時間の駄無

その1


タイムマンション

「日本の風流は鉄骨鉄筋の大ホテルに住むことも、穴の中に住むこともできる。」(『風流』坂口安吾 S26.12)
 戦災復興期に各地を訪問した折り、戦災にあわなかった都市のほうが戦災都市のバラックよりも汚いのが日本の風流だと安吾は書いている。
 ときに十年くらい前から新聞の折り込みチラシの中に、やたら立派な紙質で、バラ色のマンション広告を見かけるようになった。キレイなCGや立派な大理石の門構えを見てそれが欠陥品とは誰も思わないだろう。それが「耐震強度偽装」となるや慌てて「使用禁止令」ということは、何処でも住めるはずの風流も辻褄のあわぬ合理主義には負けるらしい。厚顔無恥というより顔そのものがノッペラボーな建設業界、建てる前の確認申請がホントに建前の行政、天災で半壊しても補償もない無力な国。外見は立派だがエックス線で覗いてみれば昔と変わらぬ骸骨建築。相変わらず「風流の天下」らしい。
「風流を一酔一夢の遊び(注:一炊の夢の意か)と解し、わが一生を茶番と解して世を終わるのは、われ一人の勝手な生き方、それも結構だろう。」(『風流』坂口安吾 S26.12)
 当時、安吾は酔って暴れて精神病院に入院したり、国税庁と争ったり、競輪の不正を告発したりと「暗くて重いこと」に悩まされたのは「風流の奥儀」を忘れたからと自戒する。
「ケンカをしたがる犬は弱虫の証拠なのである。またバカの証拠なのである。」(『秋田犬訪問記』坂口安吾 S26.11)
 そういう情けない犬はまさしく自分で、雪国の悲しい「アキラメと楽天」こそ「風流の奥儀」と気づいたのか、この後、荒れた生活から改心して処女作『風博士』の初心に戻って『安吾史譚』『夜長姫と耳男』『信長』などを書いている。まさしく一酔一夢の茶番で世を終わった彼の風流とは飛鳥でも飛騨でも飛んでいけた「一陣の風」だったに違いない。風流とは本来そのように時間も空間も超越するタイムマシンなのだろう。
 ということはキレイなCGのマンションも「一炊の夢」でしかないかもしれず、それを一生の住処とするならば行きっぱなしのタイムマシンに乗る覚悟が必要らしい。2005年11月26日



共存共営

 ナチスを支持したドイツ女性と、第二次大戦当時の米国女性は似通った点があるとノーベル賞作家パール・バックはいった。
「当時のドイツの婦人大衆は、ちょうど現在の私たちのように、中流階級の下層部に属し、政治については全く無関心であった。(中略)ナチ政権が女性をひきずりおろし、低い地位におしこめておくことに賛成したのであった。」(『若き女性のための人生論』パール・バック著)
 この他にもナチを支持したのは職業人として成功できなかったインテリ、つまり「負け組」の未婚女性たちだったという。今回の自民党圧勝に貢献した大衆も知的階級社会の負け組であるなら、どおりで改憲と米軍再編は両輪のように進む。
「ものを知ろうとすることには、わたしは飽き飽きしたわ─わたしはただ信じたいのよ」(同著)
 第二次大戦勃発当時、一米国人女性がいったというこのセリフは、マニフェストよりワンフレーズに期待を寄せて投票した人々の心にもあるのではないか?
「奥さんらはものを考えなさるお方なんで─彼が出てゆく理由は、仕事をてきぱきやる人の前で仕事のできない者の不安、考える人間の前で、どうしても自分は考えることのできない者の不安なのであった。」(同著)
 パール氏は自分の家で世話したという、この貧乏な男の「どんよりした瞳」が忘れられないという。氏によれば、こうした「考えることのできない」人々は自分自身の存在価値を知ることができないからデモクラシーで彼らの居心地をよくしてやることはできないという。「存在価値を認めることが幸福への途」とまでいう。あんまり認め合おうとするから戦争にもなるのではないか。
「秋深き隣は何をする人ぞ」(芭蕉)
 自然はそのように、そっと「共存共営」している、共栄も目指さず。変に認め合わない平和もある。核を持っていようが「隣は何をする国ぞ」でいいではないか。余りもののおかずがあったら、そっと分けてやればいい。
「誰一人思い通り、望み通りの生活などをしている人はいないので、みんな他人が幸福だと思っているだけ」(『青い絨毯』坂口安吾)
 自分で自分が信じられていればたくさんだが、そうもいかないから他者を信じたり疑ったりしたくなる。ファシズムはそれを原理的に利用し、一方デモクラシーは自分自身を信じる為の「知る」に価値を置くが、大衆は「知る」より「信じる」を求めてしまうから、それなら「信じる」も認めて、その対象が一つになって権力を持たぬよう監視するのが文学の仕事と気づいて、氏は小説を書いたのかもしれぬ。それが氏の理想とした「完全なデモクラシー」への途であるなら、それがもたらす「意味の過剰」が肉体を希薄にするだけでなく、「モノの過剰」が精神をも貧困にするからやりきれない。
「私は物その物が物その物であるような、動物的な真実の世界を信じることができないのである。」(『私は海をだきしめていたい』坂口安吾)
 言葉が言葉そのものしか意味しないような論理ばかりに浸っていれば、人間もやがてモノになってしまう。そうなったらコトバの剣に代わって本当の剣がモノを言うしかないのだろう。2005年10月31日



