2007年4月6日
現職都知事の僕がこの度、三期当選したのも必然ではない。実は秘かに期するところはあつたのだけれど、一部メディアの執拗なバッシングにあつてもはやこれまでかと思つていた。が幸い当選確実と知らされそれこそ大いなる希望をもつてその時を待つていたのだ。当選の感想と改まつても誰でも一通りのことは言うだろうが、芥川賞受賞のあの時と同じく、夢はこれからだと言うことを僕自身が誰よりも感じる。と同時にこれからが難関と言う所だ。これから先のルートで、墜落して引つかかつたまゝの先人たちの屍にも行き当るだろう…屍といえば、知人に死にそうなのが一人いる。胃をこわして全然食慾がない。「もう、いいよ」と飯は払いのけるくせに「ビール、ちょうだい」などという。無駄なものほど欲望をそそる。いいではないか。ビール飲んで血吐いて死んだつて、それが病死なのか、自殺なのかなど誰にいえるものか?酒とタバコを愛し、野菜は一切食わずビフテキが主食だつた弟が肝臓ガンで若死したのも、あれは自殺みたいなものだ。あの三島由紀夫の自決だつてあれがノイローゼによる病死でないと誰にいえるか?ただ一つ、彼らは自ら欲望に殉じたのだ。僕が総指揮して制作した特攻隊の映画がもうすぐ公開だが、特攻隊ほど仕組まれた死はないが、あれほど犬死にもない。だからすべての死に必然などない。生もそうだ。これがなければ生きられぬなどというものはない。しいて言えば、最期は情熱だけ。二千年以上前から仏教はこう教えているではないか。すなわち、欲望は抑えるでもなく、無視するでもなく、見極めて、そして捨てよ、と。その見極めるときに情熱が燃やされるのであつて、僕も太陽の季節にはギラギラ燃えていた。それは無駄なものを求めれば求めるほど燃え上がるのだから、生きること自体が大いなる無駄なんだろう。そこに大いなる希望があるのだ。僕がオリンピックにこだわるのもそういう理由なのだ。あしからず。
2007年4月9日
わたしは瑠璃教の信者です。何それ?とおっしゃる方には、かのメジャーリーガー松井秀喜選手のお祖母様が初代教祖で、現在はお父様が二代目を継いでおられる教会といえばよいでしょうか。ですから松井様はジャイアンツ時代から天災やテロへの義援金を一度に数千万も出されたり、ベトナムの孤児の里親になられたり、いじめが社会問題になれば子供たちにあたたかいメッセージを送られたり、そういう姿勢が小学校の道徳教育の読本に取り上げられたり…すべてお祖母様のご意志を継がれていらっしゃるのです。そんな立派な松井様がどういうわけで最近、お怪我が多いのでしょう?昨年はスライドキャッチの際に左手首を骨折され、今シーズン始まってわずか4試合目の先日は左足太腿の肉離れ。連続試合出場記録を打ち立てた「不動心」に何か異変でも起きているのでしょうか?それより気になりますのは、なぜ松井様のような立派な男性が奥様をお貰いにならないかです。そんな戒律があるわけではありますまい。風説によりますと、何人かの女性と交際もあったそうですが、すべて破局に終わったといいます。よほど今のお若い女性は理想が高いのでしょうか?それとも反対に松井様の方がそうなのでしょうか?これもよからぬ噂ですが、松井様は何百本ものアダルトビデオを所有しておられると聞きました。主人にいわせますと、ああいう誇張されたものを見過ぎると現実が味気なくなるそうです。こんな器量の悪いわたしに五人も子供が恵まれましたのも、主人の目が悪かったおかげかもしれません。そうしますと、松井様が妻帯なさらないのも、目が良すぎるせいかもしれません。準備に余念がないのが、かえって不測の事態に陥るのかもしれません…お怪我の方も。
2007年4月10日
