いまどうしてる?

           

yproject_ 自分は音楽家ですが、ときどき誰の為にやっているのかわからなくなります。自分の楽しみの為なのか、人に認められたい為なのか。

mishima yukichi RT @ yamamoto_samurai 「芸は身を助く」とか、芸で身を立てる、などというが、侍にとって芸は身の仇、身を滅ぼすものだ。

sakaguchi heigo だいたい芸術家なんて「バカの一念」というやつで、ジャジャ馬で、ウヌボレ屋の、箸にも棒にもかからぬ鼻持ちならぬやつだ。

yproject_ はあ…けれど、昨今は、芸達者をやたら尊重する風潮があります。だからみんな人気者になろうと才能を磨いたり、身綺麗にしたり、やたら資格だのキャリアアップだのにカネをつぎこむ…

terayama shujin ヒットチャートだの、ベストセラーだの、そういう数の信仰は、現代人の信仰対象が「情報」と「カネ」だからだよ。

suzuki daisetsuzan 昔、インドに有数の音楽家がでた。そこにアメリカの興行主がレコードにしたい、いくらでもカネは出すといったら、その音楽家は「自分の作品は聞くものの霊性的向上に資したい。自分の霊の奥の奥から出たものを単なる興味本位で見てもらいたくない」と断ったそうな。

mishima yukichi 武士道では、芸能をこととする人間とはファンクションに堕した一つの機能的な歯車にすぎない。一人一人の武士は武士を代表している。 RT @ yamamoto samurai 武士道において、ほかに仏道や儒道を開きつつ、などというのでは道に叶わぬものだ。

yproject_ よくHipHopのラッパーが「レぺゼン(represent)なんとか」というようなものですかね。

sakaguchi heigo 昔、「第二芸術論」なんていわれて、俳句や短歌は芸術じゃないといわれたが、それは俳人とか歌人が「詩人」でなくなったからだ。あらゆる芸術家は「レぺゼン芸術」でなければならない。

terayama shujin でもそういう情報万能社会の現代人は変身願望は旺盛だが、いったい、個人が強化されてるのか、崩壊しているのかわからない。例えば、私がテレビに出てる「私」を見たり、雑誌に載ってる「私」を見てる。どこにほんとの「私」がいるんだ?とわからなくなる。

kishida#shyou ちょっとお邪魔しまwwwす。それって、どれも情報としての「私」ですよね。じゃあ、そのアイデンティティの中心はどこにあるのか?ってことですね。

terayama shujin この肝硬変に病んで、明日にも死にそうな私がほんとうの「私」、というわけです。

yproject_ 痛みますか?

terayama shujin@ yproject_ 痛いねえ。たまらなくなるよ。それでかえって言葉の世界に逃げたくなる。

yproject_ 人工臓器を移植するとかいう手はないんですか?

terayama shujin @ yproject_ そりゃ、ごめんだね。ぼくの女がぼくのプラスティックの肝臓を撫でて、それを「肉体関係」と呼べるか。

yproject_ RT @ F.Nietzhe 本の世界に埋もれていた私を救い出してくれたのは、まさに病気だった。生涯でもっとも病弱で苦痛の多かった頃ほど、「私」というものに幸福を感じたことはなかった。

terayama shujin @ yproject_ RT @ F.Nietzhe  じゃあ、ぼくは生涯ずっと病弱だったからずっと幸福だったわけだ。

kishida#shyou おまけにずっと孤独だった。

terayama shujin @ kishida#shyou そう、ぼくには家族というものが一度もいなかった。父は五歳のとき出征してそのままだし、母も子供のときから別居してた。

sakaguchi heigo 親はなくとも子は育つ、か。親なんてない方が子はたくましく育つよ。

kishida#shyou @ sakaguchi heigo その親が実はウソでした、というのがぼくです。実の親は隣に住んでた、もらい子なんです。

yproject_ @ kishida#shyou それ知ったときショックでした?

kishida#shyou @ yproject_ うすうす気づいてたから、いい息子を演じながらね…。

terayama shujin 家族なんてのも幻想だと知っていたわけだ。ぼくも職業は?と聞かれたら「職業terayama shujin」っていつも答えてる。

kishida#shyou @ terayama shujin で、ときどきどれがほんとの「terayama shujin」だかわからなくなると。

yproject_ 肝硬変に病んでるterayamaさんこそ、ほんとうのterayamaさんじゃないですか?結局、病気によって個を確認するしかないのでは?いかに情報で「私」を強化したり、複製しても、結局、この身体はウソをつけない…

suzuki daisetsuzan そこに霊性もあるから、かのインド音楽家はそちらを尊重した。

yamamoto samurai 武士もそこに道を叶えようとした。

sakaguchi heigo 芸術家は芸によって身を立て、身を滅ぼしても芸道に殉じる覚悟を見い出した。

terayama shujin 芸術家に墓はいらない。私の墓場は、私のことばであれば、十分。

kishida#shyou @ terayama shujin  しかし、terayamaさんは、ある意味、幸せかもしれないね。だって、若い時から自分に残された時間があまりないことを知っていたからこそ、その才能を燃やせたんだから。自分の死をつねに遠い先に追いやっていたら、それは物語に終わりがないに等しいんだから、オルガスムスのないセックスと同じだ。

