旧姓、言えン (梅)



 (松) (竹)

概念 墓前 世間 健全 自分 痴漢 一貫 出番 快感 発言 宣言 幇間 怨恨 終焉 屍姦 汚点 失言 破綻

概念



私は今日の読売に『「思い込み」無秩序に肥大化』というコラムを書きました。メディア研究者として例のバージニアでの銃乱射事件を論じました。新聞というのは社会的なフィクションですから、ここでは反社会的に書いて帳尻を合わせたいと思います。記事の内容は、たとえ命をかけて自分の意志を貫いたとしても、それが常識に反する行動なら自爆テロだから許せんということでした。要するに多数派の常識だけが正しい。けれども、これも肥大化した自由主義者の思い込みと補足したいのです。私は記事の中で「個人の自由=思い込みが幅を利かしてる」と書きましたが、それが我々の信奉する自由教の教義なのだということを秘匿していました。同じ朝刊に匿名社会を危惧する記事がいくつかありました。なぜ、匿名社会で深刻な事態が起こるのでしょう?実は、それで損するのは情報管理者だけです。ジャーナリズムとか国家、企業、学校とかですね。管理主義とは自由主義の裏返しなのです。ですから核や銃、きっとナイフや画鋲まで管理しないと彼らはおちおち眠れません。それなら自由を放棄すればいいのですがね。さらに国家や憲法なども放棄すれば戦争も起きようがないわけです。我々に自由と競争を強制して、管理する主体とは、その国家以外の何者でもないわけですから。自由とはそんなに心地よいものでしょうか?私は不自由の方が心地よいです。こんな文章もそうです。いくらでも書きようがあります。不自由なものとは身体です。私はあなたにはなれません。そしてこの肉体には絶対の倫理があります。歯が痛いのを痛くないと我慢することはできませんね。熱いお湯を冷たいというのは狂ってますね。何でも自由と錯覚してる人にはその絶対的な倫理が麻痺しているとしか思えません。そういう狂った人たちの常識が絶対に正しいとすれば、この自由主義社会は狂人社会という他ありませんから、私も狂人になるだけです。こんな風に空っぽな概念を自由自在に弄ぶだけです。 2007年4月30日

墓前



井上あきみです。「ようすい」というのは芸名です。思い起こせば『人生が二度あれば』でデビューして35年。ここ十年はベストやカバーしか売れていない。仕方なく奥田君とまた組もうかと誘った。彼の手を借りるというより名を借りるために。人気商売はつらいよ。デビューの頃は何も背負うものなんてなかった。歯科医になれ、という親に逆らうために歌手になったようなもんだ。そしていつしか、その歌手になった、という自分の過去に苛まれている。あの頃、親の強いたレールに『断絶』したように、自分の敷いたレールと断絶したい…。そう願って、ふらっと先祖の墓前にきた。新緑が美しい季節だ。山裾からひんやりとした風が降りてくる。森林浴の気分だ。あいにく線香を忘れて、所在なくタバコに火をつけた。耳の中のヘッドフォンでは今度、奥田君とやる新曲のデモが流れている。ふーっと煙を吐き出すと、珍しい真っ黒な蝶が飛んでいた。カラスアゲハだろうか。墓にはよく似合う。そう思っていると、ピッピッ…と鳴って曲が途絶えた。電池切れらしい。断絶は不意にやってくるものだ。しかも、思いがけないところから。駅までの帰り道、道端に二人の老婆がいて、ひとりが大きな声で怒鳴ってる。「いつも同じことばっか言って!しっかりしなよ」痴呆老人の繰り言にゃ、さすがの老人でもつき合えないのか。過去の曲ばかり歌っている私も痴呆オジンかもな。「いつも同じ歌ばっか歌って!」息子や奥田君にそう言われてしまいそうな自分が情けない。来年で私も還暦。『人生が二度あれば』で歌った父と母の年齢に少しずつ近づいているが、とても夢見るように若い頃の歌を歌えそうにない。時は無常だ。ああ、人生が、三度あれば!孫を生む気であの曲を完成させなければ! 2007年5月2日

