| リアリズムとFiction(上) |
「石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別なことばにつつまれて窺うことができません。この構造を裏づけるに十分な経済も戦力も日本にないということまで、さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせたのです。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6) この「石油戦略」とは先の大戦での南方進出作戦であり、「この構造」とは大東亜共栄圏のこと。 「“大東亜共栄圏”などとは、むろん美名です。自国を亡ぼす可能性の高い賭けを、アジア諸国のために行うという―つまり身を殺して仁を為すような―酔狂な国家思想」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6) 昨今いわれる「地球温暖化」とか「エコ」「テロとの戦い」という美名も、要するにエネルギー戦略ではないか?国際社会だの、西側世界に仁を為しているうちに自国が亡びなければいいが。 「昭和四年(一九二九年)のニューヨークの株式恐慌にはじまる昭和恐慌は、世界も日本も大変でした。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6) 昨今のサブプライム恐慌とそっくりではないか?やはり今年は「平成二十年」ではなく、「大正廿年」なのではないか? 「大正末年から昭和初年にかけて疑似的な普遍思想、すなわちイデオロギーがひろがり始めたのです。具体的にいえば、「右翼」と「左翼」が出てきた途端に、明治からの資産だったはずのリアリズムが、大きく足をすくわれたといえるでしょう。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6) 昨今もグローバリズムという「普遍思想」がひろがり始めている。問題なのは右か左ではなく、その分裂と、リアリズムの喪失だろう。 「わたしの図式で言えば、これはまさに外的自己と内的自己との対立であるが、この分裂病的対立の特徴は、和解と統一がきわめてむずかしいことである。」(『分裂病日本のなかの戦後民主主義教育』岸田秀 昭和62) なぜ、分裂するとリアリズムを失うか? 「内的自己と外的自己が分裂し、たがいに切り離されると、内的自己も外的自己もともに歪み、変質する。外的現実との関係をうまくやってゆくことを役目とする外的自己から切り離された内的自己は、現実が眼に入らなくなり、誇大妄想的となる。同時に、外的自己は抑圧されるので、実際には自己の一部である外的自己が自己の一部と感じられなくなり、外界に投影され、外界のほうから内的自己に敵対してくると見えてくるため、内的自己は被害妄想的にもなる。」(『日本人は親米か反米か』岸田秀 昭和62) その誇大妄想と被害妄想の「内的自己」が昨今の過激なナショナリズムだろうか。しかし、精神分析的思考も欧米思想に投影された外的自己ではないのか?だとすれば「和解と統一」のためには、思想であれ、神であれ、何かに自己を投影するしかないのではないか? 「西洋人の観念には、神という絶対の存在―つまり比類を絶した唯一のウソ―があるように思いますね。(中略)神学の時代がおわって近代小説がはじまったとき、大文字のGodをあつかうように、ごく自然に大文字のFictionをあつかって、この絶対虚構は、ある、ある、と糸巻に糸をまきつけるようにして展開してきたような気がします。「日本は、明治以来、西洋のものを何でも入れてきましたが、文学だけは入れませんでしたね」と、アメリカの日本学者のアール・マイナーさんから、明るい皮肉をこめていわれたことがあります。」(『日本人の二十世紀』司馬遼太郎 平成6) |
2008年8月23日 (土)
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