唯愛的セルフダイアローグ 倫理は輪廻?


●たかはる:こんにちは、岸田先生。今日は倫理についてお伺いしたいのですが。
○岸田先生:そりゃまたどうして?
●最近、荒れる成人式とか、代理出産や幼児虐待の報道が相次いで、モラルとか倫理が崩壊しつつある気がしたんです。
○なるほど。私はそうは思わないがねぇ。
●え?そうですか?最近、若い女性の間で、手首に傷を付けるリストカットなる流行があるそうですが、こういった社会現象も同じように、何かこれまで当たり前だった常識が崩壊した結果ではないかと思うんですが。
○なるほど。でもそんなことは今に始まった現象ではないな。
●そう、はっきりお答えになれる理由をお聞かせ下さい。何となく…では気が済まないモヤモヤした気持があるので、ボクはリストではなく、その代わりにコトバをカットしたいんです。で、倫理を辞書でひくと、「人の踏み行わなければならない道、道徳、云々」とありますが、その「道」というのが変化している気がするのです。
○最近よく政治に利用される人道主義というのも、「人の道」と書くね。じゃあ、その「道」はどう変化していると感じているのかね?
●はい、例えば、ある患者が、生と死という二つの分かれ道に立ったとします。で、その道が田んぼのあぜ道のような未開の時代は、誰も死の方にはいきませんよね。ところが、その道というのが大都市の複雑に入り組んだ道路だとしたら、生の方だと思ったのに、死に向かっていたということもあり得ると思うのです。
○なるほど、人の道も正しい方向が見えにくいほど、複雑化しているというわけだね。
●はい、そうです。で、倫理が正しい道ならば、その反対が禁忌、つまりタブーだと思うのですが、先生の著書『ものぐさ精神分析』の中で、「性のタブーは、外から押しつけられたものではなく、はじめは個人が必要としたものだ」とありますよね。
○そうだね。タブーとは近親相姦や父親殺しのことだ。
●その近親相姦などのタブーを繰り返すと、生殖上の不都合が生じたために、自然とそれが避けられたわけですか?
○いや、それは生殖という社会を形成する上での不都合であって、私のいう性のタブーは個人の不都合だ。第一次思春期の幼児の近親者(母親や父親)への性欲動は当然、性的不能のために断念せざるを得ない。その無力感と劣等感から自尊心を回復するためにタブーという外的要因のせいにして自らの不能を正当化せざるを得なかったと考える。
●知能の未熟な幼児がそんな劣等感を感じたり、それを外的要因のせいなどにしますかね?
○幼児期に大人に性的ないたずらをされて、それが後に精神外傷として現れるのと同じで、幼児期にはさきに説明したような自尊心や劣等感のごとき認識はない。ただ君が冒頭にいった言葉を借りるなら、「何となく…モヤモヤした気持」だけだろう。後に精神外傷にならないで済むのは、そんなのは普通は誰もしなかったのだから、と素直に諦められるからだ。
●ああ、その「普通は誰もしないものだ」というのが後にタブーとして認識されるわけですか。じゃあタブーとは反対に、倫理は「普通は誰もこうするものだ」という認識ですよね。それは一体、どのように必要とされるのでしょうか?
○性において倫理とは、生殖である。
●はい、確か先生の著書の中で、やはり第一次思春期の幼児のおしゃぶりや排便の出し渋りのような自体愛的な性欲動を放置すると、後にナルチシズムや倒錯になりやすく、そうした本来の倒錯的な傾向を生殖に向けさせるために倫理や禁忌などの共同幻想を必要とする、ということですよね。
○そう、他の動物と違って、人間の性欲動は不能な幼児期に発現するために、本来、性倒錯であり、それを教育や共同幻想によって正常にしている。恋愛もメディアが作りあげた共同幻想である。
●最近、セックスレスや不妊など性的不活性な人もいれば、反対に不倫やセクハラや無軌道に性に走る若者もいるという両極端な現象について、先生のおっしゃる幼児期の性欲動をめぐる外的環境が影響していると思うのです。
○なるほど、具体的には?