アタシの本名は大月富士子。六十後半になって「奇跡のピアニスト」として再発見されたけど、ずいぶん長いこと、どこの国の名簿にもアタシの名前は載ってなかったのよ。ベルリンに留学した時は赤十字の避難民としてだったわ。最近、代理出産の子に国籍を認めるかどうかで裁判沙汰になってるけど、そういう子も難民みたいなもんね。アタシにいわせりゃ、そんなのどっちだっていいのよ。だって日本人はみんなハーフだもの。モンゴル系、中華系、朝鮮系、南方アジア系…最近は欧米系が増えてるけど、長い目で見れば誰だって「何系」なのよ。それを単一民族とか万世一系っていったのは戦争のせいよ。スウェーデン人の父もそれで追い出されたんだし。芸術の世界にも、恋愛の世界にも国籍なんていらないわ。むしろ邪魔よ。アタシのラ・カンパネラを聞いて「譜面に正確じゃない」っていう人もいるけど、ブッ壊れそうな鐘があったっていいじゃない。キカイじゃあるまいし。国籍だってそうよ。純血だの血統にこだわってるうちにきっとブッ壊れるわ。アタシんちには猫がいっぱいいるけど、猫だって雑種のほうが丈夫なのよ。人間だってそうだし、芸術だってそうよ。いろんな文化を吸収してる芸術がアタシは好き。リストはこう弾くもんだ、なんて決めてかかってる人なんかからはそれ以外何も出てこないもの。だけど数奇な軌跡のお陰でこうして奇跡が起こったとしたら、きっと代理出産の難民にも奇跡が起こるわよ。
2007年4月12日
わたしは『えぐら開運堂』で江原さんを有名にした、いわばスピリチュアルブームの仕掛け人。『オーラの泉』が今度、ゴールデンタイムに昇格するが、真のシャーマニズムとは世を捨てることから備わるといいたい。タロットとか風水とか、いろんな占いの道具があるが、世にコトバほど魔力はない。なぜなら人々を縛り付けているのも、そのコトバだからだ。占いなんか信じるのは週刊誌ばかり見てる女だ、というのも当然。女性は男性のように社会的地位とか、経済的安定にアグラをかくことができないからだ。仕方なく家庭に逃げ込むが、家庭ほど世に排斥された牢屋もない。その囚人となった主婦は、世に捨てられているから、世をまともに見られるのだ。わたしはそういう人たちに希望を抱いてブームに火をつけた。シャーマニズムこそナショナリズムに対抗する手段だから。国家が美化されるとどうなるか?核戦争の末に人類はクジラみたいな水棲生物になるしかないと昔、ある作家が空想した。それはあまりに馬鹿げてると思いきや、近頃の劇場政治や捏造報道を見ていると満更でもない。そもそも誰も国家の存在理由を問わない。「核はいらない」という前に「国家はいらない」と誰も言えない。言えないはずだ、ジャーナリズムも同じ権力構造の一部だから。上の人間ほどそれに気づいてないことが同じ業界人として情けない。そんなナショナリズムの暗躍に対しては、教育という手段もある。むろん自己を凝視するという意味での教育だ。が、教育基本法まで国家の手に染められた今となっては、シャーマンにご登場を乞うしかない。それか、やや望みはうすいが、英語教育の必須化に期待するしかない。
2007年4月12日
あたしは日本で芸能活動していた韓国のタレント。去年、韓国の実業家と結婚して、8年ぶりに韓国ドラマに復帰する。その記者会見での発言が日本で批判されてるらしい。あたしが日本にいた時、つねに感じてた違和感を素直に語っただけなのに。その違和感というのは、歴史に対する認識。日本が今のような経済大国になれたのは一体、誰のお陰だと思ってるの?自力でそこまで伸し上がったとでもいうつもり?朝鮮戦争がなかったら日本の経済成長はだいぶ遅れたか、あるいはなかったかもしれないのに。あの戦争で犠牲になった人たちのお陰でドン底から這い上がれたのよ。アメリカもずるいわ。人の喧嘩に火と油を注いで、自分らは遠く離れて物見遊山。いつもそうよ。それで景気を保ってきた。日本もそのオコボレで育ったようなもんよ。その繁栄のツケが回って、今、北朝鮮の核や拉致の問題に悩まされてるんだから自業自得よね。だけど、あたしが出会った日本の人たちはそういう事をいっさい知ろうともしてなかった。今、ある繁栄が当たり前で、これからもずっとあると思ってるみたい。それがどんな犠牲の上にあるかって全然考えもしない。