが、これを主要な問題とはせぬ如水であった。」(『二流の人』坂口安吾 昭和22) そんな安吾も「戦争マニヤ」であったはずだが、当時のジャーナリズムはそんなマニヤを喜ばす報道を行っていたのか? 「僕はこの正月にハワイ海戦の指揮官○○中佐の談話を読んで非常に感動した。(略)司令部を心臓部とすれば、将兵達は手足であるが、将兵達の手記は、どのように工夫しても、作戦の手足以上のもので有り得ない(略)ローマの叙事詩の天才達を総動員して従軍せしめても「ガリヤ戦記」に匹敵する戦記を書ける筈がないのである。」(『文芸時評』坂口安吾 昭和17) 戦況が悪化すればするほど手記すらも報道されない状況であったろう。現に起きている大東亜戦争の「裏側」など知らぬ安吾は、むしろ歴史の中にリアリティを感じていたかもしれない。 「現代たると歴史たると問わず小説中の人物や思想は、作者と一緒に血肉をわけて生活したものでなければならない筈だ。作者の生活の中へ歴史を引きずりこんでも構わないし、作者が歴史の方へ出向いて行って生活しても構わない。」(『文芸時評』坂口安吾 昭和17) ということは、現代の中にも彼は歴史を見ていたはずだ。 「バクチがはずれたときは仕方がないさ、とうそぶいている。応仁以降うちつづいた天下のどさくさは終わった。俺のでる幕はすんだという如水の胸は淡泊にはれていた。どさくさはすんだ。どさくさとともにその一生もすんだという茶番の儚さを彼は考えていなかった。」(『二流の人』坂口安吾 昭和22) この「どさくさ」を終戦直後の現代日本とすれば、この「俺」とは彼の敬愛した亡き織田作之助、といったら想像しすぎであろうか?
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2013年12月30日 (月)
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安吾と新聞小説
坂口安吾の『信長』(昭和27年10月〜28年3月まで『新大阪新聞』に掲載)をやっと読み終えた。が、いつになく読み進むのに難儀であった。単に長いというだけでない文体上の理由がありそうだ。安吾には同一人物を主題にした別の短編がある。 「生きるとは、全的なる遊びである。すべての苦心経営を、すべての勘考を、すべての魂を、イノチをかけた遊びである。あらゆる時間が、それだけである。」(『織田信長』坂口安吾 昭和22) これぞ安吾節であり、彼の得意な歴史物といえば、こういう語り口によって彼自身が語っているかのような作風がほとんどだった。 「安吾の歴史小説はいわゆる歴史ばなれ小説であり、史実にこだわらず、大胆に想像力を駆使し、その時代の代表的人物をその瞬間に、血の通った生きた人間として造型する。(略)歴史を時間的な流れに沿って因果関係で描くのではなく、むしろ時間を超越した永遠の現在として(略)人間を表現しようとしている。」(『坂口安吾』奥野健男) ところが、『信長』は「時間的な流れに沿って因果関係で」書かれている、いわゆる「歴史そのまま小説」である。また『織田信長』が文庫本にして30頁あまりなのに対して、『信長』はその十倍以上あるにもかかわらず桶狭間の合戦までしか到達していない。このペースならあと2冊は続編が書けたのではないか? 「西ケ谷は『信長』は最初の予定では本能寺までいくはずであったが、都合で途中で一まず終わろうということになった」と伝えている。」(『聖なる無頼』村上護) この「西ケ谷」とは安吾に新聞小説を依頼した新聞社の人物であり、この「都合」とはどうやら作者の体調というか、いつもの持病であったらしい。 「久しぶりの新聞小説の執筆で、安吾は疲れきっていた。鬱気もかなりたまっていて、いつ吹き出すか知れなかった。それに加えて、彼を襲った事件があった。それは妻・三千代の妊娠と出産だった。彼は不安の底に陥ってしまった。」(『聖なる無頼』村上護) なるほど、しかし、本当にそうだろうか?ときに安吾にとって初の新聞小説だった昭和22年の『花妖』は読者の不評により途中で打ち切りになっていた。 「この小説が新聞の一般読者に理解されなかったのは、作者が登場人物たちの心理を全く描いていないからだ。(略)従来の小説に親しんで来た読者はついて行けない。」(『坂口安吾』奥野健男) この不名誉な結果について本人はどのように感じていたか?昭和25年、読売新聞に『街はふるさと』を連載した際、『新潮』に連載していたエッセイの中で彼はこう書いている。 「新聞小説は新聞以外では私の小説を読むはずのない人が読者の大部分であるから、神経がつかれて書きたくない。(略)先日、文藝春秋新社の熱海遠足があり、私は宴会に招待された。