ホネカワエモン

 元空軍だった人が手にしていた書籍を眺めていたら、その中に乃木希典の結婚秘話があった。乃木は相手に一回も会わずに挙式をあげようとしたが、周囲の者に説得されて見合いをすることになった。その際、彼は自分の欠陥を書き連ねた書状を持参した。その中には「足には銃弾を受けて肉がえぐられている…」と体の古傷まで正直に書き連ねてあったので、さすがに相手方も呆れ果てたという。
 こういう話が庶民に語り継がれているところに、日本人の好む気質が現れているようだ。
「大きな仕事よりも、寧ろ人格によって、その時世に非常な貢献をする人物が三十年に一度か、六十年に一度位、出現することがある。」(「乃木」スタンレー・ウォッシュバン)
 名実共に…ではなく、実はなくとも名が通るということは、その人の貫いた「筋」が時世を越えているのだろう。どんな人間でも骨と皮だけでは生きていけない。痩せぎすの「骨皮筋右衛門」ですら筋はある。そこに血も流れる。ということは自分の筋を通して、それが世の為になるというのは快楽であり、そうして死んだとしても実は苦ではないのかもしれない。それをかつては「殉死」と畏れ、いまはそれを「テロリズム」と恐れる。無関係な人まで巻き沿いになる筋は迷惑には違いないが、時世に貢献する筋もなくなったと嘆く人も多い。
「9・11同時多発テロのあたりから、原理主義(ファンダメンタリズム)が世界のあらゆるところで目立つようになった。(中略)日本はカオス状態という意味で先進国であり、日本人はカオスや矛盾とともに、それを自然なものとして生きてきたのではないか。」(「村上春樹が語る(下) 混沌にある現実性」朝日新聞)
 例えば雑草が生い茂る河原を連想する。どの雑草も太陽めざしてまっすぐ伸びようとするが、土壌が土壌だけに大して成長できずに大水で流されてしまう。その雑草群の中にひときわ目立つ雑木があったとする。それが乃木のような人物であり、日本のカオス状態とは昔からそうした河原の枯れススキの風景ではなかったか。現代では治水技術によって大水は減り、雑草は雑木林化して、かつての大人物も目立たない。そんな中でも筋を通して世に為す快楽は、やはり何かに殉じるしかないのか?
「要求せられた『殉国の情熱』を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。」(「特攻隊に捧ぐ」坂口安吾 S22.2)
 発表当時、GHQの検閲によって削除された、この寄稿を三島由紀夫が読んでいたら自殺はなかったかもしれない。三島は『葉隠入門』の序に、少年期に座右の書だったものとしてラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』と上田秋成全集を挙げている。そんな早熟で反時代的な文学青年が『葉隠』と出会ったのは戦時中だったという。
「わけても『葉隠』は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わったあとで、かえってわたしの中で光を放ちだした。」(『葉隠入門』三島由紀夫)
 何故、彼は文士道でなく武士道に殉ずることを選んだか?「二十歳でおそらく戦争で死ぬことになるであろう」彼の「独自の青春をまるごと是認する」にはそれしかなかったというならば、その「独自の青春」や「死ぬことになる」とは一体、何が強制したのか。殉ずる情熱自体は、国である以前に誰にも平等な生と死に捧げられて然るべきはず。
「色このまざらん男は、いとそうぞうしく、玉のサカズキの当(そこ)なきここちぞすべき」(『徒然草』吉田兼好)
 好色道の殉死が心中なら、仏道に殉ずるとは出家。芸道や文士道に殉ずるというのも出家みたいなものだろう。そのように各人が各様に通せばいい筋が、時世に通り過ぎてしまえば原理主義ともなる。だからといって、誰ひとりとして筋を通そうとしない、あるいは人間の与り知らぬ処で勝手に数字が通っている商魂ばかりでは、筋のない「骨皮右衛門」である。2005年10月13日


