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中世の詐術 孤独な自由、挫折する攻撃性 KOKOKYOSHI 秋の夜長にアニメ三昧 赫い靴 シン・ニッポン 古今和解集

中世の詐術

「まったく戦争という奴は、人間ばかりじゃない、学問だの教養だの、一切合財、カミシモをぬがせてしまう。」(『現代の詐術』坂口安吾 1947) 「カミシモ(裃)」とは、武士の礼服の一つで、同じ色、生地の肩衣と袴のこと。それを脱ぐとは、形式ばらず、打ち解けた様子。 「だから読者諸君、銘記したまえ、戦争以来、日本は目下、中世なのである。つまり我々は父祖伝来ゆずり伝えたカミシモをつけ、もう電燈もガスも鉄道もある、道義も人情も仁愛もある、法律もあり統制された秩序もある、だから中世じゃない、こう考えて、そのカミシモを疑うことを知らなかった。(中略)目下の我々のモラルや秩序や理念だけでは、人間は窮すると中世になる。この逆転を支えるだけの実力がない。」(『現代の詐術』坂口安吾 1947) しかし、この世相の逆転現象は、戦争で物が貧窮したからであると作者はいう。 「世耕事件の静岡の糖蜜問題がこのデンの好見本で、世耕氏へこの情報がくるまでに有村とか、佐伯、宮川、米本、渋谷、前田、永田などとリレーがあり、結局モトは矢島松朗というサギ師の組んだ仕事で、矢島のいう砂糖は実在するものではなかったが、三宅男爵という架空の人物や一条公爵などゝいう名が利用されて効果をあげ、人々はその品物が実在するものだと信じていた。つまり矢島だけがサギ師であり、他の人々はサギにかゝった被害者だということになる。」(『現代の詐術』坂口安吾 1947) この「世耕事件」とは「隠退蔵物資事件」ともいわれ、1947年3月の衆議院決算委員会で世耕弘一が、旧日本軍が集めた物資が密かに売買されている(「糖蜜問題」とは、沼津の醸造会社にあった砂糖の一部がヤミに放出されていた)と暴露し、そのカネが政治資金に使われていたことが調査委員会で追及された。 「世耕事件は今日に始まるサギの性格ではない。いつの世にも、サギはあのようなものであり、政治の裏側には似たようなことが行われていた。マーケット座の親分が一千万円献金して公認候補になったという。そういう事柄がサギの母胎ではないか。サギの性格を助成するものが政治の在り方ではないか。」(『現代の詐術』坂口安吾 1947) そういえば、世耕弘一の孫にあたる弘成氏は、最近、自民党の政治資金パーティー、いわゆる裏金問題で離党勧告をうけて、離党した人物。 「ヤミ屋は敗戦後の産物だが、政治家になると金がもうかる、これをヤミだとは昔は言う言葉がなかったが、これもヤミではないか。正規の取引関係、税務署の台帳にのる所得じゃない。さすればヤミ屋というのは昔から別のところにちゃんと存在したことで、今日道義がタイハイしたわけではない、昔からタイハイしていた。昔から中世であった。中世のまゝ、借り物のカミシモをきていたゞけで、中味は変っておらなかった。」(『現代の詐術』坂口安吾 1947) ときに先日、日銀の利上げから始まった世界的な金融市場の大暴落は、あのブラックマンデーを超える史上最大の下げ幅を記録。一日にして数十兆円の資産が消えたという。その半年前にはバブル以降34年ぶりに日経平均株価が史上最高額を更新し、政府は「資産所得倍増元年」や「貯蓄から投資へ」と謳い、新NISAなどの政策を打ち出していた。これは政府による詐欺ではないか?と訴える人もいるが、相場というものは誰かが儲かれば、誰かが損するもので、それで資産を増やそうと考えること自体が博打的ではないか。それより今回の大暴落で知った「円キャリートレード」、つまり超低金利の日本円を使って海外投資家が大儲けすることを助成してきたアベノミクスこそ詐欺的な政治の在り方ではなかったか。 「メンドウなことを言うとるもんじゃ。これはナ。ナニ、カンタンなことじゃ。くどいことを言いたておるからムツカシく見えるが、ナニ、タワイもないことを言うとるんじゃよ。分ってみればバカバカしいもんじゃナ。区別のないものに区別をつけて、こじつけておるだけじゃよ。きいてみればほんとにツマランことじゃナ」(『戦後文章論』坂口安吾 1951) 難解な仏教哲学の倶舎論について「真言宗の某派の管長の長老」がこのように明解に説明したといい、自身はこう述べている。 「人間の心理の分類だもの、難解な筈はないのですよ。ただ七十五というバカバカしくこまかな分類だから、分類がムリなのです。全然その差の有りえないところへ屈理窟をつけてどうしても七十五というこまかさに分類しようという印度聖人のコンタン、日本人の先輩だけのことはある。」(『戦後文章論』坂口安吾 1951) 最近、新発売のガンプラを購入して、その価格とパーツの多さに、この言葉を思い出した。子どもの頃に作ったやつは300円だったが、最新のはその20倍以上する。たしかに緻密さは隅々にわたり、可動性や再現性が年々上がり、その上、塗料も接着剤も不要という。昨年つくったエントリーグレードなどは千円もしないキットながら、その緻密さは40年の進化を実感させるに充分だった。コンピューターによる高度な設計技術の香りがプンプンした。その最上級、リアルグレードともなればすべてにおいて妥協しないキットになっているはず。今回のはVer.2ということで、旧バージョンも凄まじいキットで、部品点数がやたら多く、ちょっと落としたりするとレゴのようにバラバラになり、復元するのに四苦八苦する羽目になる。可動性が柔軟ということは、ヤワということでもある。その点、40年前の300円キットはお人形ポーズしかとれない堅物だが、ちょっとやそっとじゃ壊れない強靭さ。このジレンマを何と表現したらいいのか。そこで倶舎論というわけ。 「ツマランことじゃのう。なんで、こうムリに区別をたておるのやら、泣かせんでもいいことに、人を泣かせおるもんじゃのう」(『戦後文章論』坂口安吾 1951) でも人は泣きたいんでしょう。ムリに区別してでも、ガンプラの進化に泣きたいんじゃ。 区別というと、今回のパリ五輪でもっとも印象的だったのが、女子ボクシング。ほとんど見てない私ですら、これはどうみても男という「女」が、本物の女性をボコボコにぶん殴って金メダルという映像には呆れた。パスポートが女性だから問題ないと主催者側の見解。昨今のLGBT論議で差別はいけないというが、差別と区別はちがうだろという見解が至極まっとうに聞こえる。これも「ムリに区別をたておる」であり、怒らせんでいいことに人を怒らせるもんじゃ。つまり、文明の進歩とやらも、だいたいはこのノリで、ここにもカミシモを疑えという姿勢が必要ということだろう。 2024年8月12日