そのとき、宴会に侍った芸者が廊下で立話をしている。「文藝春秋って、あんた文藝ハルアキのことじゃないの。バカにしてるわ」「そうなのよ。変に読んで通がってるよ」と云って、社員どもをバチの半可通にしてしまい、腹を立てていた。察するに、熱海芸者の中には文藝ハルアキ党が多いらしい。新聞小説の読者というものは、こういう人種が含まれているのだ。」(『我が人生観(二)俗悪の発見』坂口安吾 昭和25) また、ちょうど『信長』が新大阪新聞に連載中だった際、西日本新聞に連載していたエッセイの中でもこんな表現をしている。 「田舎の人は西洋の映画を見ると筋がわからないという。その理由は簡単なようだ。たとえば一人の男が失業して街を歩いている。レストランのショーウィンドに求人のはり紙を見て扉を押して消える。つぎの場面にはもうコックとかボーイとかの姿で現れている。これがわからないのだ。日本の映画の場合はレストランの扉を押して消えるとつぎに受付で支配人はいますかというやりとりから、さらに支配人に会って雇われる筋道がみんな現れてくる。こういう手続きを順々にふまないと田舎の人にはわからないのであるが、これは映画の本筋には無関係なことで、これまでくどい手順をふんで田舎のセンスに順応するというのは芸術としては非常に退歩だ。」(『文化の序列』坂口安吾 昭和28) ともに新聞小説でたまった不満を吐露しているかのようだ。しかし、そんな新聞読者を相手に小説を書く安吾の姿は、そのまま、雑魚どもを相手にもがいている若き日の信長の姿に見えてくるから、やはりさすがである。
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2013年10月13日 (日)
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夢をころす
三鷹の路上で女子高生が刺殺される事件があったが、タレントの卵がエッチな動画をネットに流されるという似たような筋の小説が以前にあった。 「夢を与えるとは、他人の夢であり続けることなのだ。だから夢を与える側は夢を見てはいけない。(略)私の皮膚は他の女の子たちよりも早く老けるだろう。そしてすべて分かるということは、ほとんど一度死んだのと同じことだ。」(『夢を与える』綿矢りさ 2006) 今回の事件では本当に死んでしまったが、分かったことといえば、今のJKはすごいこと、顔本も危ないこと、それとやっぱり今の男子はゲームのようにすぐ切ること。世の中どんどん軽薄短小になってるようだ。 「テレビ、この小さい箱は、小さいくせに点いてるだけで本当に簡単に部屋全体を飲み込む。(略)テレビは人間ではないのに、部屋に生の人間がいたとしても、生の人間以上に注目を集めていて、それが普通だと思っている。テレビはうぬぼれている。」(同上) どうも、作者のいう「夢」とは「テレビの与える…」という注釈つきのようで、その「うぬぼれた」テレビ界の天使がネットによって堕落していく顛末が描かれているわけだが、そういう堕落は出版界もすでに経験しているはずだし、すべてのジャーナリズムの宿命ではないか。 「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。」(『堕落論』坂口安吾 1946) 60年前に日本国自体がそれを経験したはずだし、明治維新以降、多くの先達がそれを個人的に経験してきたはずだ。 「生命の向上は思想の変化を結果する。思想の変化は主張の変化を予想する。生きんとするものは、既成の主張をもって自個を金縛りにしてはなるまい。」(『惜しみなく愛は奪う』有島武郎 1920) それをもっと前向きな言い方でした評論家もいた。 「有能な実行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である。」(『無私の精神』小林秀雄 1960) むろん小林はジャーナリズムについてそうあるべし、といっており、「ジャーナリズムとは無関係に存し、黙々と実行している人を尊重せよ」という小林なら、ネットを「現実の新しい動き」と看破するだろう。それがどれほど醜い現実であれ。 「あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ち、オモチャ箱はつくれるものだ。」(『オモチャ箱』坂口安吾 1947) 『夢を与える』は主人公がCMタレントとして「一度死んだ」ところで終わるが、「そこからも、夢は育」つというメッセージがほしかった。しかし、この作家、細部の表現に妙にツヤとツツマシサもある。 