愛の真空管?
リアリズムとFiction(上) (下) 毒薬の安楽 天下泰平の死相 戦死し損ねたサムライ(上) (下) 『無差別殺人結構論』 仮面のコクハク


リアリズムとFiction(上)
「石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別なことばにつつまれて窺うことができません。この構造を裏づけるに十分な経済も戦力も日本にないということまで、さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせたのです。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 この「石油戦略」とは先の大戦での南方進出作戦であり、「この構造」とは大東亜共栄圏のこと。
「“大東亜共栄圏”などとは、むろん美名です。自国を亡ぼす可能性の高い賭けを、アジア諸国のために行うという―つまり身を殺して仁を為すような―酔狂な国家思想」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 昨今いわれる「地球温暖化」とか「エコ」「テロとの戦い」という美名も、要するにエネルギー戦略ではないか?国際社会だの、西側世界に仁を為しているうちに自国が亡びなければいいが。
「昭和四年(一九二九年)のニューヨークの株式恐慌にはじまる昭和恐慌は、世界も日本も大変でした。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 昨今のサブプライム恐慌とそっくりではないか?やはり今年は「平成二十年」ではなく、「大正廿年」なのではないか?
「大正末年から昭和初年にかけて疑似的な普遍思想、すなわちイデオロギーがひろがり始めたのです。具体的にいえば、「右翼」と「左翼」が出てきた途端に、明治からの資産だったはずのリアリズムが、大きく足をすくわれたといえるでしょう。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 昨今もグローバリズムという「普遍思想」がひろがり始めている。問題なのは右か左ではなく、その分裂と、リアリズムの喪失だろう。
「わたしの図式で言えば、これはまさに外的自己と内的自己との対立であるが、この分裂病的対立の特徴は、和解と統一がきわめてむずかしいことである。」(『分裂病日本のなかの戦後民主主義教育』岸田秀 昭和62)
 なぜ、分裂するとリアリズムを失うか?
「内的自己と外的自己が分裂し、たがいに切り離されると、内的自己も外的自己もともに歪み、変質する。外的現実との関係をうまくやってゆくことを役目とする外的自己から切り離された内的自己は、現実が眼に入らなくなり、誇大妄想的となる。同時に、外的自己は抑圧されるので、実際には自己の一部である外的自己が自己の一部と感じられなくなり、外界に投影され、外界のほうから内的自己に敵対してくると見えてくるため、内的自己は被害妄想的にもなる。」(『日本人は親米か反米か』岸田秀 昭和62)
 その誇大妄想と被害妄想の「内的自己」が昨今の過激なナショナリズムだろうか。しかし、精神分析的思考も欧米思想に投影された外的自己ではないのか?だとすれば「和解と統一」のためには、思想であれ、神であれ、何かに自己を投影するしかないのではないか?
「西洋人の観念には、神という絶対の存在―つまり比類を絶した唯一のウソ―があるように思いますね。(中略)神学の時代がおわって近代小説がはじまったとき、大文字のGodをあつかうように、ごく自然に大文字のFictionをあつかって、この絶対虚構は、ある、ある、と糸巻に糸をまきつけるようにして展開してきたような気がします。「日本は、明治以来、西洋のものを何でも入れてきましたが、文学だけは入れませんでしたね」と、アメリカの日本学者のアール・マイナーさんから、明るい皮肉をこめていわれたことがあります。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
2008年8月23日 (土)

リアリズムとFiction(下)
 ときに北京五輪の開会式を「口パク」「うそだらけ」「偽装」「空疎」と非難するジャーナリズムは、五輪そのものが平和的なFictionであることを忘れている。あの演出に自信を持っている中国のリアリズムは、そのメダルの数が物語っているではないか。FictionをFictionでないと思い込んでいるところに、すでにリアリズムが失われている。『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』など多数の歴史小説の創作から「司馬史観」が生まれたように、リアリズムとはFictionから得られる。
「西洋人には志賀直哉は退屈かもしれませんが、日本人には、透けていく神をみるような愉しみを覚えさせるのです。しかし、国家や社会に怖れを感じさせるようなどすのきいたリアリズムというわけにはいきません。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 漱石や鴎外の時代まではよかったが、私小説や自然主義が主流となり、プロレタリア文学が流行するに至って、Fictionを軽蔑するかのような言論界がリアリズムを喪失していったのも当然だろう。