●例えば母乳がでない、あるいは与えない母親が増え、ベビーカーが普及したことで母子のスキンシップが減少していることが、子の性欲動自体を減退させている。喫煙という欲動も授乳の反復欲動であり、その経験を持たない故に喫煙者も減少している。また親の背中で寝た経験がない子は、居心地を感じるという経験がないため、家に根付けず、街を徘徊する少年少女を増加させ、ひいては分家や核家族化を善とする共同幻想を生んでいる。そして漫画や雑誌、インターネット、テレビなどメディア上の性情報からタブーが消えたことで、抑圧すべき性欲動を逆に刺激してしまったり、それがかえって不能者を増加させているのではないか。
○心理学者の立場から、君が今言った母子関係の社会への影響を全ては肯定できないが、性において生殖を善とする倫理が無効になっていることは認めるられるし、タブーを犯すような無制限な性解放は不能症と性倒錯者を増すことは私も危惧する。
●最近、エロ漫画の出版者がわいせつ容疑で裁判沙汰になっていますが、これも複雑な問題です。性情報からタブーが消えて、倒錯や不能が増えているとすれば、彼等の刺激され、麻痺した性欲動を正常に維持するために、かえってエロ漫画のような過剰で露骨な性表現を必要としてしまう悪循環もあると思うのです。
○麻薬や麻酔の禁断症状のようなものだな。しかし正常な性欲動を有する者にとっては、異性は美しいという観念を犯すという意味で猥褻罪なわけだ。
●その「異性は美しいという観念」が、先生の言われるようにメディアが仕立てた恋愛幻想なら、わいせつ情報も真相の暴露なんであって、メディアによる幻想破壊なわけで、自業自得というわけですか。
○そう。誰もそんな意識はないだろうが。心理学者として個人の立場にたてば、恋愛も倫理やタブーと同様に社会形成上、作りあげられた単なる幻想であると言わざるを得ない。その幻想なくして人間は生殖を行えず、社会を形成できずに滅亡してしまう。
●本当にそうなのでしょうか?今は個人同士の恋愛結婚が主流ですが、家紋や財産継承という個人を越えた背景で結婚が行われていた封建時代には、そのような異性への幻想が生殖にとって不可欠だったとは思えませんが。別に美しい妻でなくとも、子はできたと。
○恋愛は、抑圧が減少した現代にこそ効く幻想だと私は考える。かつての家は今の小規模家族と異なり、多数の個人が共同生活する小規模な社会であり、その中にすでに倫理やタブーが浸透していたと考えられる。そのような環境の中で育てば、幼児期の性欲動は第二次思春期まで抑圧され、欲動(リビドー)は昇華の形をとる。普通、生活の諸々の仕事や勉学などに向けられ、性欲は深い眠りにつく。
●なるほど、つまり現代のように家族が小規模で運営できるまで社会の経済的自由が発達すると、個人に向けられる社会的抑圧が減少するわけで、そうなると従来の共同幻想はもはや機能しなくなり、それに代わる新しい共同幻想が必要になると。で、恋愛幻想すら成り立たぬくらい抑圧が減少している現代であると。
○そういうわけだ。若い世代で結婚や出産が低下している要因は、経済的問題ではなく、単に抑圧の減少である。人間は本来、性倒錯であるという真の姿になっているだけだ。
●では、この先、この経済的自由がさらに発達するならば、ますます生殖が不能になり、社会は崩壊し、人間は滅亡するという、恐竜のような悲劇的な結末を迎えなければならないのでしょうか?
○エジプトやインカなど文明の滅亡は今までにもあった。先進国の文明も今その途上にあるのかもしれない。だが君が冒頭にいった代理出産というのを例に取ると、不妊症の人々の中にはそれと闘って、いかなる科学技術を駆使しても、多大な費用を投じても、生殖を行いたいという願望があるわけだろう。それは社会の倫理のためではない別の理由があるのだろう。
●別な理由とは?社会のためでないとすれば、個人的な理由ということでしょうか?
○恋愛や芸術を越えるナルチシズムの問題だと考える。つまり誇大妄想が引き起こす自己保存といえる。
●例えば三島由紀夫の自決が、幻想の自我像を永久に保存することだったように、という意味合いですか?
○三島の場合は、彼の中に内在した戦後日本社会が背負った内的分裂を、彼自身が十字架のごとく背負って、死をもって解消した事件だった。あれも個人レベルの敗戦であり、ナルチシズムとエゴイズムの対立において、前者が勝ち得たという点で我が国の歴史上、極めて希有な事件だった。それも彼が芸術という昇華手段によって、肉体よりも精神の保存を選べるほど、幼児期の全能の無限の至福に辿り着けたことを証明する。
●では三島のような文筆活動でなくとも、恋愛を極めることで同様の至福に辿り着け、自決できるほどのナルチシズムの境地に達するというわけですか?