案ずるより倦むが易し

「ガンジーの無抵抗主義も私は好きだし、中国の自然的な無抵抗主義も面白い。(中略)彼ら(中国人)は蒙古人や満洲人の暴力にアッサリ負けて、その統治下に属しても結局統治者の方が被統治者の文化に同化させられているのである。」(『野坂中尉と中西伍長』坂口安吾)
 非暴力と不服従で英国からインドの独立を獲得したマハトマ・ガンジーのいう「非所有」とはどういうことか?
 ガンジーは「所有は犯罪」といい、自発的貧困を唱えた。その根本には「みんなが欲しがるモノは、みんなが所有できない」という前提がある。
 水や太陽の光を求めて生息する植物も、弱肉強食の中で棲息する生物も過酷な自然に曝されている。人間もかつてはそうだったはずだが、第二の自然ともいえる「文明」を生み出した。ガンジーの目指した農耕社会も彼の憎んだ近代化や工業化も質の違いはあれど「文明」に違いはない。彼のいう所有とは、こういう眼に見えないモノは含まれないのか?
 農耕文明は近代文明より自然に無害かもしれぬが、それで人間から欲が消滅し得るか。みんなガンジーのようにはなれぬから世界で十億人も肥満になるのだろう。しかし、そもそも欲がなければ子供も社会も文化も生まれはしない。
「衣食住の水準のみでなく、文化水準を高めること、その唯一の目的のためのみ我々の総力を集結するという課題さえ忘れなければ、どこの国が侵略してきて、婦人が強姦されて、男がいじめられ、こき使われても、我関せず、無抵抗。戦争にくらべてどれぐらい健全な方法だか知れない。」(『野坂中尉と中西伍長』坂口安吾)
 何も持たぬのがエライと、そういう思想を所有しているではないか。持っていることさえ忘れてアッケラカンとしてる方がよほど「非所有」だ。
「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである。」(『河童』芥川龍之介)
「在りもしないものと闘うことはそれを存在させることになる。」(『マクベス論』柄谷行人)
 軽蔑したり闘ったりしてるうちはまだ所有のうち。「非所有」への道は『案ずるより倦むが易し』。
 自衛隊も迎撃ミサイルも無関心に「非所有」していればよい。外来文化を無抵抗に呼吸している「非所有」から奪えるものは何もない。欲愛を燃やし尽くすまで惜しみなく奪い合えばいい。
「持てる者は礼儀正しくなるものさ。」(『田園ハレム』坂口安吾)
ならば、「持てる者がケチだから持てない者までデブになるのさ」。2005年09月24日



