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シンクウの思想 (真空で見た空の色は真っ赤だった)
(その1)
オッカサマ教
「ヒステリイになるのは当然であり、その反動で長男は別として安吾たち自分の子供たちに辛く当ったと考えられる。」(『坂口安吾』奥野健男 '72)
世の一般的な見方として、ヒステリーやウツなどの神経症は、心労が原因と思われやすいが、精神分析学の視点はちがう。
「もっぱら性生活の障害に帰せられている神経症は、臨床的には、快感を生みだす毒物(アルカロイド)を習慣的に注入することによって生じる中毒や禁断現象によく似ているのである。」(『性に関する三つの論文』フロイト)
坂口安吾の母がヒステリーを起こしたのも、大家族の家事を一任された心労ではなく、さらには、仕事に没頭して家庭を顧みない夫との「性生活の障害」でもなく、何かの「禁断の現象」ではなかったか?
「昭和二十四年、アドルムとヒロポンの中毒で禁断症状をあらわしたとき(中略)安吾はふとんの衿をかみしめるようにして子供のように泣き『今日はオッカサマの命日でオッカサマがオレを助けに来て下さるだろう。』と懸命になにかをこらえる様子であったと云う。」(『坂口安吾』奥野健男 '72)
この覚醒剤中毒の根底には、安吾自身が云ったように「オッカサマ中毒」の禁断現象があったのではないか?彼が脳出血で亡くなった時(奇しくも母アサの命日)も、夢の中で「オッカサマ助けて」と泣いていたのかもしれぬ。若き日の彼が既にそう語っている。
「世に母親ほど端倪すべからざるものはないと教えられた。」(『母』坂口安吾 '32)
遠藤周作も「日本人はみんなお母さん教(狂?)ですから…」とある美術番組で語っていたが、そんな日本人が「宗教とは一言でいうと何ですか?」という疑問を抱いてしまうのも無理はない。オッカサマは通常、配偶者や家庭そのものに化け、さらに母国や故郷にも化け、ときに天皇陛下や「おでんくん」にまで化ける八百万の神なのだから。それが「オカネサマ」に化けて戦後の高度経済成長をもたらしたとすると、まさしく「母親ほど端倪すべからざるものはない。」
フロイトによればエディプス・コンプレクスとは、子供の描くスケッチを拡大、粗大にしたものだといい、それはある意味、粗暴で残酷。
「父親に対する憎しみ、父親が死ねばいいという願望は、もはやおどおどした示唆の程度にとどまらず、母親に対するやさしさも、彼女を妻とするという目標を公然と告白しています。」(『精神分析学入門』フロイト)
先日の奈良放火事件で、犯人である高一の長男も「父が憎かった」といい、その理由は、医師になることへの過度なプレッシャーと語っているらしいが、本当はエディプス・コンプレクスの仕業ではないか?彼は「全部なくしたかった」と語ってるそうだが、それは全く反対に、離婚して引き離された母親が欲しかったのではないか。安吾の義姉たちも母が病死した後に家に入ってきた若い義母を憎み、毒殺までしようとしたというから、返す返すも「母親ほど端倪すべからざるものはない。」オッカサマは、おっかない神様である。2006年06月25日
アルゴール中毒とダンドリズム
今どきの親は育児が大変というが、昔の人は、よくも何人も育てたものだ。世の中が変わって育児が大変になったのか、人間の方が変わって育児が苦手になったのか?
育児といって、食事や排泄、入浴だけならペットと同じ。泣く子を寝かしつける大仕事を、あやしという。あやすとは英語で、dandleという。段取る?直観に任せて「段取り」を辞典で調べると「心構え、工夫、手配り…」とあり、一番最後に「手順」とあった。真っ先に思い浮かびそうだが。
「なぜ、小さなムダは見えても、大きなムダが見えなかったのか?それは合理性の追求が一面的だったからである。(中略)しかし、より根源的には、現代文明の根幹にアルゴリズムがあるからではなかろうか?」(『エコロジー的思考のすすめ』立花隆 '71)
アルゴリズムとは、計算や問題解決の手順のこと。確かに1、2、3と手順を決めるとラクだが、その順番になった根幹を考えなくなる。これではアルゴール中毒。ダンドリズム。段取りとは工夫や心構えでもあるということは、泣く子をダンドルのもセンスなのだろう。
あやすの訳には他に、caress(愛撫する)、humor(機嫌を取る)、amuse(楽しませる)がある。これらは日常の円滑な人間関係にも欠かせず、これが欠けるとストレスも溜まる。その基本は、子をあやすセンスにあるとすれば、育児が大変になる理由も、遊びのセンスがないからではないか?何処でも遊べた昔と違って、センスを磨く場所を奪ってるのも文明だから遣りきれない。
ところで、世の中はヒーリングブーム。癒しとは、病気や苦痛、飢えを治すこと。大人のあやしが癒しだとすれば、自分をあやすのに精一杯だから、子のあやしに手が回らないのでは?
