ああ、すっきりした!さよなら、わが雑念


『清々しい国へ』 愛自心と公共精神 父さんの文学(前編)(後編) 習い覚えのアイコクシン ユーウツなるユーエツ 青春療法 自然と自由


『清々しい国へ』
「私は常に『美しい物語』が書きたかった。私は常に『美しい物語』のことを考えていた。(中略)私は、自分の意図とうらはらな自作の暗さに絶望し、やりきれなくなるたびに、筆をやめ、そうして、直接人性と聯絡しない架空の物語を書きはじめます。(中略)その気楽さに倦み、その充実の不足に反撥が戻ってくるとき、私は又、直接人性にふれた物語を書こうとし、結果に於て、自作の毒にあてられて、又しても、やりきれなくなるのです。(中略)この二つがひとつになるとき、私ははじめて立派なものが書けるのかもしれませんし、生涯そういうことがなくて、ただ不満な一生を終るのかも知れません。」(『炉辺夜話集』後記より 坂口安吾 昭15)
 果たして彼は生涯のうちに「美しい物語」が書けたのか?それは「立派なもの」だったのか?
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。」(『夜長姫と耳男』坂口安吾 昭27)
 どうも彼は予感どうり「不満な一生を終」わった気がしてならない。しかし、それで本当に不満であったか?
「みたされた心は、いつも、小さい。小さくて、悲しいのだ。(中略)肉慾すらも孤独でありうることを見出した私は、もうこれからは、幸福を探す必要はなかった。私は甘んじて、不幸を探しもとめればよかった。」(『私は海をだきしめていたい』坂口安吾 昭22)
 戦争を経た彼は、小さな幸福に満たされる悲しい心を捨てて、もっと大きな、満ちることのない、海をだきしめていたいと願っていたらしい。その「海」とは何だったのか?
「正しく、誠実に生きる人に、より大いなる苦悩があります。」(『炉辺夜話集』後記より 坂口安吾 昭15)
 小さい幸福はおろか、その「大いなる苦悩」をも軽く飲み込んでしまう「海」だけが、彼の心の「ふるさと」だったのではないか?だとすれば、いくら誠実に苦悩して「美しい物語」を書いたとしても、それで満足ではなかったろう。
「文学は自己を語ることだと言われているが、自己を語ることと告白とは全然違ったものだ。(中略)自己を語ることは決して私事を語ることではない。(中略)複雑な自我の創造発見は、他を語る場合に達成せられるのが本筋だ。」(『秋風と母』跋・尾崎士郎氏へ 坂口安吾 昭21)
 極道から足を洗った人の書く物語や、獄中で書かれた書簡はときに美しい。本当の毒にあてられた人にだけ、美はかけがえなく映るのかもしれぬ。安吾も終戦直後、死屍累々の焼け野原で、早朝の空気のように清々しい物語を書いていた。それが世間の目には「美しい物語」と映ったから、彼は時代の寵児になったのだろう。
「日本人から見ると、お世辞にも清流とはいえません。ガンガーは黄色っぽいし、ジャムナー河は灰色だし、その水が混りあってミルク紅茶のような色になります。しかし、奇麗なことと聖なることとは、この国では違うんです。」(『深い河』遠藤周作)
 インドで「奇麗なことと聖なること」が違うように、安吾の中では「私事を語ることと自己を語ること」は違ったのだとすれば、「複雑な自我の創造発見は、他を語る場合に達成せられる」という彼にとって、「聖なること」とはインドの河のように不純物がいっぱい混じった自我をありのままに書くことで、そのためには私事を避けて、他を語る必要があったのだろう。だから、ただ「奇麗なこと」を書くなら、私事を語ればよかったのだ。どうりで名作『白痴』の後記に「今はもう見るのも恐い(中略)作者が自身の汚さ厭さをそこに見せつけられるから」と記している。ならば、実は彼は「美しい物語」を書けていたのだ。ただ、それが彼にとっては「立派なもの」どころか「ダメなミロク」にすぎず、彼が「だきしめていたい」のはバケモノでなければならなかったようだ。そこに聖なる「ふるさとの海」を見ていたのかもしれぬ。
 ときに、真正面に「美しい国」と言われると、何かうさん臭さを感じてしまうのも、その人の私事ばかりが語られているからかもしれぬ。河の水も澄み過ぎれば魚も棲めぬ。「奇麗なこと」だけを目指して海外派兵すれば、正義心で暴力を振り回す、かの国のようだし、「聖なること」を解せず核保有すれば、それを外交の手段に悪用する、かの国のようだ。インダス河のような年中濁流のない清流の日本には『清々しい国』くらいが身の丈にはちょうどなのではないか。
2007年01月10日 00時45分46秒

愛自心と公共精神
「自分をしばるものが、自分の内部に存在しない人間ほど、幸福な人間はいない。」(『霧』田村泰次郎 昭22)
「日本人は宗教心を持たない代りに、手軽な諦らめとあんまり筋道のはっきりしない愛他心とに恵まれてきました。元来情熱は一途に利己的なものであるようですが、日本人はこれまで情熱を追求することを教えられず、途中で抑え、諦らめることに馴らされてしまい自分の正しい欲念よりも他人の思惑の方を余計気にしたりするようであります。」(『日本人に就て』坂口安吾 昭10)
 子供のみならず、大人社会まで至る所いじめだらけなのも、その「筋道のはっきりしない愛他心」が根本原因ではないか?