さらばサラマンダー

「ポオのファルスを模したこの珍品は私の偏愛の対象になっている。(中略)私の狙いは諷刺を越えたノンセンスにあって、私の筆はめったにこういう『純粋なばからしさ』の高みにまで達することがない。」(『花ざかりの森・憂国』解説 三島由紀夫 S43.9)
 この『卵』という作品は、三島にしては珍しい短編のファルスで、それは彼が30歳のときに書かれている。この年は奇しくも坂口安吾が亡くなった年でもある。
「洒落というものは、人間の聯(連)想作用であるとか、又、高度な頭の働きを利用し、つまりは、意味を利用して逆に無意味を強めるもので…」(『FARCE に就て』坂口安吾 S7.3)
 30歳の三島が、このエッセイを読んでいたかどうかは知らないが、その後、こうした短編を書かなくなった理由を晩年の彼は、こう自己分析している。
「せっかちだが迅速軽捷な聯想作用が年齢と共に衰えるにいたったことと照応している。」(『花ざかりの森・憂国』解説 三島由紀夫 S43.9)
 ここで「聯想作用」は衰えたが「高度な頭の働き」については触れていないのは大きな意味があるように思えてならない。
「日本のナンセンス文学は、まだナンセンスにさえならない。(中略)ナンセンスは「意味、無し」と考えられるべきであるのに、今、日本のモダン語「ナンセンス」は「悲しき笑い」として通用しようとしている。」(『ピエロ伝道者』坂口安吾 S6.5)
 ここで安吾がナンセンス文学の先駆者として認めた井伏鱒二の『山椒魚』で聯想してみよう。岩屋に棲んでいた山椒魚が知らぬ間に成長しすぎて穴から出られない。それが「高度な頭の働き」ばかり大きくなって、「聯想作用」の衰えた晩年の三島だとすると、「聯想作用」とは山椒魚が穴から出て自由に泳ぎ回ることで、「純粋なばからしさ」の高みに達するとは、山椒魚が胸一杯に息を貯めて水面にあがって苦しくも太陽を仰ぐことではないか。そこはたとえ棲める世界ではないが、そこからの光なしには生きられないから、自由は太陽めざして水面の最頂点を狙うのだろう。その最頂点こそがノンセンスである。
「すべて『一途』がほとばしるとき、人間は『歌う』ものである。」(『ピエロ伝道者』坂口安吾 S6.5)
 とても艶めかしい表現だがファルスを歌っているとき、人間は精神的にイッているのだろう。不能だったといわれる三島の筆がばからしさの高みにめったにイケなかったのもわかる。三島はすでに『仮面の告白(S24.4)』で「告白の本質は不可能だ」と知っていた。それで一連のファルスの試作品も作ってみたのかもしれない。しかしそれも続かず、また不毛な告白と自己分析の長編小説に没頭していったのは何故か? それは安吾や井伏だけでなく日本の全芸術家にもいえることだが、芸術なんて「純粋なばからしさ」でいいと開き直れない何かが未だにあるのじゃないか?
「あと何百万年たっても、女が男にかなわないものが二つある。それは筋肉と知性である。」(『私の中の“男らしさ”の告白』三島由紀夫 S38.4)
 何故そんなに男らしくなければならぬか?人を和ませたり笑わせるのも、ハリケーンや解散総選挙で狡猾に生き延びるのも、そんな鍛え上げた筋肉も深遠な知性も必要ない。現実に忠実に行動をとれば、小さな手応えでも満足なはず。封建だの戦争だの国家だの勲章だの権威だの沽券を守るための無意味に巨大なセンスこそ「悲しき笑い」ではないか。
「おじいさんは、論語よみの論語しらずだね」(『不道徳教育講座』)
 そういう「ナンセンス」で、「山椒魚」になってはならない。2005年09月07日