平和と安全も湯水の如くあると信じてる。ずっとそうやってお金儲けだけ考えてやってきたから、イラクのときも親分にいわれるままに兵隊出したり、北朝鮮のことも一方的に悪だ!悪だ!っていう。まるで「お手!」って言えば、お手する犬じゃない。日本にいたとき「韓国人は貧しい」とか「すぐ熱狂する」とバカにされた。無力で、そのくせ貪欲な日本犬からすれば、そうみえるでしょうね。いいわ。そうやって遊山してれば。きっといまにもっとおっきなツケが回ってくるから。そのとき泣きついたって知らない。こっちには兵役があるんだから。「戦争でもやる?」っていってやろうかな。「御主人様に泣きつけばア?」って。
2007年4月13日
出産は快感!母にとっても、子にとっても。あたしはお母さんのお腹から出てきた時のことをかすかに覚えてる。暗い産道を通り抜ける、あの死にそうな絶頂感をもう一度!あたしはそう願って代理出産を引き受けるボランティアに応募した。そんなに産みたきゃ自分の子を産めばいいんだけど、いろんな事情があってあたしには無理。だけど親とか友だちの話とか聞いて、あたしも一生に一度は産んでみたい!って思うようになった。「生みの苦しみ」って恐い気もするけど♪人生ラクありゃ苦もあるサ…ってゆうから生みの楽しみもあるんじゃないかって。代理出産なら人の役に立てて、尚かつ、育てられない人にも出産が経験できる。それって倫理に反するって意見も強い。あたしが応募したクリニックの先生も厳重注意処分だってゆうし。だけどさ、避妊とか堕胎とか帝王切開だってあれが自然か?っつったら疑問だしさ、体外受精なんかなおさらだし、科学の進歩はもう止められないんじゃない?できることをできないことにするって方が不自然だよ。例えばフグ料理ってさ、最初に危険おかした人の勇気のお陰でみんなおいしく食べられるわけじゃん?毒にあたって死んじゃった人の犠牲があってあたしらは毒にあたらずに済むわけでしょ?代理出産も同じだよ。つねに利益とリスクはあるよ。それが倫理に反するかどうかはさ、時のみぞ知るんじゃない?「しちゃダメ!」ばっかりじゃ何も生まれないよ。とにかく前進あるのみ、生まれた時とおんなじに。
2007年4月15日
私は今朝の朝日新聞の『異見新言』に時評を書いた社会学者。ここは匿名なので後先を計算せず気ままに書かせてもらう。新聞でも書いたように、近頃の書評関係者ときたら「あの本のこと、悪くいうとネットで叩かれる」だとさ。ざけんじゃないよ。本来、言論とは悪口を言い合うことじゃないか。それがお互いに守り合って、尊重し合うばかりだから、つまらなくなって、格闘技とかスポーツ、しいては軍事の方へ世論がソッポ向いてしまうのだ。匿名のネット世論だっていいではないか、激論し合えば。いわば、燃料みたいなもんだよ。気にしないで、どんどん戦えばいいんだ。お互いに攻撃し合えば。君らの戦闘がつまんないから、ホントの戦闘がみたくなるのだ。それは君らが近眼になって、自分しか見えてないからいけない。世論はおろか肝心の敵が見えてない。言論は何の為にあると思っているのか?答えとか真理を求める為に我々は書くんじゃない。己の敵をみつけ、その敵を愛すが為に書くのだ。その愛し方に個性が生じ、愛の結果として真理が生まれるのだ。君らのやり方はオナニーにすぎない。それでは何も生まれない。君らが文士なら平和の為に戦え。言葉を武器にして。今は安土・桃山の戦国時代なのだ。そこには信長や秀吉もいれば、無名の足軽鉄砲隊もいる。それらが入り乱れて戦闘を繰り広げているのが現代の言論と政治の状況なのだ。好き嫌いだの善し悪しなど通用しない。敵を欺いてもやっつける実力だけがモノを言う。この戦乱の末に何が生まれるか?私が一番関心あるのはそこだ。伏見城や聚楽第のような絢爛たる桃山文化が如何様に現代に生ずるか、私はそれが見たくて諸君を挑発するのだ。
2007年4月15日