○恋愛は幻想ではなく芸術行為である。その二人のナルチシズムの極限が心中自殺であるが、そこまでいかなくとも子への愛情のため自分らを犠牲にできることもナルチシズムである。
●それが、どうしても子供が欲しいという個人的な理由ですね。ですが、エゴイズムで子を産む人も多い気がします。名著『菊と刀』で米国人女性が見た日本の妻は、嫁としての弱い立場を補強するために多産でなければならなかったとありますが、それも逆境に対する合理化という意味でエゴイズムではなかったでしょうか。
○それはある。現代のように家が崩壊し、結婚が個人のものになると、嫁への抑圧も軽減され、故に多産である必要が無くなっている。ここにおいても生殖という社会倫理の必要性が希薄になっている。
●そんな自由さにもかかわらず、あえて子が欲しいというのが、やはりエゴイズムではなくナルチシズムであるなら、男性女性関係ないものなのですね。
○誰だったか、ニーチェだったか…「女には子供が必要であり、男はその手段でしかない」という言葉があったが、心理学の立場からは肯定できない。君の言うとおり自己保存はナルチシズムの問題であるから男女共通である。ただ性倒錯や不能に男女差があるか実際に調べる必要があるだろう。従来の研究では男性のほうが倒錯的といわれてきたが、女性解放以降、女性の倒錯や不感症、不妊症まで顕在化している。ということは男女差なくエゴイズムからナルチシズムに自己保存を求めるのであろう。
●じゃあ、女性にとっても自己保存の究極の手段は、子を産むことではなく、三島のような死なのでしょうか?
○肉体より精神の保存を選べれば同様だろう。
●え?逆ではないですか?大岡昇平の『花影』に描かれた葉子は老いて行く肉体の美を自己保存したから自殺したのではないでしょうか。
○それが正しいとすれば、反対に精神より肉体の保存を選んだら女性はどうすると思うかね?
●え?美容整形ですかね?
○それも限界があるし、妥協を伴うだろう。やはり二十歳の自分と五十の自分では歴然とした肉体の衰えがあるのだから。
●あっ!いつか読んだ楳図かずおの『洗礼』で、女優だった母親が、美貌の衰えに恐怖して、実の娘を殺して脳味噌を移植手術するなんて怖い話があったけど…
○それはすごい話だな。一体どんな結末になるのか?
●ええと、確か結局、主治医はすでに死んでおり、そんな手術は行われず、すべて娘の幻想だったのです。
○なるほど、老いを恐れる母親の強迫観念が娘に妄想を抱かせ、二人はその共同幻想の中に引き込まれていったわけだ。女優という人に見られる職業ならではの強迫観念であろう。
●でも最近は女優に限らず、若さを善として、老いを否定する風潮があります。史上最年少!などと大人がもてはやすと、そんな若くして手にした栄光がどれだけその後の長い人生への計り知れない重圧になるか、知りもしない彼等を苦しめるのではないでしょうか。そういった老いを恐れる青春幻想も『洗礼』の親子と同じく科学文明がもたらす共同幻想だと思います。
○倫理やタブー、神や恋愛に限らず共同幻想とは恐怖の合理化なのだ。恐怖を煽ることによって、風潮となって誰もそれを幻想だと感じなくなる。しかし幻想とは無関係に現実は刻々と変わって、新しい幻想がまた生まれていく。現実への恐怖から幻想は生まれ、幻想を持ってしか現実を見られないというのが私の「唯幻論」である。
●話がそれましたが、では生殖というのは個人にとって自己保存の手段とはなり得ないのですか。
○社会の倫理である生殖に個人が自己保存を求めるのはナルチシズムではなく、エゴイズムだ。これは全能の至福からしたら不本意な妥協である。
●でも保存どころか、子が親の存在を越えて至福をもたらすことがありますよね。富や名声をなどのような。
○だが、その過程で危険や犠牲も多く、成功したとして、予期せぬ問題をもたらす可能性もある。親の子に対する愛情を越えた干渉とは、いつの時代も社会的善を利用した個人のエゴイズムだ。生殖が自己で完結し得ない以上、自己保存の手段としてはどこまでいっても幼児期の全能の至福には到達し得ない。所詮、他者に投影した幻想の満足に過ぎない。
●じゃあ、女性にとっても自己保存は、他者投影でしかない生殖ではあり得ず、三島のようなナルチシズムというわけですか。
○いずれにせよ自己保存は死に向かう衝動だ。
●死に向かう…といえば痴呆というのも、自我が外界や自己の認識が困難になるという点で、社会的にも個人的にも死だと思います。肉体や感覚器官は生きているが精神は崩壊している。しかし、それも自殺すら忘れたナルチシズムの極地の気もします。
○君はそうした人達を研究しているのかね?