世間



横松和夫といいます。「立松」というのはペンネームです。横か、立か…とかく人は自分の位置が気になります。そして根拠のない分類で群れたがる。先日も読売の人生案内に「血液型トークにうんざり」という題で、30代女性の悩みに答える形で作文しました。血液型に限らず「日本人は…」とか「今の若者は…」なんて分類されると反論したくなりませんか?人は自分の位置を他人に勝手に決められると不本意なのです。否定できないからムカッとくるのです。その点、昔の人は「てやんでぇ」なんて気風良くはね返したものです。自分の位置がハッキリしていたんでしょうね。どうして今の人は自分の位置がわからなくなるのでしょう?例えば、我々は船に乗っているとします。タイタニックみたいな豪華客船を想像して下さい。それが難破したり沈没したりしたら、我々は海に放り出されますね。救命ボートとかで必死に泳がなければなりません。その「船」というのが「世間」だと思って下さい。生まれてこの方、一度も船から放り出されたことがない人が、ごった返す船の中で自分の位置を見失うのも当然です。私はいわゆる団塊世代です。今のように全員大学に入れるような時代じゃなかったですから、船に乗りそこねた人がわんさかいました。私の人生なんぞも転職につぐ転職、耐久ラリーみたいなもんです。それに比べて高度成長以降の世代はだいたい全員、船に乗れて、沈没もせずここまで来ているでしょう。せいぜいオイルショックとかバブル崩壊、就職氷河期くらいの難破じゃないですか。私より前の世代なんかはもう、沈没、沈没、大難破の繰り返しでした。相次ぐ戦争に大震災、大恐慌。それは背骨もしっかりします。今の人たちは船が少し右に揺れただけで左に大移動して、かえって船が傾いてるように見えます。こんな人たちに憲法改正の国民投票なんかさせてホントに大丈夫でしょうか?まア、沈没したらしたで、野次馬しにいくだけですが。 2007年5月4日

健全



お元気ですか?私は元気、です。格闘家を引退し、かねてより勉強していた精神世界を深化させていきたい所存です。格闘家が思想家に?と訝られるかもしれませんが、「健全な精神は健全な肉体に宿る」といいますように、私にとってK-1やPRIDEは、思想の鍛練場だったのです。「We Are All One」いつか試合後にそう書かれた旗を掲げたのも、ひとつの思想表現でした。思想というのは個人が自分の一生をよりよく生きるためにあみだせばいいもので、それを他人と競い合ったり、ましてや他人に強いるべきものではないのですが、以前、あるテレビ番組で古武術家に技をかけられたとき、何度やってみてもひっくり返される現実に「恐れ入った」という感じでした。思想も格闘することで錬磨されるのだと思い知りました。また、思想の表現にはいろんなスタイルがあると知ったのは、窪塚くんと共演した『凶気の桜』という映画のときでした。私は中学の頃、自衛官になりたかったのですが、親に反対されまして、その願いが少しかなったのも収穫でした。なぜ、個人的なはずの思想を他人と格闘させたり、社会的に表現しなければならないのでしょう?それはやはり我々はひとりでは生きられないからでしょう。私は自作の詞で『Love&Everything』というCDも出していますが、格闘技や映画、著作もすべて愛の表現だと思うのです。思想には愛が必要なのです。でなければひとりよがりになってしまいます。最近、新聞で「モラル低下はコンピューターや機械化のせい」とか「下流社会は雇用形態の二極化のせい」などとわかったような論理がはびこっていますが、人は己のことほど他人に語りたがり、もっとも抑圧していることほど批判しがちです。自己を錬磨した人は他人の批判などできないものです。自己に無知な人ほど他人に思想を強制して無恥なものです。他人と格闘し、愛を表現する努力から自己に必要な倫理も発見されるので、その正当な道によってしか幸福はあり得ないのです。例えば、私の身長は175cm、体重73kg、スリーサイズは100、75、99、体脂肪は10%未満です。この身体にとっての幸福が、機械や雇用形態といった一般的な着物でもたらされるのでないことだけは確かです。私は人から礼儀正しいといわれますが、それは健全な精神と肉体の賜物で、自らが心地よいからそうするだけです。それを他人に強要しようとは思いません。今、政府は教育再生会議で道徳を科目化しようと議論していますが、あいさつしろ、とか言葉遣いが汚い、などという軍隊かスポ根マンガのような道徳の押し付けはお節介です。私から見て今の子供達はすごく個性的です。最初から抑圧もなく倫理は自分で見い出さなければならない生活の中に産み落とされています。子供だましの催眠術など効くわけがないのです。催眠術にかかっていることにも気づかず死んでいくがいいか、自己催眠をかけながら必死に生きていくがいいか、それはわかりません。この世は苦行で、あの世は永遠の楽園と考えるなら、前者の方が幸福かもしれませんが。私はこの世に楽園を見い出そうと思想家になるのです。私が死ねば終わる一個の楽園を築きあげるために。それが誰かの楽園設計にも寄与すると信じて。 2007年5月6日