「目下の日本帝国にはそういう文章を読んで「枯淡の風格味うべきものあり」なぞと珍重する読書人がハバをきかしている(中略)日本帝国の忠良なる作家達が齢と共に悩みの数をめっきり減らしてくるというのは、減らすような不当な作為を暗に用い、或いは気付かざる伝統の気風によって、然うならしめられているとしか思われない。」(『枯淡の風格を排す』坂口安吾 昭和10)
 現実には叶いそうもない醜悪な欲望だからこそFictionの題材になり、書くことによってその欲望は実在し、それを自覚することこそリアリズムであろう。その悩みを美文や美風でつつみ隠すことはその反対である。
「彼の思惟の根柢に、ただの一個の人間たる自覚は完全に欠けており、ただの一個の人間でなしに、志賀直哉であるにすぎなかった。だから神も哲学も、言葉を弄ぶだけであった。(中略)志賀流の日本の私小説も、それと同じニセ苦悩であった。」(『志賀直哉に文学の問題はない』坂口安吾 昭和23)
 北京五輪の演出を「ニセ」ということは、「志賀流」がいまだにはびこっているらしい。そういう人ほど米国に迎合し、そういう外的自己を抑圧しているから、中国が敵対してくると見えるのではないか?
「ともかくも、明治・大正のインテリが軍事を別世界のことだと思い込んできたのが、昭和になって軍部の独走という非リアリズムを許したのだと思います。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 同じように、死も「別世界のことだと思い込んできた」から一億玉砕とか、集団自決、特攻隊、散華などと非リアリズムの独走を許したにちがいない。平成の日本人はほとんどがインテリで、軍事も死も別世界、ということは、次の年号になる頃には、また非リアリズムの独走を許すにちがいない。無差別殺人などはすでにその徴候ではないか?
「お客さん大事というレトリックでいうと、政府にとっては国民はいつでも税金を払ってくれるお得意さんですから、(中略)消費税の問題にしても、もっと魅力的なレトリックで説明してほしいものですね。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 こんな不況の時に消費税など上げたら次の選挙に勝てない、と自民は考えているようだし、公明もインド洋での給油延長には慎重な姿勢らしいが、国の命運にかかわる重大事なら、郵政民営化の時の小泉首相のように身を殺してでもやる姿勢を見せればいいのに、核心を隠して、ひたすら党派に仁を為すのでは、二十世紀の軍部よりひどいではないか?
「昭和の軍部というのは、自分の弱みという弱みを、極大から極小まで軍機という秘密主義でつつんで、軍そのものと国家を神秘的な虚像にしていましたから。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6)
 ということは、「さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせ」ている、この現実のすべてが「Fiction」にすぎないというリアリズムだけが、非リアリズムの独走を防ぐ手段だろう。
2008年8月23日 (土)

毒薬の安楽
「私が戦争文学のことについて書きたい気持になった理由は、実は戦争小説でない小説、しかし、よく戦われた小説を読んだからだ。その書の名はジャン・ジュネの「泥棒日記」。(中略)彼は必死に戦ってきた彼の泥棒の、また男娼の生涯を語る。彼の最大の感動は、男性の性器と、男性の威力なのである。」(『戦の文学』坂口安吾)
 男娼といえば、野坂昭如氏の『エロ事師たち』や、中上健次の『讃歌』を思い出す。
「路地のもつ奔放さと淫蕩さは金銭をも超えたところに存在した。善も悪も無価値となり、アホという無意味な価値だけが路地を形成し、生み出し、それゆえに禁忌の匂いを濃密に保っていた。(中略)このまがいの路地を薄くおおっているベールは、死の匂いである。」(『讃歌』中上健次 解説 松山巖)
 中上の年譜によると『讃歌』刊行の二年後に彼は癌で死去。ということは「死の匂い」どころか「死そのもの」を実感していたのかもしれぬ。『讃歌』刊行直後には「永山則夫の日本文芸家協会入会が拒否されたのに抗議して、柄谷行人らとともに脱会」とある。永山といえば「永山基準」で有名な元死刑囚であり、獄中で多数の著書を書いた作家だ。まさしくジュネであるが、それを認めない協会への怨恨が彼の腹を病ませたのかもしれぬ。
「人間をすみやかに焼きつくしてしまうものは、怨恨の情にまさるものはない。憤懣、病的な傷つきやすさ、復讐をとげる力なくして復讐を意欲し渇望すること、あらゆる意味での毒薬調合―これは衰弱した病者にとっては確かにもっとも不利な反応のしかたである。」(『この人を見よ』ニーチェ)
 さすれば、『讃歌』も文学的な「意味での毒薬調合」であったか。
「人間的ということは何であるか、何が人間的なものであるか、……戦争を経験した人間はたぶん誰でもそう自問自答しなければならなかっただろう。が、重要なのはその自問自答を持続する意志である。解答など必要としない懐疑への意志である。率直にいえば、今日の戦後文学者(戦中派・戦無派をふくむ)のほとんどに、そういう懐疑は跡をとどめていない。」(『人間的なもの』柄谷行人 昭和48)
 考えてみれば、戦争小説ほど文学的毒薬もなかろう。では、その効能とは何か?