●一緒に生活していてそう感じるのです。感情移入していくことで、共感するわけです。そして自分や正常な人との違いについて疑問を抱くわけです。常識の予想に反して、彼等は至福の状態なんじゃないかと、ふと思うわけです。不謹慎にも羨ましいなぁなどと。
○ははは(笑)じゃあ、君もそうなりたいのか!?
●我々は痴呆や死を恐れます。しかし、それは自己保存の中途半端な執着なのかもしれません。「大日本帝国万歳!天皇陛下万歳!」と特攻隊で散っていった大和精神に生き抜いた人々も、「ぜずすまりあ!」と笑いながら戦死していった島原の乱のキリシタンも、精神的な自己保存ができていた故に喜んで殉死できたのじゃないかと。幸せを見失って、ただ死や貧困を避けている我々のほうが、人間として生き抜けていないのではと、ふと思うわけです。
○まぁアルツハイマーにしろ、迷惑被るのは周囲であって、本人にとっては知ったことじゃないという点で、たしかに胎児の全能と同じだ。でも彼等の身になってみないと至福かわからないと思うけどな。
●食事、排泄、入浴が完全に他人任せで、それに対して負い目を感じない痴呆レベルならば、不安も苦痛も赤ん坊と同じく一時的なものにすぎないのだから、アレも欲しいコレも欲しいとか、不況だ不況だと酒浸りの人よりも幸せではないかと思うのです。
○「希望は過去にしかない」とはバルザックの言葉だが、その反対に「不安は未来にしかない」。先のことはわからないから不安の種にもなる。幼児期には過去も未来もなく、ただ現在がある。時間の概念が身についた頃から恐怖の観念も生まれる。
●希望や不安は過去や未来の漠然とした意識ですが、歓びや苦痛は今現在の感覚だと思うのです。幸せも同じで、今感じるから幸せなので、その五感が鈍れば、何をしても無味乾燥でしょう。大人になると過去や未来が現在をぼかして、五感を鈍らせます。社会通念や時間概念にとらわれない意識的な努力から、今現在の幸せは感じられると思うのです。その手本は赤ちゃんであり、また痴呆の人なのです。
○しかしそれは同時に孤独でもあるだろう。社会から逃避する道楽である隠居と違って、社会に属しながらそのように自由になることは、相当の努力と勇気がいる。狂人や犯罪人と紙一重の崖っぷちをゆくようなものだ。
●だから人は信仰などに走るのでしょう。でも宗教も共同幻想です。本当の孤独は先生の言う胎児の全能のように至福で、それは共同幻想の一切ない自己の理性に基づくと思うのです。それは土地や時代など一切関係なく生から死に向かう普遍的な人間の姿だと…そういえば、女性の卵子というのも最初が100%で、一つずつ排卵して消滅に向かうわけですよね。それも胎児の全能が至福で、加齢と共にその高揚が困難となることと矛盾しませんね。女性は二重に全能がある感じですかね。
○それはフェミニストが聴いたら喜びそうな新鮮な意見だな。だが、自我が別の理性によって、二重に支配されているともいえる。
●それは月経という生理でしょう。脳は同じでも男性にはその第二の理性がない。女性のほうが一般的に、理想よりも現実を重視するのもそのためでしょう。男社会というのは、その現実性に欠ける弱点を封建制という共同幻想によって沽券を守ってきたと思います。出産という瞭然たる女性の生産力に対抗するために男も、男性優位な家や社会を築かねばならなかったと。
○それは女性解放運動の時代によくいわれたことだ。ところで、君が冒頭に提示した「人の道」理論、つまり田んぼのあぜ道が都市の道路と化しているという概念についてだが、複雑化しているということは、ひとたび誤った道に進んだとしても、まだ正しい方向へ軌道修正するルートがあり得るということでもあるだろう。一本道のあぜ道ではそうはいかない。
●人間が滅亡を回避するルートとはなんでしょう?
○環境容量という言葉を君は聞いたことがないかい?
