ああ、すっきりした!さよなら、わが雑念


掌説『安吾』(上)(下) 長い家風の終戦 地球冷却化計画 失われた痛み


掌説『安吾』(上)
坂口安吾です。私の死んだずっと先の人々は私の代表作を『信長』(※1) と言ってくれるだろうか?思えば、私はずっと立派な長編小説が書けなくて悩んでいた。あれは昭和11年、第三回芥川賞の授与式のことだった。私はそこに招かれていた。(※2) 菊池寛に自己紹介した際に、彼は私の名を知らなかった。「代表作は何だね?」と聞かれて、そのとき初めて私は自負できる長編小説がないことを思い知らされた。その直後だ、私の処女作『風博士』を激賞した牧野信一が自殺したのは。私は急に拠るべきものを失った孤独感に襲われ、何が何でも長編を書かねばと焦った。京都に独り籠り、『吹雪物語』はアッという間に700枚書いてしまったが、それはまるで牧野の亡霊に憑かれたように現実とかけ離れたオモチャ箱だった。(※3) 現実を冷酷に見つめようとした挙げ句がそれだから、私は死にたかった。しかし、私はそんな空論家であると同時に、天性の諦め人でもあった。(※4) しばらくして世の中が戦争一色になっていったお陰で、私はその絶望から逃亡することができた。次に私が「長編熱」に悩まされたのは戦争も終わって昭和24年だった。どうも私の病気と芥川賞とは縁が深いらしく、この時も私は芥川賞の選考委員に推されていた。すでに菊池寛は前年に世を去っていたし、もはや代表作を問われることもなかったが、私は再び「長編熱」にうなされるようになった。それで私の戦争体験をもとにした『にっぽん物語』を書きはじめた。しかし、書いているうちに例の諦めが先に立って、私は筆を投げてしまった。つねに私の中には欲することと諦めることが同居していたようだ。(※5) そのせめぎ合いが、すなわち私の病気だった。だから納得のいく長編を書くか、その祈念を永遠に破棄するかしなければ、一生、この病気は治らないはずだった。果たして私の病気は完治していたのか?読者諸君はどう思うか?病気というのはどんな病気であれ切ないものだ。やりきれない。わびしい。あわれだ。だが、治ってしまうと、これが案外、張り合いがない。重い病であればあるほどそうだ。病気とは青春みたいなものかもしれない。そして、治るはずがないと観念した途端、治ってしまうのも病気の本質かもしれない。闘病そのものが病気を存続させるのだろう。昭和26年の暮頃、私は日本各地を歩いていた。そこで因果なものを見た。焼け野原になってバラックだらけの戦災都市よりも、焼けなかった都市の方がもっと暗く貧困だという発見が妙に新鮮だった。そして日本が戦争に負けて本当によい国になるかと思いきや、一番近い昔に戻っている現実に、永遠に変わらない無常を見た。そこで私は我が身に翻って考えざるを得なかった。すなわち私が立派な長編を書いたところで、それで私の病気は一時、焼け野原になるだろうが、また安普請のバラックが建ち始め、再び一番近い昔に戻るのではないか?と。私の書く小説など安普請のバラックみたいなものだ。これではキリがねえや。もうどうだっていいや、もう長編はいらない…『もう軍備はいらない』、そんなタイトルのエッセイを書いた昭和27年10月、私は新しい小説に取りかかっていた。それが『信長』であった。奇妙なことに、観念したはずの長編熱がすべてここに完全燃焼された。650枚の全編には、私の経験した戦争も恋愛も描かれている。これは歴史小説ではなく歴史の舞台を借りた現代小説であった。なんてこった!現実に根を下ろすってことが現実を切り捨てることだったとは!思えば私は現実に囚われて長編が書けなかったのだ。私は「桶狭間の合戦」まで書いたところで一幕置く事にした。新聞小説であるから区切りというものがある。しかし、このまま「本能寺の変」まで書いてもよかった。千枚でも二千枚でも書けた。なぜなら、「大バカ」「大タワケ」として描いた信長とは、この私自身のことだったから。その狂気も合理精神もすべて私そのものの姿だった。だが、一度置いた筆を再び握る気にはならなかった。しかし、それはいつもの諦めではなかった。長編小説なんて近代戦争みたいなもんじゃないか、再び『信長』を書くことは日本が再軍備するようなものじゃないか、それよりもッと身近なシアワセを真剣に考えるべきではないかと考えたのだ。(※6) 人を殺したり、他国から奪ったり、それで少しでも豊かになるなどという発想が貧困ではないか。有り余るものなどなく、すべてのモウケが生活の中に使われている豊かさからは何も奪う事はできまい。(※7)私の仕事のモウケもそっくりそのまま私の命に使いたかったのだ。 (※8)