terayama shujin  昔はセックスも、祭りや戦争のように盛大な非日常の行為であった。RT @ yamaguchi#masa 民主主義のダメなところはすべてが等身大で、日常性を超えるものがないところ。

yproject_  性が聖でなくなったのだとしたら、今や「死」だけが「聖とするもの」といえるかもしれないですね…。RT @ doit#takeo 現代人の不幸はヒューマニズムを越えるものが何一つなく、聖とするものがなくなったことだ。

yproject_ RT @ F.Nietzhe 民主主義というのはキリスト教の遺産であって、キリスト教は怨恨の精神から生まれたものだから、本質上、一つの敵対運動であって、高貴な諸価値の支配に対する巨大な蜂起だ。そのテンポがあまりに遅すぎて、誰も気づかないが、「自分自身」しか信じない自治的畜群を確実に生み殖やしている。

kishida#shyou  そうか…キリスト教という大物語はとっくに滅びたと思ってたけど、民主主義とかグローバリズムと看板を替えて、ますます世界を支配しつつあるのか。それは、あらゆる大物語を否定する「無物語」というイデオロギーといえるかもしれない。

yproject_ @ kishida#shyou でも、物語には始まりと終わりがつきものではないですか?

terayama shujin  終わることが出来ない物語の中を生きさせられているのが、現代人の不幸ではないか。それはオルガスムスに到達できないセックスみたいな空しさだ。

yproject_ @ terayama shujin セックスだけがオルガスムスに至る道でしょうか?私は音楽によって絶頂感に達することがよくあります。

kishida#shyou @ yproject_ へえ!?それで射精するのかね?

yproject_ @ kishida#shyou  いえいえ。女性がそのとき射精しないのと同じで、肉体の喜びの声を聞くといったらいいのでしょうか。

mishima yukichi @ yproject_ 肉体の歓喜のとき、人は音楽を聞く、というのが私の小説『音楽』の主題だった。

suzuki daisetsuzan それがおそらくインド音楽家のいった「霊の奥の奥から出たもの」だろう。

sakaguchi heigo 肉体自体が思考し、肉体自体が語るということが文学にもある。サルトルの小説『リュリュ』で、不能者の夫と喧嘩別れした女が他の男とホテルで浮気する。男は達者で女はボッとなってしまうが、なぜか、彼女は不能の夫が好きなのだ。やはり人間は肉体だけではなく、精神にも支配されている。

yproject_ @ sakaguchi heigo それって、地球にうっすら大気があるようなものですかね?木星とか土星は大気がほとんどです。情報社会に生きる現代人はガスの塊になって、中心とか大地がどこにあるのかわからなくなって、自爆して初めて、ああ、これが「私」だったか、とわかるのかもしれません。

mishima yukichi @ yproject_ 自爆した後じゃ、何もわからないけどね。

sakaguchi heigo @ yproject_ 君も、これが「私」だったか、と音楽でわかればいい。でも、まちがっていけないのは、発見するためにやるのではない。人を驚かしてやろうとしたっていい。みんなの度胆を抜くような作品をつくってやろうと思って、その作品から自分の知らない自分を発見するのがいい。

terayama shujin  そうやって過去の自分を塗り替えてゆく行為は、ある種、死の衝動に近いかもしれないね。

kishida#shyou @ terayama shujin フロイトはそれを「欲動」といったので、それ自体は、生でも死でもなくリビドーなんですよ。

yamamoto samurai 生き抜くために自分を殺すことが武士道でも大切だ。

mishima yukichi だから、切腹とは武士としての自分を生かす為の聖なる行為なのだ!!!

kishida#shyou @ mishima yukichi それは大物語の時代の話で、小物語の時代である現代では、単に肥大化し、分裂した自己が統合失調に陥り、個としての肉体を殺したわけで、早い話が、芸で身を滅ぼしただけです。

mishima yukichi @ kishida#shyou ちがう!私は現代になんか生きちゃいなかった。私は武士として生き、死んだのだ!

sakaguchi heigo @ mishima yukichi  その解釈には無理があるな。いいじゃないか、文士として生き、そして死んだって言えば。作品によって自分を発見していった結果、自殺するしかなかった、それも立派に文士道、芸道だ。そういう大バカ者にしか芸は究められないものだ。

yproject_ @ sakaguchi heigo ある意味、それって病気ですね。ビョーキっていうか。

suzuki daisetsuzan @ yproject_ ふつうにいう「病気」とは肉体の否定だが、この場合は、自己否定である。仏教者は、この経験から肉体の実在に逢着し、霊性に触れることができる。

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fri. 9 july, 2010