「一たび子の為になつたが最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい『母』の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。」(『あばばばば』芥川竜之介 '12)
大正時代の母が一心に子をあやしたのも、それで自分もあやしていたらしい。ならば、自分を癒す手段が豊富な現代に育児に一心になる必要がないのも当然。
近年、男も育児に参加せよ、といわれるが、とかくそれを拒むのは女性の方ではないか?ユーモアや遊びのセンスと同様、子をあやす術も男性の方が巧いはずだが、それを見ておれぬのは、小さなムダに目を奪われるせいではないか。そういうアルゴール中毒に陥りがちな女性にダンドルを押しつけてきたツケが、段取りだらけの現代文明の根幹にあるとすれば、芥川が恐れた『母』の減少は、文明の為には「祝福を与へても好い」のだろう。2006年06月15日
狂育基本法
「これ(野球見物)を私は集団性中毒と名づけて、初期の精神病と見るのである。(中略)自分で見物したいと意志してはいるが、根本的には自由意志が欠けている。(中略)動いて行くばかりで停止し、発見することがない。これが中毒患者の特長である。」(『麻薬・自殺・宗教』坂口安吾 '50)
野球見物くらいで集団中毒なら、今やほとんどの人が何らかの中毒だろう。何故、人は中毒や依存症になるか?そして、その症状を自覚できないか?それは、ドートクがボートクであるように、狂気が意志でもあるからではないか。その狂気を隠そうとするから、意志も欠けるのだろう。
近頃の子どもは、すぐにキレたり、教室をふらつき、それが長じて引きこもりになるという。この理由も、狂気=意志を隠すことの習慣化にあるならば、狂気を発見することから、意志も発見されるはず。
「マニアの第一の特徴が、その無償性にあるとすれば、人間はみんなマニアなのである。(中略)厳密に言えば、人間はみんな衣装マニアなのである。同じく、ほとんど無償の性行為しかしないのだから、セックス・マニアでもある。」(『マニアについて』岸田秀 '78)
無償の仕事というと、ボランティアくらいしか思い浮かばぬほど、何でも「カネが第一」の有償社会になっている。これでは育児も有償化、つまり人並みの給料を支払わない限り、出生率を上げる手はない。しかし、自分の小遣いの為に我が子を育てるなど意味が分からない。つまり、何でも見返りを求める有償教育こそ改正すべきで、学校とは本来、何の為になるかわからない、一見無駄な教養の大切さを教える場所でいいのだし、役に立つことだけ教えようとするから、かえって行き詰まるのではないか。
「『みんな神経症に罹っているといわれる現代』ということであるが、精神分析理論によれば、人類ははじめから神経症であった。」(『人生をますます苦しく過ごす三つの方法』岸田秀 '88)
岸田氏は悩みを解決する方法はないが、さらに耐え難くする方法ならあるという。それは、解決法があると信じること、別の悩みにすり替えること、悩みの責任を他人になすり付けることだという。
「要するに、悩むべきことをありのまま悩んでいればいいのである。」(『人生をますます苦しく過ごす三つの方法』岸田秀 '88)
しかし、それが容易でないから、三つの方法が解決策であるかのように信じられ、それで消費社会は栄え、パチンコ依存症になったり、殺人が起きたりもする。
岸田氏にとっての「悩むべきこと」の原因は、育ての母との歪んだ関係にあったという。とかく、神とは美しいものと思いがちであるが、天皇の命による無謀な戦争が何百万の犠牲者を出した歴史が証すように、それは単なる盲信にすぎない。神とは、悩みの種でもある。
「おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない
恋なんてしないまに老けちゃった わびしい夢に はかない楽しみ
思い通りには何もならない」(『主婦のブルース』アイルランド民謡 中川五郎訳)
それでいいのだが、こういう悩みに気づくには、「動いて行くばかりで」は「発見することがな」く、引きこもらねばできない。
教育基本法改正案に「宗教心」とか「愛国心」が謳われているようだが、戦争体験者が容易に賛同できぬのも、宗教も麻薬のように中毒すると身をもって知っているからだろう。今さら他山の石に学ぶより、自分の意志を知る方が、よほど中毒も防げるのではないか。そして、岸田氏が憎らしい母の話を「何千回でも繰り返したい」というように、悩みとは、青春そのものなのである。