自分



僕は今晩の『クローズアップ現代』で紹介されたカリスマブロガー。たぶん実名と顔は隠してあったはず。服もわざわざその日だけのユニクロを用意した。なんでそこまでするか話します。僕のブログには毎日20万人のアクセスがある。そこではいろんなものを批評している。書籍や映画、番組、投稿画像、時事ニュースに対する私見から新製品や料理店の感想までなんでも鑑定する。その単刀直入で、ときに辛らつな意見が人気らしい。その影響力は企業や出版社にとっても気になるらしく、製品や出版物が山のように送られてくる。だけど、僕は一度もそういうエサに食いついたことはない。エサは自ら探すもんであって、「はい、どうぞ」なんて与えられたもんなんかにゃワナがあるに決まってるから。いろんな誘いもある。「セミナーをやっていただけませんか?」とか。メールでなくハガキできたりする。どこで僕の個人情報を入手したんだろう…恐いなあ、情報社会は。もちろん全部、断ってる。人はかっこうな主人を見つけてはすぐ群れたがる。縁もゆかりもなく、姿形さえ知らないネット上の人物にまで「心が通じ合う」なんて意気投合する。そんなのに付き合ってたらキリがない。ネットの世界くらい「誰でもない誰か」になって、自分だけの隠れ家を持てばいいのに。それが自分らしくいるってことでしょう?有名なんてなっちゃったら隠れようがないからNHKの取材も「どこにでもいる誰か」にしといてもらったわけ。あの日の服はもう捨てちゃったし。なんでそこまでするかって?自由でないと鑑定家の眼力も曇っちゃうからね。なんで鑑定なんかするかって?自分の生きてる時代をそっくし味わうためです。まあ、いってみればヒマをつぶしてまでウヌボレを捨てるために自分を捧げちゃってるわけです。 2007年5月8日

痴漢



Yoshiです。僕が携帯サイト『ザブン』で執筆を開始して七年。ケータイ小説もやっと大新聞に取り上げられるようになってきた。だけどまだ一部の人たちには悪書と批判されてる。表現力が乏しいとか、やたら性描写が多いとか。とても文学とは呼べない、しいていえば、民俗説話だとか。こういう人たちは文学って何だと考えてるのだろう?僕は科学や医学、経済と同じようなものだと考えてる。例えば美容整形した女性はカネと医学の力で自分は若返ったと思ってるけど、それは錯覚に過ぎない。僕は小説を書くことで過去は戻らないと肝に命じてる。一回きりの今を精一杯見つめようとしてる。二度と過ちをおかさないためにも。それは紫式部も同じだったのではないだろうか?大昔の文学がどのように書かれて広がったかは知らないけど、ケータイやネットがなかったのは疑いようがない。環境が違えば形式も違うはず。その点、近代文学というのはマスコミが生んだ形式だと思う。つまり上から下への一方通行。僕のケータイ小説には上も下もない。それは、ある人へ宛てた手紙みたいなもので、その「ある人」とは自分でもあるから双方向というわけ。そういう文学がかつてあったのだろうか?いずれにせよ、時代によって形式は変われど、文学は変わらないと思う。人が過ちを犯す限り、それを描き続けるだろう。だけど、かくいう僕もマスコミに顔を出すようになってから書けなくなってる。書き始めた頃はレイプ、妊娠中絶、親殺し、子殺し、近親相姦…タブーなんて何一つなかったのに、今じゃ、書くネタ探しにネットサーフィンしてる。満員電車に揉まれながら女子高生のケータイメールを覗き込むのが取材だったりする。自ら波を起こすつもりで名付けた『ザブン』だけど、今じゃ波に呑まれてる。そのうち痴漢でもしてネタにするかもな。 2007年5月11日