●ボクは大学で都市環境工学を学んだので、確かにそのような概念をきいたことはあります。都市や文明にとって、その立地条件、つまり気候や地形が、その発展規模や寿命を決めるというものですよね。
○私の専門は心理学なので、その範疇で議論させてもらうが、人間個人にも、そのような環境容量が予め定められていると考える。先日、新聞報道で面白い記事があったのを君は見たかな?それは、自販機の破損罪で逮捕された初老の男の驚くべき野性的人生の全貌で、彼は子供の頃に田舎の家を飛び出し、以後40年間も洞穴や河原で蛇や魚を捕って暮らしたという。彼は家に連れ戻される恐れから身を隠し通し、その孤独の果てに一度は富士山麓で自殺を試みたが死の恐怖から失敗し、河原での生活の中で身につけた釣りの技術で、釣人との交流が始まり、次第に文明社会の便利さを知り、社会に戻っていった、という信じがたい実話だ。
●それはすごい人生ですね。つまりは、どんな野生人間も社会から孤立して生きることはできない、ということですか。それと環境容量とどう関係が?
○個人の自由と社会の抑圧との総和は一定ということだ。野生の自由というのも、狩猟という自活力の上に成り立つもので、何から何まで全て自分の世話を自分でできることが条件だ。経済社会における個人の自由は、少なからず人任せという依存条件の上に成り立つ自由だ。エネルギーも貨幣も食糧も他力である。この安定が崩れたら、個人の自由も縮小せざるを得ない。
●じゃあ、核融合やバイオテクノロジー、医療分野などの科学技術革新によって、その安定が無限だとしたら、個人はどこまでも自由で、社会の抑圧はどこまでも軽減されるのでしょうか?
○その究極条件では、個人は何から何まで他人任せ、あるいは科学技術任せとなる。つまり胎児の状態のまま成長し、成人し、寿命を全うできることになる。
●子供のまま大人にというと、まるで最近の荒れる成人式みたいですね。あれも他人任せ社会の必然なわけですか?
○成人式という儀式は未開社会のイニシエーションと同質である。青年期というモラトリアムは家庭と社会のギャップによって引き延ばされる。日本でも近代以前はそのギャップが少なかったため青年期が派生しなかった。このようなノンギャップ社会ではイニシエーションで子供はすんなり大人の自覚をもてるらしい。
●それじゃあ、荒れるならば成人式はやめるべきだと?
○それで子供がすんなり大人の自覚をもてないなら。
●どうしたらすんなりと自覚できるのでしょう?
○だから家庭と社会のギャップをなくすか、社会がギャップを許容するかだ。いずれにせよ何らかの多様なしくみが必要だ。
●それも倫理やタブーですか?
○共同幻想では無効であろう。これもナルチシズム同様、個人が私的に追究すべき問題だからだ。自覚が個人に委ねられる以上、社会による一律の儀式は何の意味もないのは明らかだ。話はそれたが、胎児の状態のまま成長し、成人し、寿命を全うできることになった場合、当然、抑圧なしの欲動は、倒錯あるいは不能となる。代理出産は、まだ正常な母胎が他に求めうるから成り立つが、すべての人間が不能や不妊となった場合、もはや自力での生殖は不可能になり、科学など代替の力で生殖し、社会も代替の力で維持されなければならない。
●なんだかSFっぽい世界ですね(笑)。
○ピルで生殖を完全制御し、人工誘発剤で受精し、試験管ベイビーとして生まれ、プログラムされた人工飼育器で育ち、管理されたカリキュラムで教育され、人間同士の関わり合いの一切ない仮想社会で全ての経済行為が完結する。
●そう聞くと、もうすでにそうなりつつありますね。全然、遠い未来の話ではない気がします。話が拡がってますが、先生の環境容量に当てはめると、そのように社会の抑圧がゼロに等しいとき、個人は無限大の自由を謳歌できるわけですが、果たしてこの様な状態が永続するのでしょうか?
○あまり空想めいた議論をしてもしかたがない。結論から言うと、無限の自由は唯一の束縛を必要とする。つまり個人の自由は、必ずや社会的抑圧を必要とする。倫理は輪廻する。
●またまた洒落を(笑)
○君の著作をいくらか読ませて貰ったが、君も異論はないはずだ。
●先生は何を読まれたのですか?