「日本というのはそういう決まったグループがいないから、いろんなグループが、ある関係ではいじめる側で、ある関係ではいじめられる側で、それがまた移動して非常に複雑怪奇にいじめたり、いじめられたりしているということになっているんじゃないですか。(中略)いじめ、いじめられて、結局どこにいきつくのかなあ。(笑)」(『いじめっ子の文化』岸田秀 昭57)
 「不幸の手紙」のように、その連鎖がいじめくらいならいいが、その情熱が「一途に利己的」であると性的暴力や虐待、ひいては戦争にもなる。
「自分が倫理的な人間だと思うには、あまりに戦場で、彼は超倫理的でありすぎたようである。そうかといって、倫理に正面から敢然と反対するほどの勇気があるとは思えない。つまり、倫理的という観念にかくれて、それに便乗しようとする人間ではないか。まるでわからない。」(『霧』田村泰次郎 昭22)
 戦場を体験した人が平常に戻れば、倫理は霧のように感じられるらしい。霧も晴れてみないと気づかないように、倫理も失ってみないと「まるでわからない」ものなのだろう。手軽に倫理を失う方法といえば、例えば酒であろう。日頃の鬱憤を解放するには便利な手段だが、それは「自分の外部に存在」する抑圧だから、酒という外物で解ける。そういう抑圧しかない人を田村氏は「幸福な人間」という。ならば、「不幸な人間」であったらしい氏にとって「内部に存在」した「自分をしばるもの」とは何だったのか?
「私はかつての戦場で、自分が人間以外のものであったことをみずからに認めるために、そのときの原体験の忠実な表現者でなければならないという気がしている。」(『戦場と私』田村泰次郎 昭40)
 戦場を体験した人ですら、二十年も費やさないと、それは認められないくらい、我々はあまりに五里霧中に住んでいるらしい。しかし、その霧を全部なくせば、戦場と同然となり、まともな社会は成り立たないだろう。霧をできるだけなくして、その代わりに各人が内部に「忠実な表現者」を持つと、それが西洋的な「罪の文化」であり、そこに宗教や芸術という「しばるもの」が生じるのだろう。安吾が「宗教心を持たない代りに、筋道のはっきりしない愛他心に恵まれてきた」というのも当然で、「しばるもの」を内部に持たさない代わりに外部が持ってきたのが日本の「恥の文化」なのだ。それが「筋道がはっきりしない」ために「いじめ、いじめられて」罪のない子供にいきつくのなら、筋道をはっきりさせた方がよいのではないか?じゃあ、一体、「筋道のはっきりした愛他心」とは何だろう?
