2021年9月28日
いやいやまいった。この人、黒田匠さんの推論はまことに鋭い。何のことかって?JAL123便。黒田サンは別に著名人でもなく、近代史研究家という肩書きだが、かなりミリヲタとお見受けした。まずインシデントという言葉遣いが玄人っぽい。それに尾翼の三分の二が欠損してもダッチロールは起こらないという。たしかに最近のクルマの屋根にも走行安定のためにちっこい角がついてたりする。それと方向舵の油圧が効かなくなっても超重ステになりはするが操縦不能ではないとも。たしかにフライトレコーダーをみると後半は機体が安定している。そして当時の新聞記事に「マヌーバーが悪い」という管制とのやり取りがあるという。マヌーバーとは動き方の意味で、操縦可能だが動きが悪い程度だったことがわかる。だが、その文言がなぜかボイスレコーダーにはない。あとスコーク77を受けて出動した自衛隊機が基地に戻ってしまったのは、制空権が理由だという。横田、厚木といった米軍のエリアでは何をされても治外法権。それは帰還命令だろう。大月あたりで360度旋回した後、フライトレコーダーをみると完全に着陸態勢という。そこで黒田氏は横田に緊急着陸を試みたのではといい、相模湖、八王子から横田へのルートを示す。相模湖上空を飛んでた目撃証言もあるという。事故調ルートでは横田とはだいぶ離れて山の方へ北上している、まるで横田に向かったことを隠すかのように。でもボイスレコーダーには横田から「いつでも緊急着陸OK」とちゃんと入ってる。でもなぜか横田着陸を断念。「これはダメかもわからんね」とか「山行くぞ」と言ってる。ここが不可解だが、黒田氏は横田基地で着陸妨害があったのではという。えー!そんなのコクピットから見えるの?で、墜落の原因は追尾してた米軍機2機によるものではないかという。先述のように事故機は操縦可能な状態であり、長野県の傾斜地に不時着を試みていたという。その長野県側の上空を低空飛行する事故機とそれを追尾する「飛行機が追いかけっこしてる」という目撃証言もあった。墜落の直前、突然、右エンジンが停止とフライトレコーダーに記録されてる。しかしそんなことがあるか。その直前まで正常に動いていたのに。止まったのではなく、撃ち落とされたのだと黒田氏はいう。そのエンジンを回収、そして目撃者、つまり生存者を殺害したとして、そんなにまでして隠したいこととは?インシデントが米軍機によるものだからと。相模湾上空は民間機がたくさん飛び交っていて綿密な管制システムがあるが、その中で唯一、自由に飛行できるのは米軍機のみ。しかもレーダーに引っかからないのはステルス機のみ。米軍ステルス機が誤ってか、故意にか、事故機をかすめて尾翼を破壊、それを隠すために羽田や横田への着陸や長野の傾斜地への不時着を阻止し、最後は墜落させた。で、なぜか、その証拠品隠滅は米軍ではなく自衛隊がやったらしい。それって日米同盟?米軍と自衛隊の中にも機密を知ってる組と知らない組があったような感じ。それほどステルス機のことは国家最高機密らしい。520名の命よりも。国家ってのは恐ろしいね。でももっと上には恐ろしい組織があって、お注射で世界人口を削減というムーンショット(毎月打つ?)計画がただいま進行中だとか。それに異を唱えた大統領はことごとく暗殺。だから、たいていの指導者は命に従うよね、命が惜しいから。もし命すら惜しまない人物がいたら、それが彼らには脅威かもね。「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」(『南洲翁遺訓』西郷隆盛)今時、西郷ドンのような人物がいたら、わざと負け戦するような我々が理解に苦しむような孤独な闘いをしていることだろう。
2021年10月2日
坂口安吾も一度だけ就職活動をしたことがある。彼は誰にも秘密で、神田のカフェーの支配人募集にでかけていった。その理由が「誰の目にも一番くだらなさそうな職業だから」とか「虫歯が痛くても、痛くない顔付ができるという自負があったから」という。しかし店主はそんなことより、「どうしたら店が繁盛するか」と問うたという。
「私は全然ダメだった。私は私とこの職業を結びつける雰囲気的な抱負にだけ固執して、一晩まんじりともせず、私自身を納得させる虫歯の哲理に溺れていた。店を繁盛させる秘訣に就ては考えていなかったのだ。私は手ぬかりに気づいた。」(『暗い青春』坂口安吾)
そんな安吾の軽率を咎めることもなく、店主は本当はホテル経営を目指しており、「観光事業に趣味はあるか」と問うたという。店主の「水の如く無感情」な態度によって、安吾は自身の独り相撲を自覚し、以来、彼の幻影に圧倒されたという。
「青春は絶望する。なぜなら大きな希望がある。」
安吾が単なる落伍者でなかったのは、こういう言葉に集約されていて、過去を冷徹に突き放す「水の如く無感情」な態度が、彼に堕落論を書かせ、戦後混乱期の寵児に押し上げたといえよう。
私事になるが、私も一度だけ就職活動なるものをしたことがあり、安吾同様、手ぬかりだらけで、関係各位に迷惑をかけた。その筆記試験というのがカルトクイズのような妙な雑学で、おそらく10点くらいしか採れなかったのではないか。いわゆるマスコミは雑学の専門家の集まりで、その知識と教養とは自らが作り上げてきた世界でもある。近年、「マスゴミ」なる造語が蔓延るのは、世界が拡大して、マスコミが片隅に追いやられたからではなかろうか。
「現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である。」(『無私の精神』小林秀雄)
小林にいわせれば、科学とは「考える人々を神への信仰に導く諸原理」(『考えるヒント』)にすぎない。一方、実行家というのは議論するより行動して、事の成り行きを冷静に観察する。この点では科学も同様だが、その世界が著しく限定され、条件が複雑なだけだ。世界を限定せず、ありのままに観察し、的確な言葉で表現する批評家は、では一体、いつ実行するのか?