意地と自棄

「自分の書いたものには絶対自信がある、これは全部本当だということを時間をかけても証明してやる、そういういわば意地で始まったのがこの仕事です」(立花隆『田中角栄と私の9年間』)
 「意地を通せば窮屈だ」と『草枕』の中で夏目漱石はいったが、意地でも本当を証明するのがジャーナリズムならば、無理を承知でウソも書くのが小説かもしれない。これを混同すると某新聞社の虚偽報道となる。
「自然は、われわれがとらえたと思っているものより、常により広く、より深い。(中略)自然というよりは、現実のすべてとでもいったほうがよいかもしれない。」(立花隆『エコロジー的思考のすすめ』)
 無理も道理も、ウソも本当も、全部、現実のすべて。これを道理と本当だけと言い張るならば自然主義やノンフィクション、ジャーナリズムだし、それが最初から全部、無理とウソと開き直るならSF小説や推理小説、ドラマ、ほとんどのエンタメがそうだろう。だが現実は「無理が通れば道理引っ込む」。それが金権政治や軍閥政治よりはフィクションの中の方が世は平和だから漱石や戯作者は半ば自棄クソで無理を通したはず。それが何のせめぎ合いもなく無理も道理も通ってしまうから、誰も与えられた解答なんか信じられなくなる。
「大切なのは漱石にあった“人間的なもの”についての懐疑である。彼は解答を与えたのではなく、疑問を提出しただけである。」(柄谷行人『人間的なもの』)
 安易に分かり合おうとする人間に対する懐疑と、書くことに救いが必ずあるという言葉への信頼が、意地や自棄に陥ったときの道標である。2005年08月30日



家庭連邦論

「家庭は人間生活の永遠絶対の様式であるか。男女は夫婦でなければならぬか。(中略)咢堂はこれらのことに就いてふれていない。」(『咢堂小論』坂口安吾)
 「世界浪人論」をいうなら「家庭浪人論」はなぜいわぬか?という40歳の安吾は自身の結婚問題に悩んでいたらしい。「国家の対立は文化の低さ」といい「日本人だの外国人だの狭い了見で考えず世界を一つの国と見て考えるべし」という「世界連邦論」を唱えた「憲政の神様」尾崎咢堂は、男女の対立と国家の対立は別物と考えていたのだろうか?
 「人生の本舞台は常に将来に在り」という咢堂の言葉からは、歳を取るほどに経験や知恵によって人生が豊かになるという思想が感じられる。そうした未来は暗い過去を引きずっては訪れない。そこで暗い過去を全肯定するときに必要とするものが「精神の連帯」への反骨精神ではなかろうか。体制があるから反体制もあるように、反骨精神というのも対象があってこそ燃え上がる。それは母親に駄々をこねる子すら知るもので、人は親に始まり、家、学校、社会、国家…と大きな連帯に反発しながら自我を確立する。青年時代から「学堂」という雅号でペンを執り、東京退去を言い渡された明治政府に愕然として「愕堂」に変えたという茶目っ気あふれる反骨の対象は、国家でも家庭でも「精神の連帯」なら何でもよかったのでは?そうした反骨によって錬磨された自我こそ、63年間という世界議会史上に残る咢堂の超人的な生命ではなかったか。
 ときに近年、自殺者が増えたり、地球環境問題を危惧する人が多い。こういう現象も「精神の連帯」を失った自我の空洞化からくる不安ではないか。いきなり死や地球などと飛躍してしまうのも反骨を忘れた生活のせいでは?生活とは反抗、反骨、反発の歴史ではなかったか。自然に反逆して文明も進歩してきたわけで、それを忘れるから数字だけで不安に陥ってしまう。社会保障などもカネの工面より連帯を組めん憎めんのが問題の根元。
 男女関係に家庭なぞ要らぬ、と敗戦の空気に乗って安吾は豪語したが、既に文明開化の時代に英国人女性と恋愛結婚していた大先輩の咢堂なら、今の離婚増加や年金不安、少子化の状況を何と言うだろう?中途半端に過去を捨てたり背負うくらいなら、いっそのこと、みんな連れ添ってワイワイ暮らせば?と「家庭連邦論」をいうに違いない。2005年08月28日