 「まるでわからない」と『霧』の主人公はいう。自分のことなのに自分でもわからない。それは当然。「自分」とは他人によって作られたものなのだから。カラダの声を聞き出すのに他人の声が役立つのは、誰のカラダもつくりは同じだからだ。自分でもわからないから、他人を必要とする。ここに「筋道のはっきりした愛他心」、つまり「愛自心」がある。その先に改正教育基本法でいう「公共の精神」もあるのじゃないか?しかし、それは「自分をわかりたい」という情熱なしには持ち得ないだろう。倫理に便乗して自分がわかってるつもりの「幸福な人間」よりは、「一途に利己的な情熱を追求する」不幸な人間の中に「公共の精神」も育つのだろう。
2006年12月25日 14時53分31秒

父さんの文学(前編)
 父さんは偉大な作家でした。(娘が書いているつもりで読んで下さい)先日、ある新進作家が父さんの『新生』について、次のように批判していました。
「藤村は文学を甘く見ていたから、こういう空虚軽薄な形だけの大長編をオカユをすすって書いていられたので、贋物には楽天性というものはない。常にホンモノよりも深刻でマジメな顔をしているものなのである。」(『デカダン文学論』坂口安吾 昭21)
 父さんは確かに叔母さんと不倫して、それを小説に書きました。もし父さんに欺瞞があるとしたら、この作家も「藤村が真実怖れ悩んでいることは小説には表れていない」といっているように、誰もが読みたい肝心な部分を書かなかったことだと思います。ですが、男女のそういう秘め事をもし書いたらどうなるでしょう?世間は許すでしょうか?書かれた叔母さんはどうなるでしょう?恥ずかしくて生きていけないかもしれません。それでも不倫した事は隠さず告白した父さんを私は偽善者だとは思いません。死んだ母さんも怨んではいないと信じます。外でいかがわしい遊びをしても家では仏顔…という父親が世間には多いと聞きます。そういう人を偽善者というと思います。父さんを攻撃した新進作家は四十にもなって独身と聞きます。きっと結婚して子供でも持ってみたら、子供を四人も残して妻に先立たれた父さんの気持ちがわかると思います。父さんの残した言葉にこんなのがあります。
「家は私の宿屋で、子供らは私の道づれだ。」(『分配』島崎藤村 昭2)
 生涯、家に縁の薄かった父さんを物語る言葉ですが、それは父さん自身が望んだことだったかは疑問です。馬籠本陣の旧家に生まれた父さんを幼い頃に東京に出したのは祖父でした。何度か故郷に戻ろうとした父さんでしたが、結局、そこに居場所はなかったようです。父さんの『破戒』という作品は、そんな寂しい心境を丑松という人物に託したものだったように思います。丑松が向かう新天地テキサスというのが父さんにとっては東京であり、故郷や家を捨てるというのが「破戒」だったのでしょう。今でこそ、民主主義の時代ですから、そんなの当たり前ですが、明治の頃の田舎では大変なことだったと想像されます。家も故郷も失い、母さんにも死なれ、残された私らを育てるために筆一本で頑張った父さんを、どうして偽善者だなんていえますか?その新進作家は父さんが「文学を甘く見ている」といいますが、それは当然だと思います。文学しか甘えられるものもないのですから。それでも母さんや叔母さんにしたようには甘えきれなかったと思います。もし存分に甘えていたら、最初の小説『旧主人』のように次々と発売禁止になって、肝心なお金をもらえなかったと思います。(つづく)
2006年11月29日 17時14分43秒

父さんの文学(後編)
「御二人は燃えるような口唇と口唇とを押しあてて、接吻とやらをなさるところ。奥様は乳房まで男の胸に押されているようで、足の親指に力を入れて、白足袋の爪先で立ち、手は力なさそうにだらりと垂れ、指はすこし屈め、肩も揚って、男の手を腋の下に挟んでおいでなさいました。」(『旧主人』島崎藤村 明35)
 私は最近になって、この『旧主人』を読んで、初めて父さんをひとりの弱い人間として感じられるようになりました。それと同時に不倫をしなければならなかった母さんの辛さもわかりました。そして何より、そんな悲劇をドタバタ劇の笑いで包み込んだ父さんの人情に愛敬を感じました。その中で父さんはこういいます。
「女というものは、つまらないものだ。(中略)女の身程悲しいものは有りません。」(『旧主人』島崎藤村 明35)
あるいは、こうもいいます。
「もっと女の生活が経済的にも保障されていたなら、と今になって私も思い当たることがいろいろある。」(『分配』島崎藤村 昭2)
