| 『清々しい国へ』 |
「私は常に『美しい物語』が書きたかった。私は常に『美しい物語』のことを考えていた。(中略)私は、自分の意図とうらはらな自作の暗さに絶望し、やりきれなくなるたびに、筆をやめ、そうして、直接人性と聯絡しない架空の物語を書きはじめます。(中略)その気楽さに倦み、その充実の不足に反撥が戻ってくるとき、私は又、直接人性にふれた物語を書こうとし、結果に於て、自作の毒にあてられて、又しても、やりきれなくなるのです。(中略)この二つがひとつになるとき、私ははじめて立派なものが書けるのかもしれませんし、生涯そういうことがなくて、ただ不満な一生を終るのかも知れません。」(『炉辺夜話集』後記より 坂口安吾 昭15) 果たして彼は生涯のうちに「美しい物語」が書けたのか?それは「立派なもの」だったのか? 「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。」(『夜長姫と耳男』坂口安吾 昭27) どうも彼は予感どうり「不満な一生を終」わった気がしてならない。しかし、それで本当に不満であったか? 「みたされた心は、いつも、小さい。小さくて、悲しいのだ。(中略)肉慾すらも孤独でありうることを見出した私は、もうこれからは、幸福を探す必要はなかった。私は甘んじて、不幸を探しもとめればよかった。」(『私は海をだきしめていたい』坂口安吾 昭22) 戦争を経た彼は、小さな幸福に満たされる悲しい心を捨てて、もっと大きな、満ちることのない、海をだきしめていたいと願っていたらしい。その「海」とは何だったのか? 「正しく、誠実に生きる人に、より大いなる苦悩があります。」(『炉辺夜話集』後記より 坂口安吾 昭15) 小さい幸福はおろか、その「大いなる苦悩」をも軽く飲み込んでしまう「海」だけが、彼の心の「ふるさと」だったのではないか?だとすれば、いくら誠実に苦悩して「美しい物語」を書いたとしても、それで満足ではなかったろう。 「文学は自己を語ることだと言われているが、自己を語ることと告白とは全然違ったものだ。(中略)自己を語ることは決して私事を語ることではない。(中略)複雑な自我の創造発見は、他を語る場合に達成せられるのが本筋だ。」(『秋風と母』跋・尾崎士郎氏へ 坂口安吾 昭21) 極道から足を洗った人の書く物語や、獄中で書かれた書簡はときに美しい。本当の毒にあてられた人にだけ、美はかけがえなく映るのかもしれぬ。安吾も終戦直後、死屍累々の焼け野原で、早朝の空気のように清々しい物語を書いていた。それが世間の目には「美しい物語」と映ったから、彼は時代の寵児になったのだろう。 「日本人から見ると、お世辞にも清流とはいえません。ガンガーは黄色っぽいし、ジャムナー河は灰色だし、その水が混りあってミルク紅茶のような色になります。しかし、奇麗なことと聖なることとは、この国では違うんです。」(『深い河』遠藤周作) インドで「奇麗なことと聖なること」が違うように、安吾の中では「私事を語ることと自己を語ること」は違ったのだとすれば、「複雑な自我の創造発見は、他を語る場合に達成せられる」という彼にとって、「聖なること」とはインドの河のように不純物がいっぱい混じった自我をありのままに書くことで、そのためには私事を避けて、他を語る必要があったのだろう。だから、ただ「奇麗なこと」を書くなら、私事を語ればよかったのだ。どうりで名作『白痴』の後記に「今はもう見るのも恐い(中略)作者が自身の汚さ厭さをそこに見せつけられるから」と記している。ならば、実は彼は「美しい物語」を書けていたのだ。ただ、それが彼にとっては「立派なもの」どころか「ダメなミロク」にすぎず、彼が「だきしめていたい」のはバケモノでなければならなかったようだ。そこに聖なる「ふるさとの海」を見ていたのかもしれぬ。 ときに、真正面に「美しい国」と言われると、何かうさん臭さを感じてしまうのも、その人の私事ばかりが語られているからかもしれぬ。河の水も澄み過ぎれば魚も棲めぬ。「奇麗なこと」だけを目指して海外派兵すれば、正義心で暴力を振り回す、かの国のようだし、「聖なること」を解せず核保有すれば、それを外交の手段に悪用する、かの国のようだ。インダス河のような年中濁流のない清流の日本には『清々しい国』くらいが身の丈にはちょうどなのではないか。 |
2007年01月10日 00時45分46秒
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