「私はともあれ青春や若さに賛成します。ただそれは全く個人の病気であって、社会や政治の病気ではない、ということを前提にしてであります。」(『不道徳教育講座』三島由紀夫 '59)
その「個人の病気」を一生背負い続ける意志を教え育てるのは、一体誰の責任であろう?2006年05月31日
私の故人主義
「親が子を殺したり、子が親を殺すのは、他人同志で殺し合うよりも、もっと当り前で平凡な、そして悲痛な理窟が揃っている性質のものである。親子の関係ぐらい『我慢に我慢を重ねている関係』はないであろう。」(『親が捨てられる世相』坂口安吾 '52)
「無残なのは、近年おこっているおびただしい奇妙な事件に対して示す彼らの反応ぶりであって、その鈍感さ・傲慢さに対して私は辟易するほかない。傲慢というのは、自分の用意したもの、自分の理解しうるものの領域の外に一歩でも出ないということである。」(『人間的なもの』柄谷行人 '73)
先の小沢氏と首相の党首討論で、昨今の親子の殺し合い事件が教育の問題として議論されていたが、それは今に始まったことでもなく、誰のせいでもないのだろう。
先日、NHKの番組で、「人間とは人と人の間という意味で、小さい時から人の中で育てれば、容易くキレる子にはならない」と言っていた。現代の知識教育や核家族化、機械化、少子化の環境では、人と人の間に道具が入るのも仕方がない。それは何も子どもに限らず、柄谷氏のいう「傲慢な人間」もそうではないか。知識が現実の理解を諦めたとき、殺人だけでなく、死刑や戦争も起こる。
仏教の六道における人間の世界の苦しみとは、そのように互いを殺し合うことだとすれば、そうした哀しい現実を経験し、理解する用意こそ人間の条件ではないか?さらにそんな人間に辟易したら、人でなしになるか、桃源郷の住人になるしかない。
「漱石は『自分の心の経路を有りの儘に現はすこと』は困難だといっているのである。ありのままを書くには、告白ではなく小説というフィクションの形式を要するといっているのだ。(中略)『有りの儘に書く』のは、ただ自分自身を知りたいという目的以外の目的をもたない。」(『人間的なもの』柄谷行人 '73)
「人は告白を見て誠実なるものと思いがちであるけれども、大多数の告白にはむしろあべこべの意味があり、自責の苦痛を和げる手段である場合が多い。」(東京新聞掲載『文芸時評』坂口安吾 '46)
誠実に言おうとすればするほど言い訳になるから、自分さえも疑う虚構から現実を知ろうとした漱石や安吾にとって、拠るべきものとは一体何であったか?
「事実私どもは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。」(『私の個人主義』夏目漱石 '15)
「人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないという厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ない」(『咢堂小論』坂口安吾 '45)
そう書いた彼らは、生きながらに、すでに故人だったに違いない。なぜなら今、生きている世界の中にしか現実を見ない人にとって、もうすでに死んでしまった人のことや、ずっと昔のことをまるで今のことのように考える人は、故人みたいなものだろう。そういう人が背負っているものは、国家でも家庭でもなく、十字架だけであろう。そんな、人でなしにはイエスのように帰る家も必要なく、独り処刑台に向かう寂しい人生だろうが、それは決して苦しみではなく、何よりも確かな運命の重みを感じる喜びなのだろう。その先に羽衣の天女が住む桃源郷はある。2006年05月19日
限りなく透明なTRUE
先日、作家の村上龍氏が若いIT起業家と出ている番組を見た。かつて『限りなく透明に近いブルー』を書いた村上氏は、彼らに「限りなく明るい未来」を見ているらしい。
「若者を称賛した唯一の時代は、国家が大規模な愚行と狂気に走っていた時代であった。」(『タブーなき性は可能か』岸田秀 '76)
IT業界だけでなく、スポーツ界や芸能界も若者礼讃。ということは、かの戦争と同じ愚行と狂気に邁進しているらしい。どおりで人材も使い捨てだ。
「民主主義的自由は、死の衝動を薄める効果のある薬剤ではあるが、(中略)死の衝動を根絶したりする力は持たない。」(『天下泰平の思想』三島由紀夫 '63)
村上氏の小説のように、民主主義は個人を「限りなく透明に」するのならば、それが昨今の若者にはブルーでないどころか、トゥルーさえ見出すのは、最初から失う肉体が無いからではないか?