 父さんが還暦近くになって再婚した人は、そういう「悲しい女」ではなかったようです。女性解放を目指した雑誌「処女地」の同人だった女性ですから。ですが、人はつねに無い物ねだりです。父さんの人情を育んだのは、その「悲しい女」ではなかったでしょうか?あるいは家に出入りしていた奉公人のような差別された人たちではなかったでしょうか?父さんはつねにそういう弱い者や言葉なき者の代弁者であったと思います。
「私は穢多です、調里です、不浄な人間です。」(『破戒』島崎藤村 明39)
 そういう境遇の人々に自分の本心を見い出さずにはおれない正直な人であったと思います。
「私達が子供の時分、相手にするものは多く婦人です。私達は女の手から手へと渡されたのです。(中略)彼等幼少いものを眼前に見る度に、自分等の少年の時と同じやうなことが矢張この子供等にも起りつゝあるだらうか。丁度自分等も斯樣な風であつたらうか。左樣思つて私は獨りで微笑むことが有ります。」(『幼き日』島崎藤村 明45大1)
 私ら子供にも自分の少年時代を見い出していたことが、こういう文章を読むとわかります。そんな父さんにとって一番肝心な文学的問題は「自分は何者?」ということだったのかもしれません。大きな希望を抱いてやってきた東京の街も、関東大震災で大破壊を受けます。それは父さんの希望にも大破壊をもたらしたようで、以来、私ら子供の未来に自分の夢を「分配」するようになったようです。そして晩年の父さんにとって最後の関心事はおそらく、祖父だったでしょう。『夜明け前』という長編は、自分という「夜明け」の前にあったもののことですから。人はつねに自分を越えた存在を感じていないわけにはいかないようです。現代の多くの人のように現世にだけしか夢を持たない人も、愛しい人と相次いで死別したり、天変地異を目の当たりにすれば、来世や前世に希望を見ないわけにはいかないのではないでしょうか?
 父さんが死んで、もうずいぶんになります。時代は大きく変わりました。父さんの望んだ未来になったと思います。つまり、旧家の御曹子も、穢多非人も、女性も、誰もが生まれに関わらず、住む土地を変え、職を変え、自由な人生を歩める平等な社会になったという意味です。それは誰もが社会という大きな家の奉公人になれる社会ともいえます。ですが、私は何か物足りないのです。世の父親だけでなく女性や子供まで、外と内の顔が全然違う偽善者になっているように見えます。だから、その欺瞞に堪えきれず体が病気になったり、死にたくなるのではないでしょうか?父さんが今、生きていたら何というでしょう?
「人情という奴は乙なものだ。……そうかなあ」
「何が、そうかなあですよ」
「難有い」
「ホホホホホ」(『旧主人』島崎藤村 明35)
そういって笑うような気がしてならないのです。私はやっぱり誰もが社会の奉公人にはならないほうがいいと思います。なぜなら今の社会にはどこにも人情がないからです。せめて私の孫達は「悲しい女」や「悲しい男」でもいいと思います。それも無い物ねだりなのでしょうか?
2006年11月29日 17時30分45秒

習い覚えのアイコクシン
「御両所に共通していることは、心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、(中略)その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております。」(『戦後文章論』坂口安吾 S26.9)
 その「御両所」のひとり、三島由紀夫は、それなら坂口安吾についてどう「つかみだして」いたか?
「坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。余計なものがなく、ガランとしていて、空っ風が吹きとおって、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向こう側には、夢のように明るい丸い遠景の光が浮かんでいる。」(『坂口安吾』奥野健男より)
 ここで三島がいう「トンネル」とは演劇好きだった彼自身の文学のことではなかったか?上にあげた短い文章の中にも空間的比喩が多い。その限定が安吾のいう「行き届かない」理由ではないか?「心理」という安吾の心裏にはフロイトの心理学があるように思えてならない。安吾が「他」というのが「無意識」のことならば、「無意識に行き届く文章」とは、どうやって書けるのか?
「職人にとっては仕事というものは、この上ない遊びですよ。(中略)職人に必要なのは、思いつき、ということです。」(『戦後文章論』坂口安吾)
 シャーマンが神のお告げを民衆の言葉に翻訳するように、安吾も無意識にあった「思いつき」を翻訳していたとすれば、三島の文章が「濃すぎる」というのも、それがあまりに意識に限定されて、無意識に行き届かぬ文章だったからではないか?ならば、その無意識とは、どこに在るのか?