「私は戦争にめぐりあいたかった私の期待が恥ずべきものだとは考えていない。恥ずべきことがあるとすれば、戦争にめぐりあいながら、いまだにロクな戦争小説一ツ書いていないというダラシなさであろう。(中略)ジュネの「泥棒日記」には、まさしく生きぬくための力を与えられたと言ってよかった。もしも生きるのに切なすぎるような時には、この本をとりだして読むことにしようと考えたほどであった。」(『戦の文学』坂口安吾)
 それが毒薬の効能だとして、そういうウツ状態を放置するとどうなるか?
「私は一週間ほど前に、私の最も愛している大きな犬(コリー種)と大格闘をやって、ひどい怪我をした。(中略)私は犬から受けた重傷が化膿するのを医者にも見せず放ったらかしておいた。彼が狂犬で、彼にかまれた私が狂犬病で死ぬことになれば面白い結果だと考え、私が狂犬病の発作を起して口をきくことができなくなった場合に、安楽に殺してもらうために、安楽死の命令書を書いてフトコロに秘めておいたのである。」(『戦の文学』坂口安吾)
 安楽死ということは、やはり毒薬の御厄介になるらしい。
「(吉行)たとえば今日寝るとするね、明日おまえさんは起きないんだよって言われたら、どういう感じを受けますか。(野坂)ほんとうに有難うという感じですね。(吉行)やっぱりね。いろいろ苦労してるわけですな。ぼくも大有難うだな。有難うと言わせるためにいろいろの苦労があるんじゃないかと思うね。いや、難しい問題だから深くは触れないけれどね、二十一世紀の大問題の一つは安楽死だとぼくは考えている。」(『恐怖・恐怖対談』吉行淳之介、野坂昭如 昭和53)
 その吉行は医者から死を宣告されて「大有難う」とはいわず「シビアなことをおっしゃいますなあ」と呟いたという。どうも人間は、その「シビアなこと」に直面するまでは、その誘惑につられて戦争もし、病気もし、男娼もし、泥棒もし、それを小説を書かずにおれないらしい。そのジュネがこう語ったという。
「聖性とは苦痛を役立たせることである。それは悪魔に神であることを強制することだ。悪の感謝をかちうることだ。」(『戦の文学』坂口安吾より)
 さて、ジュネなら安楽死させてくれる医師に感謝をいうだろうか?ちなみに永山則夫は処刑の際に激しく抵抗したらしい。死に直面しても毒を吐くのが聖者の条件かもしれぬ。
2008年8月20日 (水)

天下泰平の死相
 またもや八王子で無差別殺人が起きた。
「漱石のいい分をいいかえれば、もし人間が犯罪行為の過程をありのままにいうことができたとしたら、その罪はない、もっと極端にいえばべつに表現してもしなくてもよいが本当は誰でも無罪なのだといっているのだ。」(『人間的なもの』柄谷行人 昭和48)
 犯行をありのままにいえるから無罪なのではなく、やはり実行したら有罪だが、いうこと自体は罪ではないし、いえるくらいの思考能力があれば実行には移さないものだ。みんな漱石みたいなら、事件は起こらないし、「誰でもよかった」「むしゃくしゃして」という犯行動機に「子供っぽい」では片付かない「何か」を見い出すだろう。
「民主主義的自由は、死の衝動を薄める効果のある薬剤ではあるが、死の衝動をごまかさせる効果はあっても、死の衝動そのものを解放したり、あるいは根絶したりする力は持たない。」(『天下泰平の思想』三島由紀夫 昭和38)
 無差別殺人犯は逃亡しない。できるだけ目立って捕まることが、むしろ目的のようだ。その行動形式は確かに駄々をこねる子に似ている。
「ヒステリーという言葉について一言説明すると、それは行動の動機が周囲の気を引くことに存し、周囲の動向に敏感に反応しながら、しばしば極端な手段に出ることを指していう。このような態度は、周囲の注意を一身に集めようとするところから、ふつう自己中心的と形容される」(『甘えの構造』土居健郎 昭和46)
 「今の若者は過保護で、がまんができない」と、いつの時代も老人は繰り言のようにいうが、家族や友人すら殺傷の対象となる現代人の孤立感、というより生命倫理の希薄さも、その「薬剤」の効果だろうか?