私は北の国を舞台に二十年間シリーズドラマを制作した。それと並行して脚本家と役者の養成塾も運営してきた。ドラマは五年前に完結し、今年で17期を迎える塾の方も三年後には閉鎖することが決まっている。先日、向田邦子賞の授与式に招待され、昨今のテレビドラマを巡る状況の厳しさをいっそう痛感した。端的にいって、作る人間が腐っている。サラリーマン化している。ドラマもマンガ化している。業界自体が巨大工場化して、作品の内容よりも数字でしか品質管理できなくなっている。視聴率で一体、何がはかれるか。捏造事件が相次ぐのも分業体制の弊害だ。並みの仕事しか求められていないから逸材も腐ってしまう。役者も使い捨ての製品と化してしまう。私の塾生を見ていても、せっかく地元の人々と接する機会を与えられているのに、無駄なことはいっさいやりたがらない。資格の勉強じゃあるまいし、たった二年で一人前になれるとでも思っているのか?それが塾閉鎖の理由だ。しかし、それは芸能に限らず、音楽、スポーツ、文芸でもそうらしい。遠回りしても腰をすえてドッシリという職人魂より、さっさと儲かる方へくら替えしてしまうのが一般的のようだ。時代そのものが刹那的で博打的になっている。マンガ的というよりヤクザ的になっている。芸人にはカタギがなくては浮かぶ瀬がないというのに。どうも、こういう状況は私が子供の頃、日本が戦争中だった時代に似ている。軍部の代わりにカネで人を飼いならす軍団がトップに居座っているから高校球児までカネで汚れる。これでは、芸道地に堕つ。地に墜ちて亡くなった向田さんのようにならなければいいが。
2007年4月16日
私は黒ぶちメガネのリカちゃん。精神科医という立場から時代の空気を読むのが仕事。最近、気になってるのは「エビちゃん女」。ゆでたエビは殻をむいた中のやわらかい肉が美味しいのは誰でも知ってる。蛯原さんのあのキュートなルックスは実はエビの殻だとしたら、しかして、それをむいた中の肉は極上なのか?世のエビちゃん女を観ていると、一見「すべてが欲しい!」というエゴイストのようだが、「すべてを捨てても!」という極道者ではなく、いつか玉の輿に乗れればいいなー程度のしたたかさのようだ。そのエゴの中心には核があるようで殻をむけば中は空洞だから、ある所までは極めるけど、そこから先は諦めてしまう。はじめから中心がハッキリしてる「マザコン女」とは正反対のようで実は紙一重。母を信仰しているか、抑圧しているかの違い。だからエビ女はあるレベルに達するとエゴを捨てて、急にマザコンに変身する可能性がある。エビちゃんが男性より女性にモテモテで、スキャンダルもあまり聞かないというのも、殻をむいた中の肉は男に捧げられたものではないからではないか?その殻もキティやリカちゃんみたいなキャラだから「笑顔がいつも同じ」といわれてしまうのだろう…かくいう私も、表情に乏しいって言われるってことはエビちゃん女なのかも…それで最近、気になるのか。結婚したくないのも他の家の子になりたくないからだし。
2007年4月18日
お昼のニュースでお馴染みのNHKアナウンサーのトサカです。世の中は事件に絶えぬものですね、こんな私にも「同盟サイト」ができているなんて!一体、どんな方々が同盟なんでしょう?とのぞいてみますと、中には韓国人の学生さんや若い奥様方もいらっしゃるようで、「今日の麿様(私の愛称だそうです)のブルーのネクタイが素敵だった」とか「クールな麻呂さまが少しでも微笑むと素敵」などなど「平凡な毎日の楽しみ」としてヨン様の如く愛して下すってるようで、有り難き幸せです。ニュースの顔ですから、ほとんど無表情にしゃべるだけが仕事ですし、女子アナのようにプライベートまで覗かれることもない地味な私ですが、それがかえって神秘に映るのかも知れません。それでもテレビは恐いものです。ちょっとした事を針小棒大に受け止める方が多い。例えば「背景によって顔色が悪く見える」「最近、頬がこけた」「健康がよくないのでは?」「多忙でお疲れなのでは?」とか。自分でも気になったのは白髪のコメント。