左右の銘

 坂口安吾は亡くなる二年前、『日本のアンマ(明日は天気になれ)』の中で、脊椎が軽く右に曲がってるのが万病の元だとアンマに執拗に言われたと書いている。
 世の多くの親は、子供が左利きだと右利きに矯正する。それは世の中のいろんなモノが右利き用にできているからだろう。ときに脳梗塞の後遺症は左右対称でおきる。即ち右脳で起これば左片麻痺になり、左脳なら右麻痺になる。そのように脳と全身が左右対称の働きをするなら、右利きの人は左脳を多用しているし、反対も然りだろう。左脳は計算や理論など「考える」が得意で、右脳は感覚や感性など「感じる」に敏感だといわれる。両方均等に使えば理想だが、お箸もペンもスイッチヒッターのようにはいかないから、知らぬ間に脳にも癖がつく。肩が凝ったり、背骨が曲がって腰が痛くなったり、魚の目ができたりするのも、脳の不均衡を示す兆候なのかもしれぬ。もし右に兆候があれば左脳の使いすぎ、つまり「考えすぎ」だから「感じる」よう努力したらいいし、反対なら「考えなさすぎ」なのだろう。
 「右に曲がってる…」というアンマの忠告が正しかったとすれば、安吾の脳出血は、きっと左脳であったに違いない。彼は「考えすぎ」で死んだのだ。感受性豊かだった彼が左手でペンを使って、原稿用紙でなく左から書くノートに書いていたら、ひどい肩凝りにもならなかったろう…。
 そのように日本語は縦にも横にも、つまり右からも左からも使える世界的にも珍しい言語だ。
「最近日本人の活字離れが言われるが(中略)あまりにデジタル化した文学が、そのデジタル過剰のために見離されているだけかもしれない」(『右脳閉塞症候群』安部公房)
 そういう安部氏は、その数年後に脳出血死した、ということは彼こそ右脳閉塞、つまり「考えすぎ」で死んだのかもしれぬ。本がつまらないのは内容以前に本がみんな縦書きで右から読まなければならない、つまり左脳ばかり使わせるからではないか?そういえば洋書と同じくネットの文章は横書きだ。それで右脳を刺激するのかもしれぬ。さすれば本が苦手な子には、横書きの電子図書で読ませるといいし、また科学が好きな子には、縦書きの本を読ませるといいだろう。そして左利きの子を右利きに矯正してしまうことは、天賦の才能の萌芽を遅らせ、しいては寿命まで縮める親のお節介というものだろう。2005年08月02日



亀羽目羽天皇

 『ヴィヨンの妻』で太宰治は、内縁の妻が居酒屋につとめて、夫がそこに通うという不思議な男女の安定を描いている。坂口安吾は反対に、妻を女給にして、家を酒場兼仕事場にしようとして覚醒剤中毒に陥った。ともに「家」の存在を否定しようという足掻きに見える。柄谷行人氏の『私小説の両義性』によれば志賀直哉や嘉村磯多の私小説には、「他者の欠如」「自閉的小児性」が現れているというから、ここにも「家」が個人より優位だったことがわかる。
「嘉村磯多氏は殆ど社会と没交渉な生活を送り、肉親達と又特に妻君とのせまい交渉の内部だけで執拗に内省しながら筆を執っていた人であるが(中略)嘉村氏の死後、その妻君の良人の追想など哀切で至高の貞女をしのばせるものがあった。」(「長編小説時評」昭和14.3 坂口安吾)
 「家」あるいは社会の外にしか男女の純愛はないと、彼等は言いたげである。それは何故か?
 封建社会とは子孫繁栄システムであり、そこにおいて性の倫理は生殖であり、性愛は単なる遊びでしかない。男の遊びは遊郭に封じられ、女も、『菊と刀』において米国の学者が観察したように、乳児相手の自慰的な遊びでしかなかった。これを芥川龍之介は『あばばばば』の中で、女が子をアヤして人知れず我欲を満たして安心する姿として描いていた。男女の遊びを家の外に封じることで家を建ててきたわけだから、その神秘を小説も描きたいのだろう。それを純愛と呼ぶかは別として。
 その封建制が西欧文明によって崩壊せられ、高度成長とともに人口も1億に達すると、生殖倫理も崩壊し、人間の本能が剥き出しになり、愛欲と同時に憎悪も暴力的となり、その対象も無差別となる。それが本能の実相であり、膨張する人口に対する自然の反作用とも見える。
 社会秩序の安定は本能を抑圧して維持され、本能の解放は孤独において可能だから、それが不安定なのも当然。この拮抗を社会が一律に強いるか、個人の裁量に委ねるかは、人口増を善とするか否かに因る。年金問題にあえぐ人々は、ならば封建制を強いるしかないのじゃないか? 時代に逆行して。
 そういえば生前の杉浦日向子さんの講演で、江戸の頃、家主が五人の坊主に庭の掃除をさせる時、現代人なら五人いたら五分の一の時間でできるはずと効率的に考えるが、江戸庶民は時間はそのまま与え、その代わり、辛い仕事が楽しくなると考えたという。この余裕は如何に生まれるのか?
「其れはまだ人が『愚』という貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」(『刺青』谷崎潤一郎著)
 太宰治が『ヴィヨンの妻』で言ったように誰もが「文明の果ての大笑い」に疲れて、「人非人でも生きていさえすればいい」と悟ったら、杉浦さんの残した「貴い徳」も生きるのだろう。それはかの私小説作家のように社会と没交渉でも、他者を無数に必要としてしまう「愚」(それが純愛の条件?)の自覚に現れるのだろう。こうした愛すべき愚者が最も不自由な場所、つまり最高権威にいる主権社会とは、実は秩序と本能が最も均衡しているのかも知れぬ。さすれば天皇もそういう愚者として崇拝されれば、新たな秩序を生むのではないか?南の島のユカイな大王のように。2005年07月27日