「医者などは安らかな眠に赴むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝らしている。こんな拷問に近い所作が、人間の徳義として許されている」(『硝子戸の中』夏目漱石 大正4)
 今朝の新聞に、日本医師会による政府の医療費削減に反対する広告が載っていた。「福田政権もまだまだ捨てたもんじゃない」と漱石もいうかもしれぬ。オランダでは年間二千人も安楽死しているという。医者が拷問を自覚し、それを控えているわけだ。尊厳死という徳義まで設けて、社会が自殺を認めている。
「死は生よりも尊とい」(『硝子戸の中』夏目漱石 大正4)
 かくいう漱石も生への執着を捨てきれず、人に死を勧めることができないで苦しんでいたようだ。どこの世界の人間が同胞に死を勧められよう?神じゃあるまいし。
「我等若し心狂へるならば神のためなり、心確かならば汝等のためなり。(パウロの言葉)」(『ドストエフスキイの生活(死)』小林秀雄 昭和14)
「私は人類の一人として他の人類の一人に向わなければならないと思う。」(『硝子戸の中』夏目漱石 大正4)
 結局、本人が死を選ぶしかない。ほとんどの人が病死ということは、結局、本人が死に方を選んでいる。医師はただ病名を告げ、本人の生きる意志を支えるくらいが務めにすぎない。病人であれ、最期まで人間らしく生きる尊厳の維持にこそ、社会保障費は使われるべきであろう。
「不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生より楽なものとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。」(『硝子戸の中』夏目漱石 大正4)
 現代のメンタルヘルスなら、それを「抑ウツ状態」と診断して、クスリを処方するだろう。そうして医療は発達し、医療費は膨張するが、最後は結局、死を「生より楽なもの」と認めざるを得ないのが医療の限界ではないか。
 『硝子戸の中』を書いた翌年、『明暗』を未完のうちに漱石は50歳で亡くなった。死ぬ間際まで「他の人類の一人に」向き合った、これこそ尊い徳義といわねばならぬ。
「私がキルケゴールを好んだのは、彼が他者を欠いた実存が「死に至る病」であることを言っていたからだ。(中略)キルケゴールが「死に至る病」と呼ぶのは、(中略)「現実感」そのものが稀薄な状態なのである。」(『畏怖する人間』「著者から読者へ」柄谷行人)
 むやみに医療を信仰し、「死」という「他者」を欠いた「天下泰平の思想」が、無差別殺人に遭遇して思考停止に陥るばかりか、さらに医療費を要求する。死も現実感も稀薄な、このユートピアこそ「死に至る病」ではないか?