○君のネットエッセイ「我思故我在」は毎回、楽しく読ませて貰っているよ。その中で愛国心と自己愛について書いていただろう。「自己を愛せぬ故に、他者を、ひいては家庭や社会、国家を愛せない」という。
●ああ、書きました書きました。自決こそ最高の自己愛だとか、何とか。
○そう、そしてキリストのごとく処刑こそ、最高の他愛だと。
●はいはい。愛なしに人は生きられない…などと書くと大げさですが、愛とは「自と他の認識行為に過ぎない」と考えたのです。だから愛の目的は、知り尽くし、使い尽くして、終いには捨てることだといえば、なんだか冷酷非道のようですが、生と死も世界の始めと終わりであることと同じく、真実とはそんなものだろうと思うのです。
○君はほんとうに二十代か?若いのに、そういう冷徹な哲学をいかにして身につけたのかね?あまり真実を知りすぎて、ニーチェのごとく発狂しないよう気を付けたまえ。
●そうですね、生の真実も知り尽くして、使い尽くすと、終いには捨てる…なんて恐ろしいですよね。でも、さきほど先生のお話で野生生活の果てに捕まった男と同じように、私も死が恐ろしいわけです。死が日常的に明瞭すぎると、それはまるで戦争です。
○なるほど。と、同時に生も隣り合わせであろう。生の真実を知ることは死の真実を知ることでもあり、生を捨てることは死も捨てることだ。生きるためには死を畏れなければできない。
●動物や昆虫は仲間が死んで哀しんだりするのでしょうか。野生動物にとっては毎日が生死をかけた戦争なわけです。それは生死を知り、終いには捨てることかもしれません。
○君は戦争も経験しない世代なのに…よほど、戦闘行為に匹敵する恋愛をしたようだな。
●それは生の希薄さからくる愛の貪欲さでしょう。神経症を回避して、生存する道は、芸術か性愛しか知りませんから…。まだ先生の倫理が輪廻…という論を納得できませんので、俗っぽく聞こえるかも知れませんが、もう少し愛について話をさせて下さい。戦争が生死の露骨な状態ならば、それが平和で霞む時、外界と自己の間に生まれる自我は、自己の生を見失い、その確認行為が必要となります。それがリビドーのなせる昇華や、性行為そのものであると思います。ところが冒頭にあげたリストカットなどの自傷行為や、性犯罪や幼児虐待などを見ていますと、それがあたかもあまりに霞みすぎた生死の確認行為であるように思われます。
○なるほど。そこまでしないと生を確認できないし、確認しなければならぬというひっ迫した状態にあると。
●ええ、平和によって保証された個人の自由は、かえって自らを見失って切羽詰まってしまうと。
○その自我の確認行為は、外界に向かえばエゴイズムであり、自己に向かえばナルチシズムという両面を持つわけだ。なんだ、それじゃあ倫理輪廻とつながるじゃないか。
●は?そうですか??
○その見失った自己の生を確認するには、自己へのナルチシズムでは完結しないのだろう?
●ええ、まぁ、「自愛は他愛に育まれ、他愛に帰す」というのもありまして、愛で自己を認識しようとするためには、どうしても他を必要とするのです。
○だから、それが私の言う、発育過程で孤独に放置されれば餓死してしまうという人間の畸形的な弱さに由来するというわけじゃないか。人間がセミやカマキリのように生み捨てられて、自力で生きてゆけるならば、社会など必要としない。
●ああ、そうか。同じだ。結局、他を必要としてしまう。生まれたときに決まってしまっているわけですね。他を必要とするプログラムが。
○ついでに言えば倫理やタブーといった共同幻想を必要とするプログラムも備わっている。
●ん?ええと、抑圧や幻想なしに生殖を正常に行うためには、他の動物や昆虫と同じく、性欲動と生殖機能が遅滞なく同時に発達しなければならないわけですよね。人間の胎児が性器が未発達な幼児期に性欲動が発達してしまうのは何故なのでしょう?