「禁忌が減衰するとき快楽の強度も減衰する。」(『戦後短篇小説再発見 2性の根源へ』解説 井口時男著)
いくら麻薬や乱交に走っても、そこに禁忌がないなら快楽の強度は減衰している。反対に、強度な禁忌を固守すると快楽中毒、しいては不感症に陥る。戦争という国家同士の虐殺中毒・不感症への反省から、仮想世界に快楽を求める自由社会を民主国家は拡げてきたが、その仮想世界に禁忌が減衰すると快楽も減衰し、再び現実世界に快楽を求めて、歴史は繰り返される。民主化の為の戦争では、本末転倒ではないか。
「資本主義社会とは、金マニアたちがつくっている社会である。」(『マニアについて』岸田秀 '78)
「私にとって、お金はしょせん、人間の約束事にすぎない。」(『金とはなにか』養老孟司 '89)
消費税を社会保障目的税化しようというのも金マニアの約束にはあっているが、それも「限りなく透明な」トゥルーにすぎない。そんな仮想世界にしか希望を見出せないのは、そこに中毒しすぎて、肉体が不感症だからではないか?「カネさえあれば何でもできる」と考えるのも仮想世界の自由の拡大、つまり禁忌の減衰であり、そんな希望にあふれた若いIT起業家を見ていると、民主主義的自由という薬剤で限りなく透明に薄められた生の衝動しか見出せない。それが現実世界の死の衝動となって、国家の大規模な愚行と狂気にならなければいいが。2006年05月15日
大島鳴動せず鼠百匹
「われわれは、裸の名づけようもない存在から、『市民』というレッテルを貼られ、レッテルにしばられてしまったのである。」(『ファルスの光線』中上健次 '76)
中上が「安吾的現象」といい「四十時間ほど飲みつづけ」たり「一ヶ月、ほとんど酒を飲んで過ごした」のを、レイン風に「市民という疎外状態を癒す自然の反応」と言うならば、彼が安吾に習って、疎外された者たちから学んだものとは何か?
「生きて、息をし、物を食い、排泄し、生殖し、死ぬという人間の単純な生存の方法(中略)以外のもの一切、人間の衰弱のもたらしたものだということである。」(『空翔けるアホウドリ』中上健次 '75)
「社会的に抑圧され疎外された者が、それゆえに、抑圧からも疎外からも自由に現存するという逆説である。逆説は、無頼を生む。」(『ファルスの光線』)
衰弱とは無縁な無頼者は、戦争は無論のこと、政治にも宗教にも芸術にも無縁だろう。なぜなら、それらは衰弱した人間集団、つまり社会の生存手段にすぎないから。ならば、現代の無頼者は一体、何に生存手段を見出すと中上は考えたのか?
「愛という言葉は限りなく飛び交うが、イーブの胸には響かない。イーブは愛を見失った性のサイボーグにすぎない。(中略)涙もまた架空の涙でしかない。」(『讃歌』中上健次 解説より 松山巌著 '90)
市民というレッテルをはがしても、金銭にしばられた生存手段しかない、そんな架空の肉体に中上は「サイボーグ」というレッテルを貼ったのではないか?サイボーグでない、人間の単純な生存に、架空でない愛も涙もあるはず。それはどこにあるか?