「ユートピアとは、贋物の一つもない社会をいう。あるいは真実の一つとない社会でもいい。」(『ユートピア』トマス・モア 1516)
 これでは誰が一体、「人間の徳義」を教えればいいのか?「拷問はやめよ」とさすがの漱石もいうに違いない。
2008年7月23日 (水)

戦死し損ねたサムライ(上)
「殉死し損ねた阿部一族を主題としたのは、鴎外が殉死というものを、距離をおいて眺めていたからであるが、この殉死し損ねた武士の心の中にあったものは、殉死した武士より以上の曲折した主君への愛情であり、武士の意地であったのである。」(『百人一語』(森鴎外)梅原猛 平成5)
 ときに、先の大戦で、戦死「し損ねたサムライ」といえば、この人…
「わたしも二十歳でおそらく戦争で死ぬことになるであろう自分を、ラディゲの像に仮託して、なんとかラディゲを自分のライバルにして、追いつこうとする目標にこの小説を利用していたのである。」(『葉隠入門』三島由紀夫 昭和42)
 と、後年の三島は述懐する。20歳の彼が戦死するつもりでいたかは不明だが、とにかく当時の彼には「天才ラディゲ」が「主君」であったらしい。
「もっともっと鴎外を読もう。鴎外のあの規矩の正しい文体で、冷たい理知で、抑えて抑えて抑えぬいた情熱で、自分をきたえてみよう。」(『私の遍歴時代』三島由紀夫 昭和38)
 と38歳の彼は、今度は、森鴎外を「主君」にしたらしい。
「森鴎外に『大塩平八郎』という作品があるが、(中略)あくまでもアポロン的な(註:静的・理性的)鴎外は、大塩平八郎のディオニュソス的な(註:動的・情意的)行動に対して十分な感情移入をなしえず、(中略)鴎外の自分が描く人物に対する共感は、多くはその人間が止むをえざる受身の行動をするときにかぎっている。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫 昭和45)
 かくいう45歳の彼は、大塩平八郎に「感情移入をなしえ」ていたらしいが、その大塩の目指した革命とは如何なるものであったか?
「その蜂起の二つの大目的、腐敗した権力者の打倒と貧民救済とは、二つながら果しえず、(中略)徒党の一味は惨憺たる結末をとげ、平八郎親子も火の中で自らの命を絶った。こうした行動の無効性、反社会性について鴎外は批判的なのである。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫 昭和45)
 と、今度は鴎外に批判的な三島であるが、ならば三島は大塩のどこに共感していたのか?
「大塩が人に憎まれた理由も、この極端な清廉さにあったかもしれない。(中略)大塩平八郎はその非常な意志力と行動の決断力において、一学派を立てたほどの学者らしくもなかった。かれは東大の教授とはもっとも遠いタイプの学者であった。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫 昭和45)
 それにしても、大塩はなぜ、かくも「貧民救済」に拘泥したのか?
「幼いときに故郷を離れて二軒の家の養子として転々としたその幼年時代は、おのずから激烈な性格を彼の内部に培ったことは容易に想像される。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫 昭和45)
 不遇な幼年時代でその後、大成した人物なら、徳川家康などを想像するが…家康は「激烈」というより、むしろ臆病だったとも聞く。三島が「容易に想像され」たのは、単にその境遇に親近感を覚えたからではないか?
2008年7月12日 (土)

戦死し損ねたサムライ(下)
「三島由紀夫の場合は、自己中心的で支配欲の強い祖母に育てられるという悪条件の上に、息子の彼を見捨ててそのような祖母に任せている両親がそばに存在するという悪条件が重なった。(中略)すなわち、抑圧されたものを足場として反抗し、その反抗を通じて自己を築きあげる余地がなかった。(中略)そのため、反抗するという行為から、その主体的意味がすべり落ちてしまう。」(『三島由紀夫論』岸田秀 昭和51)
 たしかに大塩も反抗期なく幼年時代を過ごしたようで、それゆえに社会の矛盾を受け入れられぬ完璧主義な性格が作られ、それが反社会的行為に及ばせたとしたら、その「癇癖の芽」を早いうちに摘んでくれる鬼親の存在とは、まことに大きい。幼年時代の反抗期の意義は、まことに図り知れない。ヤンキーを見習えとは言わないが、あまりに「いい子」だと、救いようのない事件で人生をフイにしかねない。
「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫 昭和45)
 ということは、昨今の無差別殺人なども、「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている」社会への決死の革新的行動ともいえよう、か?三島も、そんな「無事安泰」な現代社会の偽善に体をぶつけて自決したのだ、といいたいらしいが、その自殺には何か濁ったものがあるように思えてならない。
