| 長い家風の終戦 |
「ワンピースを着た女が米兵の膝の上に抱き上げられ日本風で言えば居茶臼の形でアラいいのいいのと日本語で泣きながら気をやっている最中です。米兵は膝までズボンをぬぎおろし、女はワンピースとシュミーズと一ツに背中の方までまくり上げられているので此方から見ると馬乗りになった女が腰をつかうたび男の一物が抜けそうになってばくっと入るのが真白な女のお臀の割目からまる見えに能く見えるのです」(『ぬれずろ草紙』永井荷風 1948?) 終戦当初の皇居前公園のあちこちでこのように米兵と日本女性がアオカンしていたという。荷風といえばフランスやアメリカに留学後、日本の自然主義文学に対抗して耽美主義を展開した人だ。 「今日若い書生の頻に称道する自然主義の文芸の如きは、到底吾々の了解し得られぬものである。彼等は美辞麗句を連ねて微妙の思想を現はす事を虚偽だとか遊戯だとか云って此れを卑しむらしく思はれるが、文学の真髄はつまる処虚偽と遊戯この二つより外にはない。其れを卑しむならば、寧ろ文学に関与はらぬ方がよいのである。」(『新帰朝者日記』永井荷風 1909) また荷風は、かの谷崎潤一郎を絶賛して「耽美派」として文壇に送りだした人でもある。 「谷崎氏が描き出す肉体上の惨忍は如何に戦慄すべき事件をも、必ず最も美しい文章を似て美しい詩情の中に開展させてあるので(中略)飽くまでも洗練琢磨された芸術的感激しか与えないのである。(中略)已にデカダンスの芸術と云う。然らばその作家たる氏の人格感動思想の背面には遺伝的にあらゆる過去の文明の悩みが横わっている事は、改めて説明するまでもない」(『谷崎潤一郎氏の作品』永井荷風 1911) そんな谷崎から見て、荷風は一体どういう作家であったか? 「氏はわれわれと同じく現代の作家の一人であるけれども、われわれのように原稿料に衣食する人でない。また今更文壇的功名心や野心に駆られるはずもない。もともと世を拗ねているのだから、恐らく世間の毀誉褒貶や批評家のいうことなどを眼中に置いてはいないであろう。」(『つゆのあとさき』を読む 谷崎潤一郎 1931) そんな堂々たる大家であったから、若手作家からは羨望され、かつ嫉妬されていたらしい。 「荷風においては懐古趣味の態度自体が反文学的であり、彼には新しき真実などは問題ではなく、失われたる過去をなつかしむというだけの、そして新しきものが過去に似ないことによって良くないというだけの、最も通俗安直な懐古家にすぎないのである。」(『通俗作家 荷風』坂口安吾1946) ちなみに安吾は、終戦直後に発表した『外套と青空』において「青空の下の情慾ほど澄んだものはない」と書いている。皇居広場の「新しき真実」に触発されたのかもしれない。 「一個の老人が死んだ。(中略)このことはとくに奇とするにたりない。(中略)しかるに、わたしが遠くから観測するところ、戦後の荷風はどうやら書を読むことを廃している。(中略)老来ようやく書に倦んだということは、精神がことばから解放されたということではなくて、単に随筆家荷風の怠惰と見るほかないだろう。」(『敗荷落日』石川淳 1959) 大正期の春本『四畳半襖の下張』が荷風作であると断言したのは石川淳であったというが、『ぬれずろ草紙』の全容については知り得たかどうか?しかし、知ったところで「とくに奇とするにたりない」と言っただろうが。 「黒のソフトをかぶり、背広にレイン・コートひっかけて、赤い編み上げの靴を穿く、長身の大男が、画家がスケッチ・ブックに筆を走らせる如く、背中を猫背にし、ノート風のものへ、何やら熱心に書き込んでいるのである。」(『永井荷風』川崎長太郎 1959) 戦前の玉の井遊廓で『墨東綺譚』の取材をする荷風に遭遇し、その姿を注視していた川崎は「思わずびくっとするような、敵意あらわな鋭い眼差で」睨まれたという。 「『芸術的感興なんて、もうそんなものは持ち合わせない。心理がどうだの性格がどうだのって、そんな面倒くさい詮索はイヤだ。己は唯自分の見た女や男を玩具の人形にして暇ッ潰しをするだけだ』と、作者がそういっているような気がする。」(『つゆのあとさき』を読む 谷崎潤一郎 1931) 戦前からすでに荷風は文体こそ懐古的だが描写は本場仕込みの自然主義に傾いていたと谷崎には見えていたのだろう。その荷風が皇居広場の「新しき真実」を密かに春本として「熱心に書き込ん」でいたというのも「暇ッ潰し」だったのだろうが、「書を読むことを廃し」たことは「怠惰」というより、「虚偽と遊戯を卑しむならば、寧ろ文学に関与はらぬ方がよい」という筋を通したのかもしれぬ。だとすると、戦争が焼き尽くしたのは彼の美しいペンキ塗りの蔵書館だけではなかったようだ。 |
2007年02月06日 18時06分03秒
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