「結局、地獄はなくなったのではなかろうか。現代の地獄は地獄が存在しないことではあるまいか。現代の怖ろしい特質はここにあるのではなかろうか。」(『火山の休暇』三島由紀夫 '49)
人口爆発しているアフリカには、人間の単純な生存は現存していようが、同時に飢餓やエイズという地獄も存在している。一方で、観光リゾート地を突然、爆弾テロの地獄が襲う。いつ、どこで、誰に起こってもおかしくないが、その瞬間まで誰も怖れない。先日の中津川少女殺害にしても、福知山線(宝塚線)脱線事故にしても、サイボーグに天が与える地獄とは、突然の死らしい。地獄の存在と人間の単純な生存に、愛も涙もあるならば、地獄は買ってでも知るべきだろう。
「たしかに天下の大事を忘れる島らしい。」(『消え失せた沙漠』坂口安吾 '51)
伊豆大島には三原山という地獄が現存しているから、無頼者も天下の大事など忘れてアンコにタメトモ心を起こせる。外国人がタメトモ心を起こす火山列島ニッポンも、ここに地獄を見る人には、愛も涙もあるのだろう。しかし、そこに生まれながら、畏れなきサイボーグなら、「大山鳴動せず」突然の死は与えられるのだろう。そのとき「鼠一匹」の犠牲ならいいが。2006年04月28日
祈りと呪い
「母は私に子守歌を唄ってはくれなかったが、お祈りを口ずさむことは教えてくれた。五〇年近くたって父が死んでから、私は母にああいうことを何か一つでも信じていたのかと訊いてみた。『あれは全部嘘八百だったのよ、ロナルド』」(『わが半生』ロナルド・D・レイン)
お祈りをマジメに唱えていたのは子だけで、母はそれを嘘と知りながら教えていたということは、そこに夫にも言えない秘密があったのだろう。それは何か?
精神科医レインは著書の中で「狂気は内的時空への旅路であり、疎外状態を癒す自然の方法」とか「狂気はある種の突破なのだ、解放であり厚生なのだ、それは『死と再生』なのだ」といっている。
「狂気でありながら一方で正気を堅持し、明晰な分析力と鋭敏な洞察力とを失っていない分裂病者がいたとして、彼がおのれの分裂病を(中略)自分自身の観点から反省的内観によって把握し、体系化したとすれば、できあがったであろうような理論がすなわち、レインの理論」(『一人称の心理学』岸田秀 '73)
レインにとって狂気とは、幼い頃に母に教わったお祈りみたいなものではなかったか?ならば、それを最初から嘘だと知っていた母には、狂気も正気も「全部嘘八百」に見えたろう。
「レインも指摘しているように精神病の症状の多くは精神病者として扱われ、閉じ込められたことに対する反応なのである。」(『子どもとは何か』岸田秀 '82)
岸田氏によれば「子ども」という概念は、未開人や異常者とともに、近代の「正常者」が発見し、貼ったレッテルだという。ならば、昨今の学級崩壊やニート問題も「子ども」を閉じ込めた反応であろう。現代のあらゆる凶悪事件もレッテルがつくってる?
「現在のおとなでも子どもでもないような新しい人間が必要なのではなかろうか。」(『子どもとは何か』岸田秀)
「レインのような了解的把握は、まさに彼女(患者)の立場、彼女自身の観点に身をおいて彼女の主観的体験を直覚的に追体験することによってしか可能ではない。」(『一人称の心理学』岸田秀)
精神医学の客観的理論が精神科医の主観的理論でしかないとレインが見抜けたのも、彼が「非正常者」だったからではないか。「正常者」のいなかった近代以前には、こういう「新しい人間」が当たり前だったのだろう。ならば「新しい教育」は、レインがそうであったように、親にかまわれずに育つことが条件で、子守歌よりは、お祈りがいいようだ。そして、祈りに込められた母の秘密とは、自分らに「女」のレッテルを貼って家庭に閉じ込めた以上、「女」として扱えという、「正常者=夫」への呪いだったのではないか。嘘と知りつつ、お祈りを子に教えたのも、「女」という疎外状態を癒す自然な反応だったようだ。2006年04月22日
浪曼陀羅華
「彼女等の現実的な眼光は甚だ辛辣に扮装の下を射抜いてくるが、ある限度の深さへくると、この冷酷なまで現実的な眼光が俄に徹底的な浪曼主義者に豹変しがちなものである。」(『狼園』坂口安吾 S11)
「あるところまで客観的に見ていたのが、パッと主観的に切り替える癖が日本人にはありそうな気がしますね。」(『国家・宗教・日本人』司馬遼太郎、井上ひさし)
ときに、日本人の血液型は4割がA型で、3割がO型という。
「O型は(中略)苦しい状況でも落ちついている人が目だちます。しかし(中略)追いつめられると、(中略)収拾がつかない混乱状態になることがあるのです。(中略)A型はO型と、まさに反対です。日常は(中略)P(プレッシャー)がふえるにつれて、曲線の波立ちも大きくなりますが、それがL(限界点)を越えると、とたんに開き直るように、水のように冷静になり、落ちついてしまう人が目立ちます。」(『血液型と性格ハンドブック』能見正比古)
さすれば先の大戦は、特攻隊や一億玉砕のヤケクソにしても、大東亜共栄圏や万世一系というロマンにしても、国民の7割を占めるA型とO型の限界点が同時に振り切れてしまった末の混乱と浪曼だったらしい。そして、いまだに中韓から歴史認識を非難されるということは、いまだに開き直りグセが治ってないらしい。
ホンネを持つから、それが否定されると、開き直ったり、混乱したりする。ならば最初からホンネなど持たなければいいのだが、それは如何にして可能か?