一貫



俺はハッタ組の若頭、小川英二だ。俺から長渕について語らせてもらう。奴を一言でいうと、とんぼさ。自分でも歌ってるように「裏腹な心を抱えて、どこへ飛んで行くか知れない」けれど「舌を出して笑ってらあ」。そのイメージは一貫しているようでカメレオンだ。ある時はフォークロック歌手、またある時は破天荒な家庭教師やちんぴら。最近じゃ、筋肉や大和魂をアクセサリーにしては、謙虚だの感謝だの友情を唱える説教者だ。奴のコンサート、いや、ミサに集まる信者をみれば、奴が似非教祖であるのは明らかだ。子は鏡というだろ。どいつもこいつも子分みたいだ。少しは親に反抗ぐらいするのが家族だろ。誰も反抗しないから教祖になってしまう。それは奴の反抗自体がポーズだからだ。ファンもそれを真似してるに過ぎない。反抗が格好よかった時代が終われば、今度は女性だけコンサートに呼んで説教たれる。奴の父は警官だったが、奴も宣教師になりたいらしい。バカバカしい。俺はあの『家族ゲーム』が懐かしいな。だが、もう家族なんてどこにもない。学校や会社がその代わりになってるなら、そこへ殴り込む役でもやったらどうか?『人間ゲーム』とでもいおうか、いい子ぶってるバカ共に悪の洗礼をする。そこであの歌を歌うのさ。「♪グッバイ青春、いいことなんてなかった季節に夢だけ置き去りに…」バカ共にも少しは響くはずさ。だが、親を亡くしてからお前も寂しいんだろ。その重い体じゃ、もう長渕キックも似合わないな。何で親からもらった体をオモチャにした?ガリガリでハングリーだったお前は小さい頃、体が弱かったのを忘れたのか?体だけじゃない。犬のように弱い心で遠吠えしてたじゃないか。お前はいつも親の身代わりに駄々をこねてきたようなものだ。お前の後ろめたい人生も、ポーズのような芸暦も、変わり果てた肉体も、その一貫しない心の犯歴さ。とんぼがどこへ飛んで行くか知れないのは、本当のねぐらを忘れてるからだ。お前は肝心な人に反抗してないじゃないか。今日が何の日だか、もうわかったろ。 2007年5月13日

出番



『東京タワー』でオカン役やってる内田裕也の妻です。なぜか、色気について語れ、ということでここに登場しました。20代の頃から老人役やってきた人に色気を語れ、とおっしゃられても……。娘もずいぶん美男子と結婚しましたが、どこがいいんだか親にもわかりません。今の女性を見回しますと、キレイな人は非常に多いですが、色気のある人は少ないかもしれませんね。昔、劇団にいた頃、ある人気作家が楽屋に遊びにきていうんです。「君はこうして飲んでると色っぽいのに、どうして舞台に立つと死んじゃうんだろう」と。今の女性はずっと舞台に立ちっぱなしなのかもしれません。それでつい色気も忘れてしまう。その作家はこうもいいました。「芸人には落伍者の誇りが必要だ。モンパルナスの役者はみんなそれを持ってるのに浅草の芸人にはそれがない」と。色気というのも誇りみたいなものかもしれません。それが廃れるというのは落伍が廃れてるということでしょう。確かに競争社会ですからみんな落ちこぼれまいと必死です。私の父は琵琶奏者でしたが、今の格差社会でいえば完全な負け組でしたから、それは高い誇りがないと生きていけませんでした。経済大国になってからの日本はおごりばかりで、誇りがない気がします。これでは色気も出番がないですね。みなさん、もっと不真面目になればいいと思うんですがね。答えなんかないんですから。信じられるか、美しいかどうかでいいじゃありませんか。私なんかもガラクタとか偽モノばかり集めてますから。どうも捨てられない質なんですよね……旦那も。 2007年5月15日