○遅滞してしまう原因には、畸形的な弱さの他に実はもう一つある。何もできないというのは育てる側からは世話が焼けるという客観的な無能さであるが、反対に彼自身は全てが無意識の世界であり、すなわち主観的な全能さである。彼は彼の小さな世界の裸の王様状態なのである。お腹がすいたり、おっぱいが吸いたくなったら泣けばいいし、寝たいときに眠れるし、トイレでおしっこしろと言われても知らぬ振りして、好きな時と場所で気分次第にしてしまえることが全能ということだ。
●ああ、じゃあ個人の自由というのも、欲動としての最大はその幼児期の全能にあるわけで、何でもできる素晴らしいあの興奮を取り戻したくて、人は女や酒に溺れたり、タバコを吸ったり、芸術や仕事に夢中になったり、スポーツに興奮を求めたり、戦争か宇宙開発をするわけで、全ての欲動の原点は、胎児の全能さにあるわけですね。
○左様。人間の胎児が生後、自然環境に放ったらかしにされても、まもなく自力で立ち上がり、食べ物を探しにいけるようにならない限り、人間は他を必要とし、生殖のために幻想を必要とするわけだ。時代の変化に伴って個人の自由と社会の抑圧の釣り合いは常に変化するということだ。だから釣り合いを調節するための重りとしての倫理も崩壊し、また新しく輪廻する。その永遠なる繰り返しだけが一定なのだ。
●おお!やっとわかりました。環境容量とは社会と個人のはかりで、倫理はその分銅だと。じゃあ、今後、ますますテロリズムという戦乱の時代に民主化世界が巻き込まれていくとすると、あらたな倫理へと刷新されていくというわけですね。
○もう変わりつつある。不況続きで、倹約する人が増えたり、自己破産する人が増えたり、全能であったはずの貨幣価値も堕落するだろう。戦争という非常時は常にそうだった。もうかつてのように非日常的な戦争が起こり得ないとするならば、日常のまま経済主義が崩壊するだろう。
●いつも思うのですが、経済主義とか民主主義の消費活動というのも、「科学は進歩してる」とか、「多いことは良い」だとか、全て右上がりの共同幻想のもとに成り立っていますよね。そうやって競争させないとみんな働かなくなってしまうから。
○そもそもアメリカの独立宣言の自由、平等、民主という共同幻想は、原住民の大量虐殺の正当化に支えられている。広島、長崎、ベトナム、湾岸戦争、そして今回のイラクも、すべてインディアンの大量虐殺の強迫的反復にすぎない。その競争幻想はいいかえれば、自我を内面ではなく、外面に向けさせ、できる限りナルチシズムよりエゴイズムに向くように仕向ける幻想だ。だから内的自己に生を見出せない若者がリストカットして、それを誇示するかのような流行も、そのような競争幻想の合理化の結果だといえる。しかし、それは日本という国自体がそうした内的自己と外的自己の精神分裂症だ。外的体裁を優先し、内的な実態は抑圧されて、歴史に残る事件の多くは外圧に対する革命か自滅行為だ。開国以降の近代化への抑圧が天皇攘夷という共同幻想のもと大東亜共栄圏や朝鮮人差別という集団狂気をもたらし、敗戦という集団自殺に至った歴史もそうだ。
●最近、キレる子供が問題になっていますが、彼等も不本意な体裁を優先させて、内的自己を抑圧した結果がその突然の爆発であって、まさしく日本人の姿そのものですね。イラク派兵にしても、人道だといくら国会内で内輪の議論をしても、米国や全世界はそうは見ていない。メディアの報道も無知なのか作為なのか、民主化世界の情報が大方で、肝心のイスラム社会の見方が全く見えない。これでは情報操作と変わりない。
○やはりそれも君が言った民主主義や経済主義の共同幻想の中での限定された善であって、世界には9億人もいるイスラム教徒やカトリック教徒、7億人のヒンズー教徒それから3億人の仏教徒やユダヤ教など、歴史も古く、強烈な世界観が共存している。彼等は幾多の戦争を経て、外的体裁と内的自己との葛藤の中で、その強固な自我精神を確立してきたわけだ。
●侵略の危機も元寇と黒船しかなく、強国の外圧にはノーといえず、内なる反感を抑圧してきたあいまいな日本人は、なんだか遠藤周作の『沈黙』にでてくるキチジローみたい。「昨日の敵は今日の…」みたいなズル賢い処世だけが世界から見た日本人の姿なんだとしたら、実はこんなに精神分裂してるという内面も見せないと理解されないと思います。
○海外にこんなに多くの人が行っているが、ただブランド品を買い占める消費活動に終始して、文化の反芻をしないのと同じではないか。
●そうですね。あれも成金の貧相な現実逃避であって、不満な現実に対して抑圧した内的自己の合理化のつもりなのでしょう。現実を変革することに端から諦めているのは、「恥と外聞」を気にする長い封建制のせいでしょうか。そうして染みついたうわべの外向性が、「ギブミーチョコレート!」などといって、強姦された処女がその犯人に恋してしまうように、米国の民主化に盲目の恋をしてしまったのでしょう。