「私はただ、私の魂が何物によっても満ち足りることがないことを確信したというのだろう。私はつまり、私の魂が満ち足ることを欲しない建前となっただけだ。」(『私は海をだきしめていたい』坂口安吾 S22)
ホンネを捨てないためにタテマエも持つ。さらにホンネもタテマエに過ぎないという境地まで達すると、それが争いなき理想郷、つまり曼陀羅の世界なのかもしれない。
「ことにインド、モンゴル、中国北部及び東北部、北朝鮮などは、B型が三○%から四○%以上に達するB型ゾーンです。(中略)遊牧民にB型が多いのも、定着性がうすい、つまり放浪性のBを思わせるものです。」(『血液型と性格ハンドブック』能見正比古)
国籍までタテマエの放浪性では、いくらDNA鑑定したって拉致問題が解決しないのも無理はない。AとOのホンネばかりも争いが絶えないが、Bのタテマエばかりもラチがあかない!?ということは、残るABが増える以外に曼陀羅世界も実現しそうにないらしい。と、こういうのも単なる浪曼にすぎないのだが。2006年04月16日
子供恐怖症
最近、子供と一緒になって遊ぶ親とか、通学路に立って不審者から子供を護る大人が多いという。
私事で恐縮だが、私などは腕白な子供や赤ん坊を見かけると、居心地が悪くなり、その場から逃げ出したくなる。いわば子供恐怖症。
「できないつもりの子供ができた戸惑いであろう。一生つづくものと覚悟はしているが、砂をかむような味である。」(『砂をかむ』坂口安吾 絶筆)
なぜ、子供に恐怖したり、砂をかむ思いになるか?
以前書いた文の中で、私は「軽蔑したり闘ったりしてるうちはまだ所有のうち」と書いたということは、私は自分の内に子供を所有しているらしい。砂をかむ味のしたという安吾もそうだった?
「『赤子』にはまだ『他』が含まれていない。『自』だけである。『他を入れた自』が自主的に働かなくてはならぬ。」(『老人と小児性』鈴木大拙)
「否定的態度というものが実はそれ自体強力な思想でありモラルであるのに比べて、肯定的態度というものは決して自ら思想を構成するものではない。」(『思想なき眼』坂口安吾)
アナーキストの全否定は、「他」を拒絶した、「自」へのご都合主義で、「否定には否定を」という思想。しかし、否定を受け入れた全肯定、つまり「他を入れた自」には「思想なき眼」があるばかり。谷崎潤一郎の言葉だったか、「子供っぽいといわれるのは癪だが、子供染みているならいい」という境地に、大人の小児性も備わるのではないか。
可愛がるとか、護るという行為は、すでに相手を見下している。そういう自覚無しに弱者を労るのも、自分より上を拒絶したアナーキズムではないか。ならば「可愛さ余って憎さが百倍」となるまで相手に同化することで、耐え難い現実も全肯定し得るのだろう。たった一ヶ月のスピード公判とか死刑制度などという、法のご都合主義は、大人の小児性が唯一、否定すべき現実だろう。2006年04月13日
ドートクはボートク
「現在、日の出の勢いにある創価学会にしても、もしこれが禁遏されていたら、おそるべき力を持つであろうが、信教の自由によって、その力はなだめられている。」(『天下泰平の思想』三島由紀夫 '63.9)
ならば、サリン事件は何故起こったか?それは信教の自由など形ばかりで、国家がオウムを禁圧したからではないのか。なぜ、宗教は禁じられるほどに力を持つか?