「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加藤霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ。」(『年頭の迷い』三島由紀夫 読売新聞掲載 昭和42)
 こうした英雄への同一化も「反抗するという行為から、その主体的意味がすべり落ちて」しまったせいではないか?それに、ラディゲに始まり、鴎外や大塩平八郎…など次々と目標を担ぎ上げて「自分をきたえて」なければならぬのも、「反抗を通じて自己を築きあげる余地がなかった」からだろう。
「彼は殉死を多少批判的に見ているものの、殉死した人間に深い愛情を持って描いている。これはいささか歪んだ関係であるが、それを失ったら道徳そのものが失われるのではないかと、鴎外は憂えていたのではないだろうか。」『百人一語』(森鴎外)梅原猛 平成5)
 三島と鴎外の殉死に対する微妙な違いは、この「歪んだ関係」の有無であろう。歪んだ親子関係であったがゆえに、三島にはこの「歪んだ道徳」を持ち得なかった、とすれば、複雑な人間関係の中で自己を築きあげなければならない現代の若者も、鴎外を見習って、留学先で恋人をつくり、狂乱する恋人を捨てて帰国するほどの「冷たい理知で、抑えて抑えて抑えぬいた情熱」というより「その非常な意志力と行動の決断力」をきたえるべきであろう。
2008年7月12日 (土)

『無差別殺人結構論』
「金閣寺に放火した犯人が「美に対する嫉妬」と言ったり、「見物にくる人間への反感」と言ったという新聞記事の報道は、犯人がそのとき、そう言ったという事実を伝えているかも知れないが、犯人の本当の心がそれにつくされていると考えるのは速断にすぎるであろう。」(『国宝焼亡結構論』坂口安吾 昭和25)
 秋葉原事件に限らず、昨今の事件には必ず精神鑑定がつきものだが、果たしてそれで「犯人の本当の心」は断定できるのだろうか?
「私のように、それを表現することが商売の人間ですらも、自分の観念を思うように表現するには時間も技術も必要であり、うッかりすれば、人の言葉の借り物となり、自身考えつつあることとは相当ヒラキのある妙なものとなってしまいがちである。」(『国宝焼亡結構論』坂口安吾 昭和25)
 数々の推理小説を手掛けた名手ですらこうなのだ。
「彼らが最も真実であると肩をそびやかして語ることを、彼がこう語った、という事実として新聞が報道するのは当然であるが、文士や学者や社会批評家という啓蒙をもって天職とせられるお歴々に至るまでが、これを真実として批評の対象とせられるのは、どうかと思う。」(『国宝焼亡結構論』坂口安吾 昭和25)
 アキバ事件について各メディアは様々なアングルで分析しているが、そこで啓蒙する「お歴々」は、一体、何を語っているつもりなのだろう?
「結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞きだすことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳ももたないのだ。」(『この人を見よ』ニーチェ)
 人は己しか語れない。しかし、そうと気づかないからウカツに法務大臣を「死に神」呼ばわりしてしまう。そんな両刃の剣を承知の上で「啓蒙をもって天職とする」ジャーナリズムや学者は「事実より真実を見よ」と、安吾は啓蒙というか啓発、いや挑発しているのだ、自分に。
「法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。」(『日本文化私観』坂口安吾 昭和17)
「我々は東京が廃虚と化してもより立派な帝都を作るに事欠かないし、法隆寺の瓦を大砲に代えることに敢て多くは悲しまぬ。」(『伝統の無産者』坂口安吾 昭和18)
 いくら戦時中とはいえ、彼も法隆寺に放火しかねない心境だったのかもしれぬ。しかし、そういう自分の真実を知っているから、他人の真実に聞く耳ももてるのだろう。
「金閣寺よりも広島や長崎の原バク記念地の方が、どれくらい国際観光客をひきつけるものであるか知れないと考えている。」(『国宝焼亡結構論』坂口安吾 昭和25)
 事件から一ヶ月が経っても慰問に人が訪れるという、秋葉原の路上にこそ「記念地」を建設すべきと彼ならいうだろう。それが何を語るかは、各自が自分の真実に聞く耳をもつしかないのだろう。事実は事実しか語らない。
「文化というものは、過去にもとめるよりも、未来にもとめる建設の方が大切なのである。」(『国宝焼亡結構論』坂口安吾 昭和25)
 記念物が壮絶な事実しか語らないというのも悲劇的だが、歴史とはそういうものかもしれぬ。金閣寺も法隆寺も、あの荘厳な建築意匠は、それが作られなければならない不安な時代を物語るではないか?