「私は思想というものを、自分の肉体だと考えている。自分の肉体そのもの以外に、どこにも思想というものはないと思っている。」(『肉体が人間である』田村泰次郎 S22.5)
「モラルというものを肉体自体の思考から探しださねばならぬということが、期せずして起ったのではないかと思う。」(『肉体自体が思考する』坂口安吾 S21.11)
 戦前、安吾は島原の乱を扱った『イノチガケ』の中で、キリシタンに対して幕府が行った処刑方法を興味本位とも見える詳しさで書いている。勇ましい殉死では見せしめの効果がないと察した幕府が最後にあみ出した処刑方法とは「穴吊るし」で、そのブザマな死に様にさすがの信者も落胆したという。戦争体験によって「期せずして」多くの人に起った「肉体自体の思考」を安吾はすでに歴史の中に「探しださねばなら」なかったのではないか?「職人にとって仕事がこの上ない遊びで、思いつきが必要」というのも、肉体自体の思考をありのままに表現するためには頭脳的思考に限定されてはできないという意味だったのではないか?
 戦後の文章が、安吾のいうように「習い覚えたペルシャ語で物を書く」ようになってしまったのは「肉体自体の思考」を失って頭脳的思考だけになったからなのか?それなら、戦争体験者や職人の文章には、それが充満しているのか?しかし、そんな大人がどこにも見当たらぬばかりか、子供のほうが切羽詰まって「死にたい」という今の日本で、いくら「我が国を愛する心」を植え付けたところで、それも「習い覚えたニホン語」かもしれぬ。
2006年11月16日 23時00分38秒

ユーウツなるユーエツ
「人間は自分を絶対に馬鹿にする心配のない相手を、馬鹿にするものである。」(『鳩の街草話』田村泰次郎 '47)
 教育基本法の議論にあわせてなのか?こうも、いじめによる自殺の報道が相次ぐと、この世にはつくづく馬鹿にできる相手が必要だと言わざるを得ない。介護ロボより「いじめられロボ」こそ作るべきかもしれぬ…。
「なぜ死んでも構わないかって言ったら、おいらは一般の奴に比べたら色んなことやってきたんだ、欲しい車は手に入れたし、ねえちゃんたちとは遊びたいだけ遊んだ、それだけでもいいじゃないかって感覚なんだよね。結局、下の奴を見て、位置関係計ってただけ。」(『たけしの死ぬための生き方』ビートたけし)
 人間は他者に優越を感じていないと自尊心を保てない存在らしく、教育とはそもそも優越と劣等を植えつける行為とも言える。
「昔の庶民は貴族に対して別に劣等感はもっていなかったであろう。ところが、現代は平等主義の時代で、タテマエとしてはすべての人が平等に何にでもなれることになっているから、現代人は昔の人より劣等感に苦しんでいるのであろう。」(『劣等感について』岸田秀)
 平等を認めたからには、そこで生じた格差を社会が掬いとる義務があるということだろう。それがお粗末なら平等主義など謳わぬことだ。中国のように英才教育に力を注いだほうがよほど国益にかなうだろう。
 田村泰次郎の小説は「中間小説」や「風俗小説」などといわれ、純文学のような思想性や批判精神が稀薄といわれるが、かえってそこに人間の諸行無常が写実されている。それは時代の価値観にとらわれていては見えにくいものだからだ。教育の目指すべき平等とは、そういう優劣を超越した無思想(むろん無国籍)の境地ではないか?