2007年02月14日 22時15分36秒

掌説『安吾』(下)
そう願っていたら、不思議なもので、新しい命を授かってしまった。できないはずの子供がひょっこり生まれたのだ。私は過去の女性遍歴からスピロヘータに罹ってると思っていたし、女房も前夫との間に二人の子がいるが、一度ダタイしているから、もう子供はできないものと諦めていた。 (※9)それが五体満足な赤ん坊が生まれたのだ。悲願の長編小説とわが子を、同時に手に入れた私は人生の中でも幸福の絶頂のはずだった。それだのに私は虚しかった。砂を噛むように。二度と再び襲われることのない病気との戦争が懐かしかった。狂おしく生きるということを願わずにおれない大バカの大タワケだった。「死のうは一定」生涯、狂おしく戦って死んだ信長という男が、自分の超える事のできない高みに遠ざかって見えたのだ。あれだけ一心同体のようだった『信長』が。

<注釈・参照>
※1 「『信長』は昭和二十七年十月六日より二十八年三月七日まで『新大阪』に連載された新聞小説である。」(『坂口安吾』奥野健男)
※2 「小田嶽夫と海音寺潮五郎が芥川賞・直木賞をもらった時だと思うが、レインボーで文士をまねいて授与式があった。その食卓で各自の自己紹介があった。私の番がきて、立ち上がって姓名を名乗ると、席に向い合っていた菊池寛が、『キミ、もっと、大きく』と叫んだ。」(『安吾風流譚』坂口安吾 S26.1)
※3 「現実を殺して、夢に生きようとした私は、然し、夢にのみ生きることを全部だとは思えなかった。」(『吹雪物語』再版に際して 坂口安吾 S22.7)
「あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ち、オモチャ箱はつくれるものだ。」(『オモチャ箱』坂口安吾 S22.7)
※4 「意気当るべからざる空論家と、強制に服することを処世の急所と会得している天性の諦め人とが同一の人間であるとは、それを理窟で納得し、悟りすまそうと思っても、なかなかそうはいかないものだ。」(『風流』坂口安吾 S26.12)
※5 「長編『火(にっぽん物語)』は、薬品中毒や鬱病を克服するための対症療法として遮二無二書かれたものであり、中毒や鬱病が一応治癒した後は再び執筆する情熱を失ったのではないかと考えられる。」(『坂口安吾』奥野健男)
「いつもアキラメが先に立ち、欲することも正しいことだということが庶民生活に素直にとり入れられたことがないのである。」(『秋田犬訪問記』坂口安吾 S26.11)
※6 「なぜ世界一の必要があるのだろうか。みんながもッとシアワセになることを、この一番身近なことを、なぜ真剣に考えることを忘れているのだろう」(『風流』坂口安吾 S26.12)
※7 「有りあまる物を持たずにモウケをそッくり生活を豊かにするためにつぎこんでいる国からは、国民の生活以外に盗むものがない。」(『もう軍備はいらない』坂口安吾 S27.10)
※8 昭和二十六年五月、安吾は税金滞納で家財道具と蔵書を差し押えられ、国税局に陳情書を送付するなど国家権力と争った。また九月、伊東競輪場で起こったレースの写真判定に疑問を抱き、その不正を告発して翌年二月まで自転車振興会と争った。この頃から被害妄想に憑かれはじめ、アドルムを多量に服用している。(関井光男編 坂口安吾年譜より)
※9 「女房がニンシンしたが、子宮後屈ということで、生むことができなかった。(中略)私の半生は身を持ちくずした半生だから、いろいろ病毒があるかも知れぬという怖れもあった。」(『生れなかった子供』坂口安吾 S25.5)
2007年02月14日 22時16分45秒

長い家風の終戦
「ワンピースを着た女が米兵の膝の上に抱き上げられ日本風で言えば居茶臼の形でアラいいのいいのと日本語で泣きながら気をやっている最中です。米兵は膝までズボンをぬぎおろし、女はワンピースとシュミーズと一ツに背中の方までまくり上げられているので此方から見ると馬乗りになった女が腰をつかうたび男の一物が抜けそうになってばくっと入るのが真白な女のお臀の割目からまる見えに能く見えるのです」(『ぬれずろ草紙』永井荷風 1948?)