快感



漫画家のキクニといいます。ギャグが本命の僕としては、代表作が映画化もされた『月光の囁き』ということになるとしたら、いささか不本意です。ですが、人生ってそんなものかもしれません。自分の意志で生きてるように見えて、結局は生かされてる。僕にとってギャグとは意志なんでしょうから。「ギャグでないシリアスストーリーで」という注文が編集者からあったときはホントに路頭に迷いました。得意技を取り上げられた芸人の気持ちってわかりますか?裸踊りするしかありません。『月光』は、まさにストリップでした。一番隠したいことをさらけだすんですから死ぬほど恥ずかしい。でも、そこに死ぬほど快感もあったんですね。描いてる時は狂いそうでした。そして描いた後はスッキリしてました。大革命だったんです。それ以後は日本一の男になっちゃいました。でも、やはりギャグは捨てられませんでした。「男ちゅうもんは、照れながらしかコクれんもんなんじゃ、その点、女はええなア」「何でや?」妻が怪訝な顔をした。「おぬしが神様やんけ?人にコクらんでも、心ン中でコクっとりゃ、照れも何もないやん?何もかも、赤裸々でええんやから女はギャグがわからんのや」「セキララ?こんなに隠しとるやん!」「何を?」妻は膨れっ面で睨んでみせた。そーか、女は美貌で照れを隠しとるんか。そういや、こいつの恥ずかしい秘密、まだ描いとらんかったな。 2007年5月15日

発言



厚生労働大臣です。「女性は産む機械」発言で物議をかもして、また問題発言になるかもしれませんが、「日本人は働く機械」と言わねばならない様です。昨年度の過労による自殺の労災認定は、なんと57%も増加なんです。特に、鬱病など精神疾患や、脳・心疾患が過去最多を更新しています。みなさん少し働き過ぎではありませんか?もう少し遊んでいただいた方が国の将来にとっても有り難いんですがね。こんな事を言うのも何ですが、みなさんホントにそんなに忙しいんでしょうか?単に約束を断れないんじゃないですか?私の知り合いにもつねにスケジュール帳は予定でビッシリって人いますね。「忙しい人」といわれて得意になってる。たまに空白があると「誰かに会わなきゃ」「何かしなきゃ」と不安になるみたいです。お酒好きとかオペラ好きなんではなく、単につき合い好きなんですね。それで体壊した挙げ句、過労死では本末転倒。これは交友中毒ですね。息抜きもしないと血管も詰まりますよ。反対に「誰とも会いたくない」と鬱病になる人も多い様ですが、これなんかは孤独中毒ですかね。こういう人は「ひま人」といわれて得意がるくらいでちょうどいいんではないですかね?何事も中庸がいいといいますが、私の場合は三分がよいようです。交友三分、孤独三分…それに、妻三分。みなさんも、もっと愛妻家になるべきですよ。そうなれば少子化も改善するし。え?で、残りの一分は何かって?もちろん、国ですよ。あれ?また問題発言でしたか? 2007年5月17日

宣言



僕は母親の首を持参して自首した。殺すのは誰でもよかった。「戦争になれば人を殺せる」ともゆった。どうしてそんなに殺したいかって?生きたいからですよ。生きるってゆうのは、誰かと関係を持つってことです。どんな関係だっていい、恨みだって。僕には学校にも近所にもそんな恨めしいほど親しい人はいなかった。殺した母親も別に恨んでなかった。じゃあ、何で殺したかって?戦争だって別に目の前の相手が恨めしくて殺す訳じゃないでしょう?戦争という状態自体が集団の恨みであって、殺すことが正しいから誰も恨みを感じないで殺せる。戦争が終わった後で「しまった」と気づくんでしょう。僕も殺した後、自首しなきゃって思った。逃げる気は全然なかった。やっと誰かと関係が持てて嬉しくさえあった。僕は高校に入ってから、一緒に住んでる弟以外、ほとんど誰とも会わないで毎日過ごしてきた。腹が減れば食べ物はコンビニで買えばいいし、退屈ならDVDでも借りに行けばいいし、誰かと話したきゃネットカフェがある。だけど、そこで会う人とはその場限りで何の深い関係もできない。学校だっていっぱい人はいるけど、表面的な関係で、卒業すればそれも途絶える。中学までは結構、友だちもいたんだけど、高校が遠くなったせいでそれまでの関係がすべて途絶えた。またゼロから関係をつくればよかったんだけど、面倒ってゆうか「どうせまた…」って先が見えちゃった。だったら、いつも心の中にいる「あの人」の方がよっぽど裏切らないから。たまにしか会わない母親も、僕の中じゃ、大勢いる他人のひとりにすぎなかった。僕は自首するまで夜中のネットカフェで過ごした。「あの人」に会うために。それに、誰かに勝利宣言したくて。それは殺すのと同じで誰でもよかったんだけど。 2007年5月18日