「白髪以前の姿は平凡であどけない顔だった」「懐しくなって、以前の録画を見てみた。2ヶ月ちょっと前の、年明けの頃…」とか。今年の六月で36歳になる私は確かに童顔といわれます。けれど子供のまま老けることはできないようです。今年に入って急に増えてきた白髪は、病気のせいでもなく、単に加齢の現れなのでしょう。それが体臭にでる人もいるようですが私は白髪にでているのでしょう。「お昼の顔」としては、もっと若々しい人がいいという意見もあるかもしれませんが、ニュースはワイドショーとは違って、事実を誇張なくお伝えしなければなりません。先日も、長崎市長が撃たれた事件や、バージニアで学生が多数銃殺された事件がありました。そういう時代をありのままにお伝えするには、カツラや染髪は相応しくないと考えます。番組を捏造する前に、自分を捏造するわけですから。それに私の名字もそんな上り坂な時代に合ってると思いますし。最後に、ひとつ。同盟サイトに入れる資格は、私の事を「好きであること」で、活動内容は「好きでいること」だそうです。全く有り難いことですが、私の祖父は熱烈なアンチ巨人ファンでしたから、私にもアンチファンができたらとも思います。
2007年4月19日
私は『沖縄ノート』で被告人になっているノーベル賞作家です。日本語の使い方として主語を省略することが、責任の所在をあいまいにすることを最近、痛感します。その一方で、昨今の痛ましい事件を見ていますと、「私」という自意識の弊害も感じます。先のバージニアの銃乱射事件の犯人は声明の中で「自分が恵まれないのは裕福な人々のせいだ」といっていたそうですが、われわれはもともと平等ではありません。物質的に平等にしたとしても、人間の欲望はみな同じとは限りません。一夫一婦制がちょうどという人もいれば、離婚を増やすよりは一夫多妻制を認めた方がいいという人がいてもおかしくないのです。生物の世界でも繁殖力は種によっても環境によってもまちまちです。それでも水と太陽と土の恵みは平等です。人間の世界はどうでしょう?自然の摂理を抑圧しながら、恵みを人工的に供給して平和を維持していますが、その供給バランスが崩れると、日当たりの悪い、栄養のない、荒廃した人々が反乱を起こしたりします。植物なら自滅するだけですが、人間には抵抗する手段が二つあります。一つは言葉で、もう一つは暴力です。本来、言葉で解決するのが民主主義のはずですが、銃を「平等の利器」という国が民主主義の覇権国家であるのが現状です。私は小林秀雄の想像力こそ今、求められていると思うのです。それは極限状態にある人間の心に同一化しようとする想像力です。それを身につけてこそ、真に自由な人間なのではないでしょうか。その為に提案したいのです。もう「私」という代名詞は捨てるのです。その代わり「われわれ」を使うべきです。そして「私」を使うなら、いろんな「私」になってみるべきです。オレ、あたい、おいら、僕…ノーベル平和賞をあげたいくらい、日本語にはいろんな「I」の表現があります。愛と同じで一つに限定するよりはその方が無限に楽しいはずです。
2007年4月19日
自分が長崎市長を撃った犯行動機は報道ステーションに宛てた内容の通りだが、それは表向きの偽装工作にすぎない。では、何が本当の動機か?と問われれば…沈黙するしかない。しいていえば、言論の自由に対する力づくの抵抗とでもいっておこう。なぜ抵抗せねばならぬか?われわれの道徳を守るためだ。ニーチェもいっているように道徳というものは劣等者、弱者が生むものだ。「誰もが強者になれる」という競争原理で成り立つ自由主義の世では、道徳が蔑ろにされる。われらが武士の支配した時代には武力が道徳を生み出していた。なぜなら、そこでは明白に強者と弱者が生じていたからだ。武士の道に反する行動をとった者は死をもって責任をとった。行動がすべての問答無用であった。頭を下げて辞職すれば責任をとれ、死刑はあっても滅多に執行されぬ現代のような状況で、どうやってわれわれは責任ある行動をとり得るのか?