 終戦当初の皇居前公園のあちこちでこのように米兵と日本女性がアオカンしていたという。荷風といえばフランスやアメリカに留学後、日本の自然主義文学に対抗して耽美主義を展開した人だ。
「今日若い書生の頻に称道する自然主義の文芸の如きは、到底吾々の了解し得られぬものである。彼等は美辞麗句を連ねて微妙の思想を現はす事を虚偽だとか遊戯だとか云って此れを卑しむらしく思はれるが、文学の真髄はつまる処虚偽と遊戯この二つより外にはない。其れを卑しむならば、寧ろ文学に関与はらぬ方がよいのである。」(『新帰朝者日記』永井荷風 1909)
 また荷風は、かの谷崎潤一郎を絶賛して「耽美派」として文壇に送りだした人でもある。
「谷崎氏が描き出す肉体上の惨忍は如何に戦慄すべき事件をも、必ず最も美しい文章を似て美しい詩情の中に開展させてあるので(中略)飽くまでも洗練琢磨された芸術的感激しか与えないのである。(中略)已にデカダンスの芸術と云う。然らばその作家たる氏の人格感動思想の背面には遺伝的にあらゆる過去の文明の悩みが横わっている事は、改めて説明するまでもない」(『谷崎潤一郎氏の作品』永井荷風 1911)
 そんな谷崎から見て、荷風は一体どういう作家であったか?
「氏はわれわれと同じく現代の作家の一人であるけれども、われわれのように原稿料に衣食する人でない。また今更文壇的功名心や野心に駆られるはずもない。もともと世を拗ねているのだから、恐らく世間の毀誉褒貶や批評家のいうことなどを眼中に置いてはいないであろう。」(『つゆのあとさき』を読む 谷崎潤一郎 1931)
 そんな堂々たる大家であったから、若手作家からは羨望され、かつ嫉妬されていたらしい。
「荷風においては懐古趣味の態度自体が反文学的であり、彼には新しき真実などは問題ではなく、失われたる過去をなつかしむというだけの、そして新しきものが過去に似ないことによって良くないというだけの、最も通俗安直な懐古家にすぎないのである。」(『通俗作家 荷風』坂口安吾1946)
 ちなみに安吾は、終戦直後に発表した『外套と青空』において「青空の下の情慾ほど澄んだものはない」と書いている。皇居広場の「新しき真実」に触発されたのかもしれない。
「一個の老人が死んだ。(中略)このことはとくに奇とするにたりない。(中略)しかるに、わたしが遠くから観測するところ、戦後の荷風はどうやら書を読むことを廃している。(中略)老来ようやく書に倦んだということは、精神がことばから解放されたということではなくて、単に随筆家荷風の怠惰と見るほかないだろう。」(『敗荷落日』石川淳 1959)
 大正期の春本『四畳半襖の下張』が荷風作であると断言したのは石川淳であったというが、『ぬれずろ草紙』の全容については知り得たかどうか?しかし、知ったところで「とくに奇とするにたりない」と言っただろうが。
「黒のソフトをかぶり、背広にレイン・コートひっかけて、赤い編み上げの靴を穿く、長身の大男が、画家がスケッチ・ブックに筆を走らせる如く、背中を猫背にし、ノート風のものへ、何やら熱心に書き込んでいるのである。」(『永井荷風』川崎長太郎 1959)
 戦前の玉の井遊廓で『墨東綺譚』の取材をする荷風に遭遇し、その姿を注視していた川崎は「思わずびくっとするような、敵意あらわな鋭い眼差で」睨まれたという。
「『芸術的感興なんて、もうそんなものは持ち合わせない。心理がどうだの性格がどうだのって、そんな面倒くさい詮索はイヤだ。己は唯自分の見た女や男を玩具の人形にして暇ッ潰しをするだけだ』と、作者がそういっているような気がする。」(『つゆのあとさき』を読む 谷崎潤一郎 1931)
 戦前からすでに荷風は文体こそ懐古的だが描写は本場仕込みの自然主義に傾いていたと谷崎には見えていたのだろう。その荷風が皇居広場の「新しき真実」を密かに春本として「熱心に書き込ん」でいたというのも「暇ッ潰し」だったのだろうが、「書を読むことを廃し」たことは「怠惰」というより、「虚偽と遊戯を卑しむならば、寧ろ文学に関与はらぬ方がよい」という筋を通したのかもしれぬ。だとすると、戦争が焼き尽くしたのは彼の美しいペンキ塗りの蔵書館だけではなかったようだ。