幇間



あッしは今でこそスピリチュアルカウンセラー江原さんのマナ弟子と名乗っとりますが、別に霊能者でも何でもない、ただの幇間でがす。その前は、フーテン寅さんのマナ弟子でしたから。先日、ある若いモデルさんというか、女優さんと宴席でこんなやりとりをしました。「綺麗な小瓶があると、つい部屋に持って帰りたくなるんです。結局、何も入れずにたまっていく一方なんですが…」「小瓶というのは子宮の象徴なんでして、あなたは、それに花とかを入れたいわけですね。花というのも性器の象徴なんでして…」「マッサージとかいかないんで、肩の凝りも腰の痛みもたまる一方なんです」「ヒステリーとか癇癪持ちという言葉がありますが、頭に血が昇ったり、腹が立ってばかりですと、下半身が貧血になりまして子宮の病気になりやすいですから気をつけて下さい」「一番大事なものは写真です。空の写真ばっかり撮ってます」「あなたは写真で世界をとらえてきたので、そこに自分も発見しなけりゃ気がすまないんです。女心と秋の空とはいいますが、空というのは変化も劇的ですが、空しいともいえます」「一番行きたい所は屋久島です。神様に呼ばれて行きたいんですが、まだ…」「そりゃ、五月病です。あなたは故郷を離れて、東京に出てきましたが、つねにそこから逃げ出したいんですね。ですから、今の自分の居場所が居心地よくなれなきゃ、どこかへ逃げたい病は一生治りません」「お父さんはお人好しだったんですが、母には厳しく育てられました。それで負けず嫌いなんです」「だけど、ふざけて物真似するのとか好きじゃないですか?ホントはお父さんみたいになりたいんですよ。たまにはお母さんを裏切るのも家族円満の秘訣でがす」 2007年5月20日

怨恨



私は国立感染症研究所で様々な毒をつくっています。どのように毒を調合するかといえば…その前に、病気とは何か説明しておきましょう。我々人間はつねに何らかの病気です。しかし、治癒本能がある為に無病息災でいられるのです。この機能が弱まりますと、病気は怨恨感情となります。これは人間をすみやかに焼き尽くしてしまいますが、怨恨自体は自然なもので毒の調合には欠かせません。あらゆる病気と縁を切るために怨恨と親しくなる、それが毒の調合ということです。それは何も試験管だとか化学式を使う必要はありません。ふだん使う言葉を用いればよいのです。例えば、今、首都圏の大学生の間で麻疹が流行っていますが、それは彼らが、マシンだからです。言葉をたくさん覚えて、めくらめっぽう使って、それで考えたつもりでいますが、実際に彼らがやっていることは機械的に反応しているだけです。「こう習ったから、こう答える」それで麻しんにも素直に反応してしまうわけです。反応しかできなくなったら無反応になるしか治療法はないので、休講にするのは賢明な方策ですが、麻しんは治ってもマシン病はそう簡単には治りません。ではどうやって本来の治癒本能を取り戻すか?「こう習ったけど、そう答えない…じゃあ、こう答えよう」これにはずいぶん恨みや毒にまみれて独りで考える時間と労力が必要です。私などは年がら年じゅう、それをやってるから息災なわけです。もっとも、考える以外に何もする気が起きないというのも一種の病気なんですが。 2007年5月22日