命をかけた行動をとれるのか?言論で腹斬りができるとでもいうのか?言論に自由を与えたところで責任が曖昧になるだけではないか。自分が撃った市町も「平和!非暴力!非核!」と主張していたが、そういえるようになったのも、アメリカが原爆で戦争を終わらせてくれたからに他ならない。あそこで負けていなければさらにどれだけ多くの犠牲者が内外で出ていたか?過去の侵略戦争と現在の平和は無関係だというのか?それと同様に他国の戦乱と自国の平和も無関係というのだろう。北朝鮮のように核武装せねばならぬテロ国家が生じるのは、国際社会と称する強者によって弱者が追い詰められ、武力に頼らざるを得ないからではないか。自由の国、アメリカで銃の規制が何の効力もないのも、その自由のせいではないか。われわれが自由を捨てない限り、武力を捨てることはできない。そして、言論の自由が認められるなら、われわれは武力の自由を認めさせるだけだ。たとえ自分が死刑であっても、自分は道徳を守るために行動し、その責任に殉じるのだ。
2007年4月21日
ダウンタウンでボケ役やっとるもんや。近頃のテレビときたら寒い、寒い。ホンマにおもろいことはもうテレビではやれんな。何でテレビが寒いかっちゅーたら、テロップだらけやん。ガキの番組やあらへんで。あれじゃ芸にならんわ。政治も説明責任!だ何やってアホやな。上のもんがそうやから、下のもんが黙るんやろ。今回の統一選も、ほとんど現職当選やないか。変えたってなんも変わらんっちゅーことやないか。そのうち無党派も無言派になるんやないか?ほんなら、わしが出たらええやん、て?九九もできへんわしやで?…けど、その方がええかもしらんな。沈黙は金ちゅーからな。わしが黙っとれば、周りのやつが動くやろ。近々公開の『大日本人』ちゅー映画撮ったときもそうやったな。変にあれこれいわん方が人間は考えるもんなんや。まあ、それが危ない方向に突っ走るとサリン事件みたいになるんやろうけど。映画もある意味、宗教やな。監督っちゅう教祖になるんやから。わしは政治家より教祖向きやな。坊主頭も似合っとるやろ?いっそスーツやめよかな?なんがええかな?けど、教祖になんのも映画の中やったらええけど、現実やったらヤバいな。表に出せんような儀式やりかねんわ。手足しばって、口も針で縫いつけとかなあかんな。赤ん坊みたいに。そういや、赤ん坊ほど無言派もないンやん?ちゅーことは、やつらは全部、知っとるんやろ。わしらよりおもろいことも、わしらのアホさも。
2007年4月23日
陣内紀香です。旧姓じゃないとわからないかな?名前が変わるのも心機一転でいいものです。世界もそう簡単に一転したらいいのにね。「人生、いつ終わるかわからない。やり残して後悔しながら死ぬよりは自分の夢に向かって生きて行こう」阪神淡路大震災で親戚や知人を亡くしてから、そう決心した。日韓親善大使を引き受けたり、アフガニスタンや東チモールでの人道支援活動もそんな「夢」の一環だったのです。ひとりひとりにできること、それは想像力をもって行動すること。覚悟を決めて自分に素直になれば夢は必ずかなう。あなたの悩みや病気も、ダイエットすら実現できちゃうはず。「ノリカって不満とか絶対言わないよね」友だちによくいわれた。昔、アムロさんが歌ってた。「夢は見るもんじゃない、語るもんじゃない、かなえるもの」って。不満も同じだと思う。人に言ったってしょうがない。夢みたいに持っていればいい。例えば『ルパン三世』に出てくる峰富士子の美貌も、ルパンの大泥棒も、その豪快さを支えてるのは、そういう不満力だと思う。つねに満たされることのない貪欲な想像力があれば、善人顔なんてしてられないし、悩んだり病気してるヒマもないはず。それに、まっすぐな夢があれば癒しなんかもいらない。お笑いタレントだからって旦那のこと一部では癒し系といってるようですが、彼は怪盗ルパンですから。甘い言葉にだまされてはいけません。
2007年4月23日