アルカイダなんてあるかいな?

「国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。」(『もう軍備はいらない』坂口安吾)
 「生活と人生は違う」と狐狸庵さんは言ったが、生活なき人生もない。如何にして現代人は「文明文化の生活」を確立すべきか?
「私は大概の時に純粋持続の上にを(お)る。文明人は常に生命の流れを遮断して生活している。」(中原中也の日記より)
 大正から昭和初期にかけてベルグソンの哲学は流行ったということは、中也のような当時の文明人はそんな難解な哲学書を読んで、かろうじて生活していたらしい。
「ベルグソンは普通、世間でいう『時間』とは例えば針の動きで計るような、実のところ空間化された時間であって、人間が精神の裡で経験する時間、いわば『生きられる時間』ではないということを明らかにしたのである。この『生きられる時間』こそ、『純粋持続』であって、それは人間の経験の中を『流れる時間』なのであって、『空間化された時間』とは『流れた時間』なのである。」(『汚れつちまつた悲しみに……』解説 新保祐司著)
 郵政民営化に反対の人々も、テロ対策で街中に監視カメラを何千台も設置しなければならぬ英国も、未来が不安でいっぱいなのは『空間化された時間=流れた時間』という過去に生きて、今起こっている現実が見えていないからではないか?何故それは見えないのか?
「人は生活して行かなければならなかった。(中略)生活するということは行為することである。」(ベルグソン『笑の研究』)
 ここで「ならなかった」と過去形になっているのは、それが近代以前の話だから。産業革命による近代化以降、生活しなくてもよくなった代わりに「物そのもの」を見なければならなくなったとベルグソンはいう。過去の生活においては「物に貼られた付け札」を見るだけで済んだ、と。例えば「世にも美しい女性」と結婚した場合、その付け札を勝手にその女性に貼っていただけなので、時間が経つにつれ、その付け札が色褪せ、現物は修正のしようがないなら、「パートナー」とか「女房、かみさん」などと現実に即した新たな付け札を貼って自己の観念を修正すれば、生活は大抵、実用で済んでしまい、その女性を改めて見なくて済んだわけだ。ならば、離婚が増える昨今は、よほど「物そのもの」が見えているらしい。物が激しく変容した近代に「物そのもの」を見なければ生活できなかったならば、事多き現代は「事そのもの」を見なければ生活できないのではないか?
 ときに昨今はお笑いブームだという。こういう事象も、中也に言わせれば、それほど時間が「生命の流れ」を遮断しているからだというだろう。脱線事故が起こるのが過密ダイヤのせいというのと同様に。ならば、英国の多発テロも、そこが秩序ばかりで生命の流れが遮断されていたから起きたのではないか。秩序というのも過去の「付け札」であり、現実に即しないなら修正せねばならない。敵を監視したり、反対はしても「付け札」しか見えていないのなら「物・事そのもの」という激動する現実は見えない。文明の中にいながら付け札だらけで生活が確立されていないからテロや脳梗塞に遭う。アルカイダなんてホントにあるかいな!?とルールを脱線したくなる現代生活である。2005年07月08日