終焉



昨日、「クローズアップ現代」に出た環境学者です。私が「テロとの闘いよりもエコとの融和」という経済論を展開するのは、現状ではグローバル経済が発展すればするほど、テロ国家の軍事力も膨らんでしまうジレンマがあるからです。そうは言えないから異常気象のデータを示して地球温暖化を呼びかけているわけです。が、地球に言わせりゃ余計なお世話。人間の問題にすぎない。いや、アマゾンの密林やアフリカの砂漠、孤島の人々には関係ない、うちの二歳の孫娘にもまだ関係ない、要はグローバル経済にとっての危機なのです。経済人というのはどうも昔から行雲流水で、それに没頭しているうちにその小さな世界に限定されてしまうきらいがある。ですから百年周期の自然現象すら天変地異にうつる。「もう地球は終わるのじゃないか?」とか「それは人間のせいなんじゃないか?」と思い込む。いや、思い上がる。エコはエゴなんですね。アリにとっちゃ人間の一歩は大災難ですが、人間はアリの都合なんて考えて歩きませんよね。アリが自分らの世界に浸ってるうちに人間は自分らの都合で動いてると勝手に思い上がるとしたら、それが環境問題です。それが人と自然でなく、人と経済の間で起こると、それがテロです。川で溺れたり、裏山で遭難すれば自然の脅威も少しは身に感じますが、テロの脅威が身に感じるようになったら、もう経済の終焉ですから。え?それも経済人の思い上がりじゃないかって? 2007年5月25日

屍姦



私は光市母子殺害事件の差し戻し控訴審で証人尋問することになっている心理学者。加害者が犯行当時18歳だったことで一審、二審とも無期懲役だったが、今回、検察側は国民感情を盾に強く死刑を求刑している。被害者の夫、本村氏も冷静沈着した面持ちの底には「死刑でないなら自分の手で殺す」と言わんばかりの執念をお持ちのようだ。まあ、心理学者としての関心事は、加害者が母親を自殺で亡くしていることと彼が被害者を殺害してから強姦、つまり屍姦していることだ。ネクロフィリアは、たいてい幼児期に母親などの臨死体験をしている場合が多く、加害者は犯行にその体験を再現しようとしたのではないか。しかし、同様の境遇の者がみなそうした異常性欲者にならないのは、その後の発育過程で他者に対する怖れやいたわりを持つからだ。昨今の凶悪化する少年犯罪を見ていると、どうも他者に対する認識力が欠けているようだ。幼児のように自己と他者の区別がなく、全世界が自己であるから大胆な犯行が平気でできてしまう。動物だったらこうはならない。そもそも自己などない。人間だけが自己という幻想を持つがゆえに他者も認識せねばならない。自己がなければ何の悲劇も恨みも起きぬし、裁判もいらない…が、自己が諸悪の根源といっても仕方がない。せめて異常性欲という他なるもの、モラルをこえたものを社会が経験する契機にこの裁判がなればと望むが、この世は理性より感情が支配しているから死刑も致し方ない。だが、感情問題に真の解決というものはなく、他者を自己の一部として認識していく過程に人間としての成長もあるのであって、死刑はそれを永久に不可能にしてしまう。 2007年5月28日

汚点



私は慶応病院の看護婦長です。先日は二人の有名人が同日に亡くなられ大変でした。常日頃、人の死には接していますが、有名人の死というのは哀れなものでした。その背負ってるものに殺されるからなのでしょうか?入院中に拝見した蒲池さんはとても歌手には見えない、内気なお方でした。後で聞きましたが、蒲池さんのCDは90年代でもっとも売れたそうです。テレビにも出ず、コンサートもしないで。ですが、やはり時代が変わってまいりますと歌手もそれに対応しなければなりません。今年は3年ぶり二度目のコンサートツアーが予定され、紅白出場にも内定していたそうです。そのプレッシャーもあったのでしょうか?子宮頸癌という病気もそうですが、人には言えない御苦労をなさってこれまでも来られたのかもしれません…。歌手だって神様じゃありません。時には人前で恥もさらさなければならないでしょう。それがファンの期待を裏切るというのなら、その期待の方が奇態なのでしょう。同日に自決された松岡農相も謝って辞任すれば死ななくて済んだかも知れません。それが政権や選挙にも汚点を残すから許されなかったのでしょう。「明日からふつうの女の子になりま〜す」そういって寿引退できたキャンディーズは幸せでした。壇上から降ろさせてくれない、一度降りたら二度と上げてくれないのは熱し易く冷め易いマスコミの宿命でしょうか?永久に降りることが許されない壇上の人といえば天皇でしょう。戦前は触れてもいけない現人神でしたが、戦後は人間宣言されて、今日ではスキャンダルまで報じられるほど天上から降りてこられた。それが民主主義ですから仕方ありません。不都合な真実を必死に隠して威光もなんとか保てる時代のようです。蒲池さんもやっぱり輝かしい過去に悩まされたのではないでしょうか?今さら寿引退もできない。病気をかばいながら忙しい巡業に明け暮れるのも辛い。「坂井泉水」の美名に汚点を残すくらいなら、いっそ自分から消えちゃえ!と壇上から降りたのかもしれません。私が背負ってるものなんか、せいぜいデキの悪い子供たちくらいですけど…今の子は何をするかわからないですから、殺されないうちに早く追い出すつもりです。 2007年5月31日