「愛撫のお返しができるはずもなく、熱い波にのまれそうになりながらもなんとか意識を保っていると、膝が割り開かれて夕子の小さな筋肉はほぐされることなく、硬いまま正晃を受け入れた。息もできないくらいの痛みがおそった。(略)おでこには正晃の鼻息が当たって涼しい。(略)正晃の腰の動きが変わり夕子の脚の付け根に吸い寄せられるように深く埋めてとどめを刺した。」(『夢を与える』綿矢りさ 2006) この「刺した」が本当にナイフで首や腹を「刺した」だったら、あの三鷹で刺した男子が獄中でそれを読んだとき、何となくすっきりするかもしれない。どうも文学作品にはそういう強烈な毒がないと物足りない気がするが、最近、読んだ本の中で、さすが何度も死んだ人は分かってると感心したのがある。 「結局、ほとんど全部の人が本当は友だちがゼロだと思うんです。」(『悪人正機』吉本隆明、糸井重里 2004) この毒すぎてクスリになる本を読んだ後で、あの三鷹刺殺事件を考えると、ネットでつながった浅薄な仲でも殺され得るというのは救いに思えてくる。せめて亡くなる前に「吉本先生、夢って何ですか?大事ですか?」とお聞きしたかった。
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2012年6月4日 (月)
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真理とは何ぞや
フーコーは晩年の講義で「勇気をもって真理を語る」ということを語っていたそうだが、それを自分をからかいながら語れ、といったのは、この人だった。 「「真実ヲ語ル」からには、どんな苛酷さも許されるであろうのに、「笑イナガラ真剣ナコトヲ語ル」ということ―それは人間味そのものである。」(『この人を見よ』ニーチェ著 手塚富雄訳) ソクラテスは他人の怒りを買って、最後は処刑という、まことに苛酷な目に遭ったという。我が理想とか美学というものは、赤の他人には滑稽なものだと凡才は知っているが、天才はそれを真理と思い込んでしまうのだろうか。 「美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある。」(『教祖の文学』坂口安吾) ここで安吾は、小林秀雄の評論の一節が言葉の遊びのようで腹を立てているというより、小林がきっぱりと「花の美しさというものはない」と言い切っていることが癪にさわったのではないか? 「一体、人々は、「空想」という文字を、「現実」に対立させて考えるのが間違いの元である。(中略)人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によって生み出される空想が、単に、形が無いからと言って、なんで「現実」でないことがある。」(『FARCEに就て』坂口安吾) 「私は然し、歓喜仏のような肉慾の肉慾的な満足の姿に自分の生を托すだけの勇気がない。私は物その物が物その物であるような、動物的な真実の世界を信じることができないのである。」(『私は海をだきしめていたい』坂口安吾) こういう安吾にとって、花の「美しさ」というものはあったはずだ。花に限らない。女でも、鬼でもいい。この問題についても古代ギリシア人がすでに徹底的に議論している。 「愛の奥義に到る正しい道とは次のようなものであるからです。(中略)一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになることを意味する。」(『饗宴』プラトン著 久保勉訳) 安吾にとって文学というのは、己の古典趣味を物知り顔で披露するものではなく、「美そのものの学問」だったのかもしれない。 「美とは何ぞや、ということが分ると、精神病は相当抑えることができる。ノリトやカシワデや聖火リレーや天皇服やインターナショナルの合唱は、美ではないことが分るからである。」(『安吾巷談(麻薬・自殺・宗教)』坂口安吾) そうはいうが、それがわからないのが人間であり、他人には美でないとわかったところでやはり独り愛さずにいられないのもまた、ニーチェ流の「人間味」ではないか? 「これは世界的だとか国粋的だとかいって、外国人にまで吹聴すべき性質のものではないことである。(中略)まことにこれはわれわれが生んだ白痴の児である。因果と白痴ではあるが、器量よしの、愛らしい娘なのである。だから親であるわれわれが可愛がるのはよいけれども、他人に向って見せびらかすべきではなく、こっそり人のいないところで愛撫するのが本当だと思う。」(『いわゆる痴呆の芸術について』谷崎潤一郎) そうだとすれば、わが子自慢をする親バカは除いて、世のたいていの母親は「美の本質を認識」しているのではないか?なかでも、本当に「白痴の児」を持つ親としては、わが子を世にさらすというのは、真理を語るようなことかもしれぬ。