2007年02月06日 18時06分03秒

地球冷却化計画
「どんなに乱暴な言葉、どんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりは良質で、礼儀にかなっているように思われるのである。沈黙したままでいる連中は、ほとんど常に、心のこまやかさと礼儀に欠けているのである。(中略)粗暴は、きわだって人間的な抗議形式であり、現代的な柔軟が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。」(『この人を見よ』ニーチェ 岩波文庫p30)
 今朝の新聞の第一面に地球温暖化は「人間が原因」とある。超人ニーチェにいわせれば、「沈黙が原因」というのではあるまいか?「思う事言わねば腹脹る」と昔の人は言ったが、その「人間的な抗議」を経済活動という「現代的な柔軟」が消化して、その結果として化石エネルギーが大量消費され、温室効果ガスが気候を変動させているのではないか?ならば、地球温暖化を解く鍵は(メタボリック症候群も?)、ニーチェが「第一級の徳目」とあげる「粗暴」であろう。しかし、その「粗暴」にも「実施要項」があるとニーチェはいう。
「第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃する。(中略)第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうもない事柄(中略)だけを攻撃する。(中略)第三に、わたしは決して個人を攻撃しない―個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。(中略)第四に、(中略)攻撃することは、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。」(『この人を見よ』ニーチェ 岩波文庫p35〜36)
 「女は子を産む機械」といった大臣を辞任させようと野党が本会議をボイコットしているが、その構図は上の要項の「第二」、「第三」を破っており、本来、国会の場で「人間的な抗議形式」を表すべき礼儀に欠けた、単に硬直した思考形式、つまり自分らこそ「政権に倦む機械」なのではないか?しかして、女は産む機械か?超人は何と言ったか?
「女という女はわたしを愛する―いまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の『解放された女性群』は別だ。(中略)―女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである……すべての、いわゆる『美しき魂』の所有者には、生理的欠陥がその根底にある」(『この人を見よ』ニーチェ 岩波文庫p88〜89)
 「機械」といわれて「きちがい」にならぬほうが「退化の現われ」であるらしい。「美しい国」というのも、ニーチェがいうように「生理的欠陥」が根底にあってこそ実現するものならば、それは例えば、無能な軍隊しか持たないという制度的欠陥ある現状がすでに「美しき国」ではないか。軍事活動こそ地球温暖化の最たる要因であって、アメリカが削減目標に消極的なのもそれをやめられないからだろう。
「キリスト教は怨恨の精神から生まれたものであって、一般に信じられているように『精霊』から生まれたのではないこと―すなわちその本質上、一つの敵対運動であって、高貴な諸価値の支配に対する巨大な蜂起である」(『この人を見よ』ニーチェ 岩波文庫p161)
 ならば欧化社会の削減目標は、あらゆる「高貴な諸価値の支配に対する巨大な」怨恨を放棄しない限り達成されぬらしい。要するにキリスト教の絶対一神主義が温暖化の元凶なのではないか?はたまたメタボリックや少子化、テロリズムの原因ではないか?
