| 惜しみなく自由も奪う(上) |
有島武郎がキリスト教を捨てたのは「明治四十三年」とある。その年譜には当時の社会的事件が併記されていて、二年前にはニーチェの『この人を見よ』の出版が記されている。 「ニーチェは弱い人だった。彼もまた弱い人の通性として頑固に自分に執着した。そこから彼の超人の哲学は生まれ出たが、そうしてそれは強い人に恰好な背景を与える結果にはなったが、それを解して彼が強かったからだと思うのは大きな錯誤といわねばならぬ。(中略)強い人は幸いにして偉人となり、義人となり、君子となり、節婦となり、忠臣となる。弱い人はまた幸いにして一個の尋常な人間となる。それは人々の好き好きだ。私は弱いが故に後者を選ぶほかに途が残されていなかったのだ。」(『惜しみなく愛は奪う』有島武郎著 旺文社文庫p.30) もう一つ、「ずるい人」とは、強い人が好きだ。ほとんどの人々は、この「ずるい人」である故に生き延び、強い人はますます強く、弱い人はますます弱くなる。 「今のような人間の進化の程度にあっては、知的生活の棄却はおそらく人間生活そのものの崩壊であるであろう。しかしながら、その故もって本能的生活の危険を説き、圧抑を主張するものがあるとすれば、それはまた自己と人類とを自滅に導こうとするものだといわなければならぬ。この問題を私がこのように抽象的に申し出ると異存のある人はないようだ。けれども仮にニーチェひとりを持ち出して来ると、その超人の哲学はたちまち四方からの非難攻撃に遇わねばならぬのだ。」(『惜しみなく愛は奪う』有島武郎著 旺文社文庫p.98) 仮に秋葉原通り魔殺人犯を持ち出して、現代社会の「圧抑」を主張するものがあれば、「たちまち四方からの非難攻撃」となろうか。 「社会的なる人間と個人的なる人間と、この二つが相反せざる唯一のものとなり得る時があるだろうか。思うに現世の良俗は破れた嚢を縫うような間に合せな稚拙なカリヌイであるにしても、あらゆる現世に於て多かれ少かれカリヌイであることはその宿命で、良俗に就てかかる絶望的な宿命を確認することは、良俗への侮蔑の念を失う根柢ともなるものである。」(『思想なき眼』坂口安吾 昭和22) アキバの通り魔も、現代の「破れた良俗」にとって「絶望的な宿命」だったのかもしれぬ。 「自分が自分であることを忘れさえすれば、どうしてこの逆巻く波さえも心にかかることがあろう。そう思ったときに恐れや後悔の念はたちまち湯に溶けた雪のように消え去って、跡方もなくなった。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫 昭和45) そんな恍惚状態はゲームの世界と同じく、確かに自由だが、自己喪失ではないか。愛も奪うが、自由も惜しみなく奪うらしい。「尋常な人間」ほど、その失われた自己を取り戻そうとしてもがくだろう。有島だけでなく、芥川や太宰が自己について書きまくって自殺したように、足掻いた挙げ句、最後にプッツンしてしまう。ニーチェは死ななかったが半死状態になった。認知症というのも、そういうプッツン状態なのだろう。自由の先には永遠の無があるとすれば、それを避けるにはどうすればよいか? |
2008年6月13日 (金)
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