失言



濱崎歩です。こないだある雑誌の取材で「人生はギャンブル」っていったら、いろんな相談がくるようになって、ありゃ失言だったナ…と後悔してる。「うちのバカ息子が株で300万も借金つくってて困ってるんですが…」とか。基本的にギャンブルにハマる人ってガンバリ屋さんだと思う。アユも中途半端が大嫌い。人生はハイリスク・ハイリターンでいかなきゃ。勝ってるときの高揚感も気持ちいいけど、負ければ次は絶対に勝ってやる!って燃えてくるのがさらにいい。だから、そのバカ息子さんの気持ちもよくわかる。「仕事はマジメにやってるんですが、ギャンブルだけが玉に傷で…」ってゆうけど、子の心親知らずで、きっと株をやってる時が一番本人はマジメなつもりなんじゃないかな?だから「金儲けの何が悪いんですか?」ってムラカミファンド的な感覚だと思う。現に赤字でも経営してる企業なんていくらでもあるんだから長い目で見てよ、って。それを暖かい目で見てやれない親心なら、株以外に「ガンバる」を見つけさせるしかないんじゃない?その点、アユは生きることすべてにガンバりたいから、すべてをギャンブりたい。「それって結局、運命を信じたくないってことなんじゃないですか?」って生意気なインタビュアーが言うから「いや、信じるしかできない宿命にうんざりして、最後にはうっちゃりたいのよ」って言ってやった。こんどあの雑誌の取材があったら、こう言ってやろうかな。「人生は無意味です。この雑誌とおんなじで」って。 2007年6月3日

破綻



わしはコムスンのヘルパーさんに週二回来てもらっとる。国は「コムスンの業務譲渡は国民の理解が得られない」と行政指導したそうだが、わしに言わせりゃ、納得いかんのは国の介護保険の方だ。どこの企業もコムスンみたいに水増し請求しないでやっていけとるのが不思議だよ。よくやった!コムスン。さすが六本木ヒルズに構えとるだけのことはある。あの会長の頭髪ももしや水増ししてたりして…。上の人間は知らんがヘルパーさんたちはホントにようやってくれとる。一日でも来てくれんとホントに困る。メシは食えんし、トイレもままならん。ゴミはたまるし、風呂にも入れん。完全にお手上げ。なのに、コンビニのバイト並みの時給だっていう。やっと出た「特別賞与」がたったの0.1ヶ月分だって…そんなんじゃ、若者もすぐ辞めてくよ。そんで仕方なくフィリピン人を雇うって?田舎のカラオケバーじゃないんだから。社保庁のずさんな年金処理もそうだが、ナメとんじゃないか?老人を。姥捨て日本。戦前とちっとも変わっとらん。だいたい医師会が政治家とつるみすぎなんだよ。カネの亡者め。白衣を着たヤクザめ。われわれ老人からお布施を巻き上げて、自分らはベンツ乗り回して、リゾート地でバカンスかい。最近じゃ、テレビでも「ホントは怖い家庭医学」だの「ためしてがってん」だの、国民の不安を煽って、結局は科学者や医者にお布施が集まる仕掛けじゃないか。科学と医学による恐怖政治だ。カラダも使わず頭だけで儲ける輩なんかメタボで苦しみゃいいんだ。ホントに大事なのはクスリじゃなく、わしの手や足の代わりになって働いてくれる手と足だ。わしの愚痴もわがままも聞いてくれる耳だ。わしの顔色をうかがってくれる目だ。2055年には65歳以上が40%になるっちゅう前代未聞の超高齢社会。わしのような粗雑な人間はまだ丈夫だが、戦後生まれはヤワだからこの国はまちがいなく介護破綻するね。まあ、わしはとっくに死んどるから知らんが。<完> 2007年6月8日