「『イノチガケ』前編で、安吾は、キリスト教がいかに到来し、いかに広がったかを政治的背景の中に示す。しかし、彼の筆致が違ってくるのは、後編、すなわち、一六一一年、キリシタンが完全に禁令されたのちである。(中略)アミダは潜入後十九年間潜伏後布教、一六三三年長崎で穴つるし。(中略)こうした記述が延々と続く。この無味乾燥な書き方は、逆に『遊ぶ子供に似た単調さ』で潜入・殉教がくりかえされる光景をヴィヴィッドに伝えている。」(『坂口安吾とフロイト』柄谷行人)
「マストリリはすでに日本潜入の観念に憑かれた精神病者ではなかったかと疑う事も出来るのである」(『イノチガケ』坂口安吾 S15.7)
キリストからみればムハンマドも「精神病者」だから、マンガの諷刺画くらいで争いにもなる。そんな世界からみれば、日本のサリン事件などテロというより、伝統的なセップクに見えたのでは?オウムも教団というより、科学戦隊の如き子供騙しの集団に見えたのでは?
「ちょっとしたインドの土俗的な考え方が、いま二十世紀も終わろうとしている日本の社会に入ってきただけで、すっかり動揺してしまう人が出てくる。それほど私たちの社会は、宗教という基本的なものに無知なんです。」(『国家・宗教・日本人』司馬遼太郎、井上ひさし)
「その成員に神経症者や精神病者が少ない集団ほど、集団そのものが神経症的、精神病的である。それは国家が戦争という大規模な人殺しをやっていると、国内の殺人事件が少なくなるのと同じような関係にある。」(『国家論』岸田秀)
全国民が精神病院に入るか、国家が世界を相手に発狂状態になるかしかないらしい。我が国も六十年前を機に、信教の自由も認めたのなら、あれが宗教なのか単なる違法集団なのか判断して強制捜査すべきだったはず。そもそも人はなぜ宗教を必要とするか?それ以前に何故、精神を病むか?それは孤独に堪えられぬからだとすれば、如何にして孤独に堪えうるか?
「それは自分がキチガイであること、痴呆症であることを、天下に示すという道であります。」(『不道徳教育講座』三島由紀夫 S33)
しかし、かくいう三島もそれが難しかったから、あのような最期になったのではないか。なぜ自分のキチガイを認めることは困難か?それはキチガイが道徳だからではないか?
「自我がこの人工的世界の中で一応の安定を得るためには、この世界は秩序ある世界でなければならず、自我はその秩序と調和した行動形式をもっているのでなければならない。この行動形式が道徳である。(中略)しかし、道徳は決して普遍的ではない。」(『必要悪としての道徳』岸田秀)
今、核保有国をみると宗教が個人を抑圧・煽動しているし、先進国も科学が欲望を解放しながら自然を破壊している。これではドートクでなく、暴徳ではないか。なぜ道徳は暴れるか?
「多分、春がこんなに人をいらいらさせるのは、この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いているからであろう。あの春先のまっ黄いろな突風に会うたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるように、顔をそむけずにはいられないのである。」(『春先の突風』三島由紀夫 '62.3)
「桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。」(『桜の森の満開の下』坂口安吾 S22)
「吉野山の桜はすべて墓標のかわりだったし。死と植物は深い関係があるんです。」(『深い河』遠藤周作 '93.6)
日本人一般が花見酒に酔うようになったのは、春先の突風のように、アイロニイを欠いた、まともすぎる、暴徳を守るからではないのか。
「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは『孤独』というものであったかも知れません。」(『桜の森の満開の下』坂口安吾)
孤独を怖れて人は酔わねばならぬのならば、それもひとつの精神病ではないか。如何にして孤独を友とするか?
「批評など相手にするのは愚ですよ。バカになることですよ。」(『戦後文章論』坂口安吾 '51.9)
「バカの一徳は可愛らしさにあるのに、秀才バカには可愛らしさというものがありません。」(『不道徳教育講座』三島由紀夫 S33)
三島が秀才バカ集団など相手にせず、バカになれたら…。やはりドートクは冒涜だ。2006年04月04日
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