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2012年3月19日 (月)
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不純のススメ
「二・二六事件の悲劇は、方法として北一輝を採用しつつ、理念として国体を戴いた、その折衷性にあった。(中略)この矛盾と自己撞着のうちに、彼らはついに、自己のうちの最高最美のものを汚しえなかったからである。(中略)何ものにもまして大切な純潔のために、彼らは自らの手で自らを滅ぼした。この純潔こそ、彼らの信じた国体なのである。」(『二・二六事件と私』抄 三島由紀夫) 昨今、叫ばれる国債破綻というのも、本来バラバラの国家理念を各自が純潔に守ろうとするからギリシャのようになるのではないか?しかし、もし二・二六蹶起が「北一輝」を理念としても採用していたら、と考えると興味深い。 「北一輝は、スコラ哲学化した国体論を一切否定し、天皇を家長と呼び民を「天皇の赤子」と呼ぶような論法を自殺論法と貶し、君臣一家論を大逆無道の道鏡の論理となし、このような国体論中の天皇を、東洋の土人部落の土偶に喩えていた」(『二・二六事件と私』抄 三島由紀夫) 北は別のところで「歴代の権力者はみな天皇の簒奪者」といっていたそうだが、これは戦前の話で、戦後になって坂口安吾もこういっている。 「私は天皇制についても、きわめて日本的な(したがってあるいは独創的な)政治的作品を見るのである。(中略)すくなくとも日本の政治家たち(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。」(『堕落論』坂口安吾) アメリカもそれを嗅ぎつけたから東京裁判で天皇を生かしたわけだ。で、彼らのすごいところは、その天皇の簒奪者たる政治家すら「土偶」にしてしまったところ。今や日本に革命するに値する権力などあるまい。そんな現代に北のような人物がいたら麻原のようになっているにちがいない。 「戦後に、精神医学治療史に残るような大成功した治療がある。それは大川周明さん。極東裁判で東条さんの頭を叩いちゃったでしょう。それで大騒ぎになって、早期発見された。入院させられて、マラリア療法で治っちゃったんです。」(『恐怖・恐怖対談』吉行淳之介、斎藤茂太) この大川周明という人物、A級戦犯では唯一の民間人で、その裁判にパジャマ姿に下駄という格好で出廷し、前にいた東条の頭をポカリと何度も叩いたり、意味不明な外国語を発したり、精神異常者と見なされたために処刑を免れたという。しかし、それが裁判終了後まもなく完治したというから偽装説が疑われても不思議でない。 「ぼくは戦争の時に、さいわいに陸軍の精神病院に勤めることが後半はできたんですけど、そこでは恐怖による卒倒だとか意識不明、痙攣とかがいっぱい出ました。それがあとを引いて、今度は歩けない、失歩、失立、それから一番急性のヒステリイ症状で失声、難聴。しかも肉体的にはどこもなんともない。(中略)大部分が恐怖から逃れるための無意識の行動です。必死になって治療して、ありとあらゆる手をつかっても治らない。ところが、戦争が八月十五日に終って、八月二十日ごろになるとどんどん治りだしちゃった。この時ほど医学の無力さを感じたことはないですな。」(『恐怖・恐怖対談』吉行淳之介、斎藤茂太) 裁判中の大川の奇行も「恐怖から逃れるための無意識の行動」ではなかったか?認知症患者がめったに自殺しないのも恐怖から逃れるために無意識に短期記憶を消去していると見えなくもない。それによる危険も当然あるのだが、本人はいたって暢気。むしろ健常者の方が年金や健康不安、失業恐怖から病んだり自殺する。冒頭の引用を拝借すると「純潔のために、彼らは自らの手で自らを滅ぼ」すのであろう。さすれば、債権者がニッポンなんてどうにでもなれ、となれば国債破綻は免れるだろう。
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2011年11月12日 (土)
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生活教の救い