○何度も言うがエゴイズムは、ナルチシズム以上の至福は得られないのは、幼児期の全能さに由来する。やはり内面と対話しなければ、精神分裂と現実逃避は永遠に続く。
●内面との対話というと…瞑想などしなくても、何かに夢中になって集中できたら、それが咄嗟の判断や火事場の馬鹿力であっても、それこそが自己の理性の働きだと思うのです。例えば他人の唄の替え歌を考えるとき、余計な自我を殺して言葉遊びに徹して、ニヤつくほど夢中で楽しめたら、無意識のうちに本心がそのウソの中に滲み出るということがあります。ただウツウツと内面に浸るのではなく、自を放棄して他に投影する快楽を重ねていくことも、愛による覚りだと思っていますが。
○「ウソの方便」だな。しかし、それも所詮、外界と接する自己の外的投影であって、君自身の中から自然に湧き起こる唄にこそ、自我が完全に抹消された純粋な自己の理性があると思う。
●ああ、自分で造ったのに何かに乗り移られて作ったみたい…というのも極まれにありますが、それが最も難しいのです。きっと、それが普遍というものでしょうが。
○私は心理学者だから、ここで君と芸術論をする気はない。国家にとっての理性とは、憲法である以前に、支配的な宗教観だと思う。憲法は時局の変化でいくらでも改正や立法できるが、宗教は常に民衆の生活に深く浸透していく倫理観であって、その理性が分裂症であるなら、極めて中心性のないナルチシズムであり、真実もないなら妥協的なエゴイズムに生き延びる道しかない。
●国家のナルチシズムというのは、個人の蓄積だと思います。幼児期から「恥と外聞」で妥協してきた世代は必然的に精神分裂するしかないと思いますが、現代に発育した世代には、もうそんな抑圧はないと思います。これから日本は妥協的な体裁から独立して、ナルチシズムをどこに求めるのでしょうか?
○米国の場合、建国当時から歴代大統領のほとんどがWASPとよばれるプロテスタント系で、彼等は信仰よりも実生活を重視する「自由主義派」が主流だった。それが近年、麻薬や同性愛、エイズなどの社会問題の深刻化から信仰生活を重視する「保守派」に移行している。日本も治安の悪化が深刻化しているが、精神の救済をどこに求めるかが問題だろう。
●じゃあ、今米国で流行っている「サムライ・スピリット」とか、仏教精神とか、はたまた尊皇攘夷?まさか…天皇以前のヤマトタケルまで遡る多神教的神話の精神??…話がとりとめなくなりそうですが、国家も歴史の内面と対話することで救われるのでしょう。最後に先生が予言した経済主義が崩壊した後の日本を支配する新たな価値観とは、一体何でしょう?自他の生死を確認できる唯一の行為、それは愛だけかもしれない…といったら妄想過ぎでしょうか。
○欧州や最近の米国の「新保守派」などは、キリスト以前のギリシャ神話にまで遡って政治哲学を求めているから、日本の場合も天皇制以前の神道や神話に学ぶ動きがあるなら、宮崎や、出雲に行けば何かわかるかもしれないな(笑)
●「金の切れ目が縁の…」のように、愛とカネというのも表裏一体の認識価値だと思います。
○だが、カネは愛と違って貯金や借金ができる。君がさっき幸せを感じる五感は時間概念や社会通念に邪魔されるといったように、カネのほうが時間や社会から自由だから発達したのではないか?
●そうですよね。右上がり社会では、常に愛はカネに変換されがちでした。でもカネも使わなければ価値はありません。未来の予測が立ってこそ、貯蓄も借金もできます。これが不透明ならカネにかわって愛の登場もあり得なくもないと思うわけです。時間や社会に邪魔されながら大人が赤ちゃんと同等に、今現在の幸福を照らし出す唯一の光が愛だと思うのです。
○なるほど…それが新しいかは別問題だがな。ま、カネと違って愛は借金できないから、少なくとも未来に悪影響はないだろう。それじゃあ、私の「唯幻論」に因んで、君のその思想を「唯愛論」と名付けよう。
●うわっ、そんな…名前を付けてくれるんですか!それも愛の認識行為ですね。じゃあ、八百万(ヤオロズ)の神々が支配するウソ八百の(笑)至福への唯一の拘束は、愛というわけですね!これがたかはる式、「唯愛論」だ!
○よくゆーわい(笑)
●先生、今日は本当に有り難うございました。大変感謝いたします。
○感謝など…そうか、自己愛の報酬とは、社会からの感謝だということはキリストや三島由紀夫が証明したことだが、愛の因果とは、そのように感謝である。感謝されっぱなしでは愛を損した気分だから、こちらこそ負けぬように感謝してやる。ありがと。ありがと。ありがとーーっ!どうだっ!バカみたいだな私は。
●いいんです。幻想なき胎児は、みんな無能で、故に全能だといったじゃないですか! ( お わ り )