「認識至上主義はニュートラルである。また、超道徳的であって無倫理である。しかし、ニュートラルでありえ、無倫理でありえているのは、行動に自己を投入しない以上当然のことであり、行動はいやでも中立性の放棄と倫理的決断を要求する。それがいやだから行動しないという心理は(中略)オートマチックに働いて(中略)そこには認識と行動の乖離がはじめから予定されている。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫)
行動しないことには認識できないが、行動する以上はニュートラルではいられない、というのは、逆説すれば、神というものは存在しないからニュートラルでありうるともいえる。
「批評家の知恵は、科学者のものより、はるかに実行家の、或いは生活人の知恵に近い。(中略)そういう人々は、ジャーナリズムとは無関係に存している事は、確実のように思われる。」(『無私の精神』小林秀雄)
マスコミは批評家にとっては昔からマスゴミだったらしい。その自覚の上で、話の屑籠を書くという謙虚な作家が、文芸春秋をつくったのではなかったか。それを忘れて、自らの作り上げた戯画に浸り、それにどれだけ通じているかを問う試験に、私は落ちたわけだ。ゴミにならずに済んだわけだ。
「死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であって、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であって、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがって、人は死を恐れるという気持のうちに死を恐れないという真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫)
西郷隆盛がいった内容だという。たしかに西南の役での死に方はまさに犬死で、これぞ彼の「生前の本性」に従った結果といえなくもない。では、如何にして、その「生前の本性」に辿り着くか、というのは、生き方の問題である。
「同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考えているところからは、決して行動のエネルギーは湧いてこない。同一化とは、自分の空虚を巨人の空虚と同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもっと巨大なニヒリズムと同一化することである。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫)
オレ様も、ここに列挙してる文人たちに、もしかしたら及ぶかもしれぬ、という驕りに駆られて、こんな駄文を書いている、という心が大事らしい。マスコミの世界を「表」とすると、それと反する内容は「裏」ということになる。こういう言説を「デマ」とか「陰謀論」と表の世界では糾弾する。例えば、コロナウィルスと呼ばれるものの塩基配列の末尾はAが30ほど連続し、これは垓分の一という確率でしか起きえないとか、PCR検査を発明したキャリーマリスはこの検査方法はどんな微小な遺伝子も増幅してしまうので、何でも病気になってしまうと語っているとか、ワクチンは食品と同じように腐りやすいので水銀やアルミニウムといった防腐剤が必ず添加されているとか。こういうのはマスコミでは決して流れない。少し前はマスコミとネットが表と裏のように見えたが、コロナ禍になって実はネットにも表があることに大衆は気づいてきた。言論統制の厳しいYouTubeでは「567」とか「竹輪」とか隠語だらけで、漫才かと笑えるほど。こうなると表も裏もない。何が正しいかはわからないから、自分は信じたいものを信じるということになる。
「我々は歴史を知らぬかも知れぬが、同様に現代だって知らない。家庭とか勤め先とか、知っているのは生活の場だけで、あとは読んだり聞いたりするだけ、歴史も現代もない。」(『文芸批評』坂口安吾)
あんなに元気だった人が急に体調を崩してあっという間に亡くなった、ということが生活の場で起きたら、それが知っていることであり、現代について考える材料となる。厚労省の人口動態速報も9月分まで出たが、やはり壮絶な超過死亡数となっている。春以降、この世界で一体、何が起こっているのか。マスコミがゴミでないなら是非語ってほしいものだ。
2021年11月27日
次の頁へ
| | |