「まづ一番勢力のあるものは何と言つても近代教でせう。生活教とも言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は当つてゐないかも知れません。この原語はQuemoochaです。chaは英吉利語のismと云ふ意味に当るでせう。quemooの原形quemalの訳は単に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」する意味です。)」(『河童』芥川龍之介 昭和2) さて、この近代教=生活教の「救い」とは何か? 「私はこの春、漱石の長篇をひととおり読んだ。(略)私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。」(『戯作者文学論』坂口安吾 昭和22) 谷崎潤一郎も「先生の小説は拵え物」と批評しているが、「局部々々の描写は極めて自然」といい、次の文章を「最感心した一節」として引いている。 「「今夜は久しぶりに『論語』を読んだ」といった。「『論語』に何かあって」と御米が聞き返したら、宗助は、「いや何もない」と答えた。それから、「おい、己の歯はやっぱり年の所為だとさ。ぐらぐらするのは到底癒らないそうだ」といいつつ、黒い頭を枕の上に着けた。」(『「門」を評す』谷崎潤一郎 明治43) 救いがない現実がそのまま描かれているわけだが、これこそ生活教の姿ではないか?安吾はそんな漱石が「軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを」彼自身の作品によって証明するために次の二作を書いたという。 「一年に幾たびかある谷村の病気のときは、素子は数日の徹夜を厭わず看病に献身した。(略)然し、それのみが素子ではなかった。夜の遊びに、素子は遊びに専念する無反省な娘のように、全身的で、没我的であった。素子の貪慾をみたし得るものは谷村の「すべて」であった。」(『女体』坂口安吾 昭和21) 「僕はもう君の裸体を見ている時しか、安心できなくなるだろう。切ないことだ」谷村は思わず呟いた。切ないことだ、と。然し彼は爽かであった。その疲労の激しさ、全力の消耗された虚脱のむなしさにも拘らず。」(『恋をしに行く』坂口安吾 昭和22) こういう「交合」に勤しむ男女の姿こそ、まさに生活教、と芥川ならいうだろう。「女体にひれふす男」をひたすら描いた谷崎や安吾は生活教徒であったといえそうだが、芥川は自殺、漱石も、どうも生活教徒にはなれなかったようだ。 「私は、漱石は文豪になるとともに、己と対立したはずの文壇の主流である「自然主義」的な、笑いを忘れた作家になったのではないかと思う。」(『百人一語』梅原猛 平成5) カネも名声も得たはずなのに、かえって救いであった「笑い」を忘れたとは、これまた悲劇である。が、安吾もやがて仕事とクスリで生命を消耗し、49で死んだとき最期の言葉は「みちよ」、つまり妻の名であったということは、最期の救いは、彼があれだけ対立したはずの「家」ではなかったか?これも、まさに生活教の宿命、と芥川は見抜いていたにちがいない。 「河童の世界では、メスが必ずオスを追い掛け、オスの方でメスを追い掛けるように見える場合も、それは必ずメスがそのように仕向けたものである。学生の河童のラップは悪いメスに追い掛けられて接吻されたために、その嘴が腐ってしまった。また河童の世界をすべて支配している実業家ゲエルも、実は彼の妻に支配されているのである。」(『百人一語』梅原猛 平成5) これこそ「誰一人見ることの出来なかった近代人の隠れた宗教」ではないか?しかし、そのことに気づいたオスの気分は最悪だろう。 「救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。(略)私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。」『文学のふるさと』坂口安吾 昭和16) かくいう安吾もホントに文学を「唯一の救い」にできていたら、漱石よりは長生きしたであろう。 「これはツアラトストラの詩人ニイチエです。その聖徒は聖徒自身の造つた超人に救ひを求めました。が、やはり救はれずに気違ひになつてしまつたのです。若し気違ひにならなかつたとすれば、或は聖徒の数へはひることも出来なかつたかも知れません。」(『河童』芥川龍之介 昭和2) 気違いになっていなかったら自殺していたであろう、といいたいのであるならば、芥川は自殺することで「気違ひ」あるいは「聖徒」になることを拒んだのではないか? 「ええ加減にせんと気い狂て死ぬ」(『気い狂て』詞:町田町蔵) パンク音楽ではないが、ニーチェは「気い狂て生きた!」としたら、当時の近代社会が彼、否、「人間のふるさと」を、「気違い」としか認識できなかったことこそ、救いがなかったにちがいない。
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