昨日は息子の十五回目の命日だった。息子と妻を亡くしてからは独りで暮らしている。今も息子は作品の中に生きていると信じている。今では彼が私の教祖だ。さっきYouTubeで在りし日の息子の姿を見た。『つくられた教祖』という番組だ。その中で過去の私はこう語っている。「利己的な自由と利他的な愛をひとつにするなんて、みそとくそを一緒にするようなもんだ」と。デビューした頃の息子はその至難の業を成し遂げていたから十代の教祖になったのだろう。そして「利他的な自由と利己的な愛」によって自滅していった。みそとくそを切り離す事ができずに。「彼は社会的には敗者って言われているけど、じゃあ、他の人たちは勝者ですか?何に勝ったんですか?」息子の葬儀に参列した二十歳くらいのお嬢さんがそう語っていた。この方も今はお子さんを持つ母親になっているだろうか。まだ息子の命日を覚えていてくれてるだろうか?いや、忘れてくれていいのだ。それが負けない生き方だ。だが、この世に勝者などいるものか。もしいるとすれば、自由の罪も、愛の凶暴も知らない人だ。そんな空疎な人生が果たして生きたといえるのだろうか?自分自身に誠実に生き、偉大な敗者として人生を終えた息子が若者の教祖になったのも、そんな勝者ぶった大人ばかりだったからではないか?かく云う私がそうだった。息子にも私のような自衛官になってほしかった。さもなくば公認会計士に。彼が作品に込めた気持ちなど理解せずに。その作品が今となっては老いぼれた私の経典になっている。仏壇に供える度に、彼の詩を朗読している。やはりこれは自由と愛の経典だ。しかし、そんな教祖も生きていた時は、駄々っ子以外の何者でもなかった。くそもみそも一緒であった豊が何よりも私の支えだ。
2007年4月26日
私は今夕の読売に『敵なき時代の「尾崎豊」』というコラムを書いた。発端は朝日の電子版「没後15年 尾崎はどこへ 消えた反抗心」という記事だった。今の若者には反抗精神がないのがダメだという。それに反抗したくて書いた。今の若者にはそもそも「当たって砕けろ!」とぶつかっていけるものがない。仕方がなく、耽ることで老けることに抵抗している。萌えることで燃えようとしている。あたかも過密ダイヤに縛られた運転手のように、厳密な経済社会を維持することに終止している。すべてがまるで画面のように有限な中にしか希望もないから、少しでも枠からはみ出すことに異常な恐怖を抱き、大人は子供を生むのをためらい、子供はいじめを苦に自殺する。なぜ、何もかも有限なのか?時代が閉塞しているのか?それは、経済発展のメカニズムが過去を断絶せざるを得ないからだ。歴史は繰り返し、時間は巡るものという感覚を失っているから、流されまいと抵抗するしかない。二十代で整形したりサバを読む若者も多く、彼らは精神においてはすでに老人なのだ。その意味では朝日の記事のいうとおり、若者はダメかもしれない。敵なき時代なら、敵は自らつくるしかない。それには己の過去を顧みることだ。なぜなら誰にとっても最大の敵とは、母だからだ。その母に殉じて生き、そして死んだ尾崎の反抗精神にあやかれというのなら、その命日を「反抗の日」にでもしたらどうか?…みんなで校舎のガラス割ったり、盗んだバイクで走り出し、国会の前で反戦歌をうたい、アメリカの旗でも燃やしたり…やべッ、つい萌えてきちゃった。
2007年4月28日
わしの名は澱口襄、またの名を櫟沢美也と申す。反社会的小説で殺人の指南したりしつつ、役者なんかやって世間をけむに巻くのが趣味じゃ。最近、凝っとるのは文壇いじめ。いや、昔ッから言葉の喧嘩ならたくさんやってきた。言葉狩りにキレて三年間断筆までした。じゃが、わしもそろそろ来し方行く末を考える歳になったせいか、受けた恩はきっちり返させてもらわんと気が済まん。今から思えば昔の文壇は目茶苦茶な作家がいっぱいおった。大酒呑んで大暴れ大喧嘩した挙げ句、牢屋にぶち込まれたり、覚醒剤でおッちんじまうようなバカ野郎が真剣なッて文学で乱闘を繰り広げてた。