「七年間の小倉から無視された生活は、この一瞬間のために、黙々と忍んできたような気がした。その瞬間、登代は小倉時男に、はっきりと憎悪を感じた。小倉のしつこくすがってくる哀願的な視線を、気づかぬようにはずして、おかみのあとから、二階の階段をあがる彼女の胸は満足でふくらんでいた。」(『鳩の街草話』田村泰次郎 '47)
 この作品で小倉という男は、冒頭のセリフのように自分に頼りきっている妻に安心しきっていた。自分の肉体より彼女を喜ばせる肉体があるなどという嫉妬を抱いたこともなかった。ところが、いざ妻を女郎屋に売り飛ばす瞬間になって、その優越感をひっくり返されるのである。憎悪に胸膨らます妻とは対照的に「蚊の唸り声」のように頼りない気分を味わう。これが優越を失った憂鬱であろう。
 こういう例は極端かもしれぬが、人は誰しも加齢とともにゆるやかに優越を失う。弱い者いじめでささやかな優越に浸っている子も、あるいは何の疑問もなく子に権力をふるっている親や先生も、いずれその優越が劣等に変わっていく。その憂鬱が「蚊の唸る声」くらいならいいが、人によっては生き甲斐をなくして死にたくもなろう。高齢者の自殺とはそういうわけで起るのではないか?そうと知れば容易く他人に優越など抱けるものではない。
2006年11月13日 16時37分54秒

青春療法
 「青春」を辞書で調べると「わかい時代、青年期」とある。
「老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うのならば、僕は今もなお青春、おそらく七十になっても青春ではないか」(『青春論』坂口安吾 S17)
 三十七歳の彼はそういう。なぜ、戦時中に彼は青春論を書いたか?最近、田原総一朗氏が戦争中に新聞社が戦争反対しなかった理由は新聞が売れなくなるからだといっていた。そして当時子供だった田原氏も戦争に行くつもりだったという。ここで思うのは、誰も当時は戦争が愚行だと考えてもみなかったのでは?という疑い。安吾が当時、青春を語ったのも戦争こそ近代日本の「青春のしるし」と察したからではなかったか?そんな安吾も後年は青春をどうとらえていたか?
「青春には病的自体も健康であり、暗さ自体健全なのだ。」(『青い絨毯』坂口安吾 S30)
 青春が暗いのはあとさき見ずだからだ。戦争中の日本も、戦争の後のことなど考えただろうか?
「我々は東京が廃虚と化してもより立派な帝都を作るに事欠かないし、法隆寺の瓦を大砲に代えることに敢て多くは悲しまぬ。」(『伝統の無産者』坂口安吾 S18.5)
 この頃から終戦直後にかけて安吾は一連の自伝モノを書いている。それは『青春論』を書いてみたが実は自分の青春について何も語れないのが悔しかったのか?あるいは祖国の終わりを察して人生の総括をしたくなったのか?そして、死の直後に発表された『青い絨毯』『世に出るまで』は、その散在する自伝モノを総括した、これぞ彼自身の「青春論」だった。彼は自分の青春を語り尽くして死ねたわけだ。
「私は私を知らない。それが、すべて」(『私は誰?』坂口安吾 S21?)
 しかし、そんな彼が己を知るというのは「すべて」を失うことではなかったか?しかし欲望とはそんな無に向かう衝動かもしれぬ。あとさき考えず知ろうとするのも青春だろう。その衝動はどこからくるのか?
「すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒であるにすぎない。」(『青春論』坂口安吾)
 そして「治病をもって人生の大事業とする」のも青春という。
「病こそおそらくは創造の止み難い衝迫の究極の根拠であったのだ。創作しながら私は回復でき、創作しながら私は健康になった。」(『ナルチシズム入門』S.フロイド 懸田克躬訳)
 ドイツの詩人ハイネの言葉だという。これを安吾が読んでいたかどうかは知らぬが、岸田秀氏が『神経症がわが青春』というように「ウツ病こそわが青春」と安吾は自覚していたのかもしれぬ。
「私はいつも退屈だった。砂をかむように、虚しいばかり…」(『私は誰?』)
 そんな彼が最期に記したのも『砂をかむ』という随筆だった。「できないつもりの子供ができた戸惑い」といっているが、それはわが青春を総括してしまって「青春のしるし」がなくなった戸惑いではなかったか?それは「女のしるし」がなくなって女性が更年期障害になるような心境だったかもしれぬ。 
 ときに「いざなぎ景気」に並ぶといわれる昨今だが、自殺者が八年連続で三万人以上もいて、特に中高年の自殺が多いという。原因はいろいろあろうが、死ぬ直前はみなウツ状態なのではないか?ならば「治病をもって人生の大事業とする」青春療法が自殺者削減のみならず医療費削減、医者不足解消のひとつの手段となろう。その前に、辞書にある「青春」が「わかい時代、青年期」という嘘を消して、「青春とは老若に関わらず、社会という病に個人が対抗できる唯一の手段」と書き換えるべきだろう。そして「社会があまりに病的なら青春も戦争によって謳歌するよりない」と書き添えねばなるまい。
2006年10月14日 19時23分51秒

自然と自由
「自然主義なるものが起って既に五、六年になる。(中略)わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。」(『イズムの功過』夏目漱石 '10)
 漱石にいわせれば「自然主義」も「自由主義」も「主義」がつくと自然や自由でなくなってしまうという。
「『国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!』これじつに今日比較的教養のあるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。」(『時代閉塞の現状』石川啄木 '10)
 啄木がいうには自然主義は国家という強権に対抗する個人思想として支持されたが、本当の敵は、国家ではなく「時代閉塞」だという。その状況とは、実業界は人道や正義より金儲けに走り、「遊民」という階級が増殖し、「財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加…さらに罪人の増加、放置」という、まるで昨今の格差社会そっくり…。そんな彼の憂国は社会主義へと傾倒していくが、二年後に肺結核で死んだということは、彼にとって必要だったのは、自然主義を捨てることよりも、漱石のように「主義」そのものを捨てることではなかったか?そこに自然、つまり健康があったのではないか?