「火は自然に起り、滅亡と否定は常態であり、建てられた伽藍は必ず焼かれ、仏教的原理と法則は厳密に地上を支配していた。(中略)そのころ地上は不安だった。昭和二十五年の今も地上の不安はそれに劣るものではなかった。かつて寺々が不安によって焼かれたのだとしたら、どうして今金閣が焼かれないでよい筈があろうか?」(『金閣寺』三島由紀夫 昭和31)
 ときに平泉中尊寺が世界遺産に落選したという。あらためてリストを眺めてみると、こんなに世界遺産は日本にあったのかと驚く。「過去にもとめる建設」にこれほど積極的な日本文化は、よほど未来が不透明らしい。その点、未来に語り継ぐべき悲劇が起こるヲタク文化は、ちょうど今が旬にちがいない。
2008年7月9日 (水)

仮面のコクハク
「告白は自我の真相を語る手段ではなく、寧ろ告白という通路によって自我に限定を与えてしまう。(中略)告白は次の告白を必要とし、どこまで行ってもきりがなく、徒に真相を離れてただ破綻するのみである。」(『文芸時評』坂口安吾 昭和21.7)
 ときに、三島由紀夫は昭和24年の『仮面の告白』の発表に際して、こう語っているという。
「肉にまで喰い入った仮面、肉づきの仮面だけが告白をすることができる。『告白の本質は不可能だ』ということだ」(河出書房 月報ノートより)
 もし三島が坂口のこの時評に触発されたと仮定すれば、彼は「破綻するのみ」と承知の上で、「真相を語る手段」ではなく、寧ろ「真相を離れ」「自我に限定を与え」るために、あえて不可能な告白をしたことになる。そこまで離れたい真相と、限定せねばならぬ自我が24歳の彼にあったらしい。
「人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表われであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめていた。」(『仮面の告白』三島由紀夫 昭和24) 
 現代の芸能人が演技の中で自己を語ることはあり得ても、日常まで演技ということがあろうか?しかし、それに気づかないから25歳の平凡な若者が突然キレて無差別殺人したりするのだろう。
「私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと自分を考えるが、もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の恥部(註:「セツクス」とルビがふってある)に他ならないかもしれないから」(河出書房 月報ノートより)
 そういった24歳の詩人、いや「詩そのもの」は後に、こうもいっている。
「私は妙な性質で、本職の小説を書くときよりも、戯曲、殊に近代能楽集を書くときのほうが、はるかに大胆率直な告白ができる。(中略)私は二十代に入ると同時に詩作をやめてしまった。自分が贋者の詩人であることに気づいたからである。」(『聲』第八号同人雑記より)
 この雑誌は昭和33年の創刊とある。33歳の三島にとって戯曲こそ「詩そのもの」であったらしい。「人類の恥部」はどこへ行ってしまったのか?彼はこの年、結婚し、翌年には長女が誕生しているから、もしかすると、そこへ隠されたのかもしれない。
「自由詩をつくる人々は自由詩だけが本当の詩で、韻のある詩や、十七字、三十一字の詩の形式はニセモノの詩であるように考えがちだけれども、(中略)十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云えば文字にしかよらない散文、小説でも、限定ということに変りはないかも知れないではないか。」(『第二芸術論について』坂口安吾 昭和22)
 三島がこの評論を目にしたか定かではないが、24歳の「詩そのもの」は告白を小説でやり、33歳の「贋者の詩人」は芝居のほうが「大胆率直」にできるといっているのだ。
「どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言えぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、と大人は考えるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のように考える。ふつう、こういう考えは詩を書くのにはふさわしいが、小説を書くのには適しない。「仮面の告白」は、それを強引に、小説という形式でやろうとしたのである。」(『私の遍歴時代』三島由紀夫 昭和38)
 そういった38歳の彼はすでに仮面などなくとも告白できていたようだが、それは「大人の考え」であって、真相の告白ではなかったのかもしれない。
「かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持には今も変りはない。」(『花ざかりの森・憂国』解説より 昭和43)
 結局、この『憂国』は彼が監督、主演までして映画化された。告白もここまでくると、次の告白は、真相の破綻、つまり自決しかなかったらしい。豊かな才能ゆえの悲劇であるが、身をもって「告白は不可能」という逆説を証明したともいえる。凡人にはそんな心配はいらないから、キレそうになったら「仮面の酷薄」でも書くべきかもしれぬ。
2008年7月2日 (水)