「愛とは―戦いを手段として行われるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。―いかにして女を治療すべきか―(中略)子供を生ませることだ。」(『この人を見よ』ニーチェ 岩波文庫p89)
 こうも女性が出産から解放されると「両性の命がけの憎悪」も行き場を失って、同性や他国の見知らぬ敵、はたまた、人でないものにめくら滅法に向ける以外に解放できないのではないか?それが「現代的な柔軟」のせいであるならば、たとえ思考が硬直しても非現代的にならねばなるまい。勇んで粗暴になるしか地球を冷ます手段も、出張った腹をへこます手段も、子孫を殖やす手段も、つまり愛も実施できない。
2007年02月03日 13時31分49秒

失われた痛み
「伊丹忠平を、今日まで生きつづけさせてきたのは、人間の恥部のエネルギーにまちがいなかった。」(『失われた男』田村泰次郎 昭41)
 孤児と王子は同じなのかもしれぬ。上か下の違いはあれど、世間一般から仲間外れなのは変わりない。この物語に出てくる「太田」という男の戦場での行状を読んでいて、菊池寛の『忠直卿行状記』を思い出した。人間は非道な扱いによって誰でも「狼」に化けるのかもしれぬ。その狼を心の恥部に閉じ込めることに成功したはずの「伊丹」が、十九年ぶりに戦友の太田を訪問したのは何故か?
「忙しい身体を、わざわざ、東京からここへ運んだのは、この太田安次の完全な破滅をたしかめるためであった」(同著)
 その恥部の破滅に安堵もしたが、同時に虚脱も感じたということは、その狼を恐れ、恥部として呪いもしたが、愛でてもいたのだろう。
「戦場でのあの善も悪もない、敵がそこにいれば必ず倒し、敵でなくても、眼の前にあるもの手あたり次第に薙ぎ倒してきた、あの核物質のようなエネルギーのかたまりであった、太田安次…」(同著)
 そのエネルギーが自分の中にも在ったということを確かめたくて、わざわざ会いにいったのではなかったか?ならば、それは何故に見当たらなくなったのか?
「鋳型にはまった人間が、どうして鋳型の悪口をいうか、と伊丹は不思議に思ったが、すぐに、鋳型にはめられているからこそ、山田は鋳型のことを悪くいうのにちがいない、と気づいた。」(同著)
 小説の中で、政府に対して「人間のいのちよりも、石油産業のほうがだいじ」とか「人民の生命財産を守る力のない政府に税金を納める必要がない」と悪口をいっているということは、著者自身も実はその政府の「鋳型にはめられてい」たのではないか?それで作者自身であろう伊丹は「核物質のようなエネルギー」を見失っていたのではないか?
「その恥部がなくなったのをはっきり知ったいま、伊丹忠平は自分が生きようとする意欲をも、彼の意志にかかわらず、同時に失いつつあることを知り、かつて、これまでの生涯で感じたことのない、恐怖で胸を締めつけられた。」(同著)
 主人公と作家を完全に同一視するのは誤りであろうが、仮に田村氏自身がこの伊丹のような心境であったとすれば、氏がこの翌年(昭42)に脳血栓で倒れ、健康な身体を失ったのは幸運であったかもしれぬ。なぜなら、すでに失ってしまった「人間の恥部のエネルギー」で生き続ける必要がなくなり、自由の利かない肉体が、あの懐かしい戦場になったのだから。
「彼はひたむきに駆けた。心臓が痛くて、呼吸ができなかった。このような苦痛の状態が、いつか前にあったことを思いだしていた。(中略)あのときの無我夢中の気持を、いま、伊丹はなまなましく味わっている。」(同著)
 倒れた直後に書かれた『脳卒中との孤独な戦い(昭43)』『ころんでも必ず起きる(昭44)』は「あのときの無我夢中の気持」を味わいながら「ひたむきに書けた」に違いない。しかも「人間の恥部のエネルギ−」にはよらず。
 しかし、そもそも肉体の痛みを失わす合理文明が、経済発展のみならず、戦争や公害、疾病をも生み出しているのではないか?かつて戦闘を味わった人には闘病も懐かしいだろうが、善良な人には非道に他ならない。せめて、そうなる前に、人の痛みも我がものに感じたい…恥や道理を捨てても。
2007年01月20日 16時24分03秒


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