それがいつからかサラリーマンだか実業家だか、アイドルみたいなのばっかになっちまって。まあ、所詮、文学も戦争も経済もゲームじゃ。各自が好きなように熱くなりャええ。じゃが、誰も愛し甲斐がないっちゅうのも空寒いもんじゃ。石油売ってロクに働かずに食ってけるアラブの国民が武器なんか買い集めて戦闘したくなる気持ちもわかる。ありゃ、宗教戦争なんてウソや。ホントは平和の退屈に耐えきれん発作なんやろ。やっぱり働かなあかん!ちゅうのが一番平和やな。だからわしも何が何でも喧嘩売ったろ思て老人一揆ちゅうか、文学テロ起こしとるわけや。けど、ええなア。この歳でテロできんのも。文学やからやなア。文壇ぶち壊したれ。無差別テロや。片っ端から吹き飛ばしたろ。誰か血眼ンなって反撃してくれんかな。けど、どうせシラケるんやろな。こうなったらウソもホンマもぜんぶ混ぜこぜで挑発したろ。奴ら焦らしたろ。わしも先は長くない。ホンマに死ぬまでにあと何回小説ン中で死ねるやろ?小説やらドラマん中でたくさん人殺した分、わしもたくさん殺されたろ。けけけけけけ。何だかうずうずしてきたわ。わしの両腕にゃ無数の機関銃と手榴弾がぶら下がっとる。いひひひひひひひひ。そんで、股間にゃ核爆弾も二つ…んじゃが、こいつは両方とも発射不能なのが残念無念。もっと若いうちに撃っとくべきやった。女なんかのためにムダ遣いすんやなかった!
2007年4月29日
介護アドバイザーの三好です。みなさんはどうして認知症になると思いますか?脳の病気だとかいわれてますが、とんでもない誤りです。クスリで治る病気ならとっくに数は減ってるはずですが、現にどんどん増加して、今後は若年化してわかりにくくなっていくと思われます。そのわけを話します。心理学に私的幻想と共同幻想という概念があります。みなさんは自分が今、どこで、何をしているか認知されていますが、それはこの二つの幻想があるからなのです。私的幻想とは共同幻想によって育ちます。教育や文化、環境によってカスタマイズされるわけです。共同幻想はいまや日進月歩、時々刻々と変化しますから、私的幻想もそれに対応しなければなりません。ところが認知症の人はその変化を認知する力を失っていますので、古い共同幻想と私的幻想のままなのです。例えば、昭和で時代が止まってしまった人は、もしタイムマシンでその時代に連れ戻せれば正常に生活できるはずです。ところが現実は逆戻りできませんね。それならその人の生きている時代に合わせて生活させてやればいいのですが、集団生活ですとなかなかそうは融通がききません。ついこちらの都合に合わせてしまいますから、よけいに認知症がひどくなるという悪循環です。現代の共同幻想は多様化、希薄化していますから私的幻想も当然、そうなります。今の若者には一緒に歌える歌なんてどれだけあるでしょう?それぞれが自分の私的幻想に閉じこもると、それが先の昭和で止まった人と同じなわけです。それがバラバラに生活しているならいいのですが、学校や会社のように集団で行動するとなると問題が起こるわけです。学級崩壊やニートなどはすでにその現象ではないかと思います。幻想がなくなると人はどうなるのでしょう?自分と他人の区別もなく、エサを奪い合うヒヨコみたいに、新製品であったり、株価やカネ、点数…敵兵の動きにゲーム感覚で敏感に反応してるだけで、倫理だの常識すら通じない行動をとるでしょう。ちょっと考えると恐いですが、昨今の事件や不祥事を見ていますと、ヒヨコが起こしているように思います。こういう隠れ認知症もクスリで治せたらいいのですが…そこが脳の病気でないと考える由縁です。やはり最小限の共同幻想というものを大事にしなければと思います。しかし、どうすればエサよりうまいユメを与えられるでしょう?泣く子も黙る…みたいな鬼でも現れないと無理かもしれません。え?私がなれって?いやア…これも単に私の幻想ですから。
2007年4月30日
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