「天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。」(『自由・空・只今』鈴木大拙 '62)
 大拙は自由の対訳にあたるフリーダムやリバティとは「束縛からの解放」を意味し、ビート族のような自由は単なる放逸という。啄木がいうように自然主義が国家や封建社会という「他」から自己を解放し、社会秩序を乱していたとすれば、それは「放逸主義」ではないか?それを「必ずしも非難すべき点はない」と漱石がいったのは、彼が芸術において放逸を愛していたからではないか?
 そんな漱石よりも、さらに反自然主義をうたったのが白樺派。その一人、里見とんは、一体自然をどうとらえていたか?
「私にとって甚だもの足らないのは、この評論に『自然解(じねんげ)』の分子の稀薄なことだ。もっと独断的でいいから、大掴みにもののよしあしを見極めてもらえないことだ。(中略)論理は少々歪んでもいい、独断的でも構わないから、もうちっと自然解の眼力を光らせて頂きたいのだ。」(『自然解』里見とん '28)
 里見は思想や主題の露骨な姿を消すために無駄に近い努力をしてきた、それを自然解という。ここにも大拙に通ずる「自由」がある。つまり論理性とか客観性という「他」にも束縛されない「自」が尊重されている。こうなると、反自然主義の方が自然主義に見える。
 そんな里見を「自然(じねん)人」とするならば、「自由人」といえば、この人。坂口安吾であろう。
「まさしく自由と放恣とはきちがえているのである。(中略)才能には何の束縛もない。だがみずからの才能において自由であり得た芸術家などは存在せず、真実自由を許され、自由を強要されたとき(芸術は自由を強要する)人は自由を見いだす代わりに束縛と限定を見いだすのである。(中略)放恣とてもそうである。人を裏切る者はみずからもまた裏切られる。(中略)エゴイズムはエゴイズムによって反逆され復讐されるのである。」(『エゴイズム小論』坂口安吾 '46)
 例えば、無意識に鼻歌を口ずさんでいる。「それ何ていう歌?」と人に聞かれて初めて「何だったかな?」と意識する。曲名が思い出せた時には鼻歌の気分は消えている。自由とはそんな逃げ水みたいなものではないか?だとすると、なぜそのように意識が自由を邪魔するか?それはまだ言葉も知らなかった赤ん坊の頃にそういう自由が横溢していたからではないか?
 ならば、すべての自由が意識の中に限定されているという状態には、自然はないのだろう。それを漱石は「イズム」といい、啄木は「時代閉塞」といったのではないか?ならば意識改革したところで人間は永遠に自由にはなれないのだろう。無意識にしか自由は感じられないのだから。それでも自由を求めて変革を尽くすとどうなるか?
「人力の限りを尽くした豪奢、俗悪なるものの極点において開花を見ようとすることもまた自然だろう。(中略)この精神を、僕は、秀吉において見る。」(『日本文化私観』坂口安吾 '42)
 その秀吉の栄華はわずか一代限りだった。そして啄木の時代からわずか三十年(これも一代)で大日本帝国の野望も頓挫した。これらの歴史は何を暗示するのか?自由は求めるから終わってしまう。求めないところに自由はあふれている、それが自然ということではないか?
 
2006年10月04日 00時14分08秒


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