孤独な自由、挫折する攻撃性

「人間の攻撃性は、そのナルチシズムやエロティシズムと同じように、必然的に挫折する宿命にある。(中略)われわれが感じる怒り、憎しみ、恨み、そして悲しみなどの感情は、われわれが心のなかに知覚したこの挫折した攻撃性である。」(『怒りと憎しみ』岸田秀) いつの頃からか、SNSは誹謗中傷だらけ、世間もクレイマーやハラスメントだらけ。少子化のせいで、むしろ攻撃性が高まっているようにみえるが。 「怒りっぽい人とは、人一倍攻撃エネルギーをたくさんもっている人ではなく、その自尊心を支えている幻想があまり共同化されていない人である。」(『怒りと悲しみ』岸田秀) ならば、社会主義や軍国主義のように、一つの強大な共同幻想が支配する画一的な社会では、怒る人はいないはず。反対に、弱小な私的幻想が許容される多様な自由主義社会では誰もが怒っている。だからフランス人はいつも政治デモをやっている。そのフランスに移住してる、ひろゆき氏が「日本は実質、社会主義」と言ってたが、だからせめてSNSだけは自由であろうとして実世界でトラブルが起きる。昨今はその中すら言論統制が進み、世界は超富裕層を除いて着実に社会主義に向かっていて、日本はワクチン接種率でもマスク率でもダントツにその最先端と認定されたから、世界で唯一承認された自己増殖型ワクチンの人体実験が行われるわけだ。きっと前代未聞の薬害認定はされず、空前絶後の超過死亡だけが謎に記録されるだろう。 「しかし、とくに怒りっぽい人ならずとも、われわれは、無意識の水準では多かれ少なかれ幼稚な自尊の幻想をもっているのである。(中略)怒りっぽい人はその程度がいささかひどいだけである。」(『怒りと悲しみ』岸田秀) いささかどころか、べらぼうな連中が、パリ五輪の開会式を企画したのではないか。 「芸術は、人間存在における幻想我と現実我の葛藤を、前者の保護のための特別な禁猟区を設けることによって解決しようとする試みである。」(『ナルチシズム論』岸田秀) 富裕層の間ではいまだに芸術が何億という貨幣価値で取引されていると、村上隆が言っていたが、そういう連中がグレートリセットなどと唱えてワクチンと称する生物兵器を世界中にばら撒いて何食わぬ顔をしてるのではなかろうか。反対にナルチシズムやエロティシズムの攻撃性を無意識の底に沈めて忘れているから、大半の日本人がコロっと騙されてしまったのだろう。攻撃は最大の防御なり。 「時給十セントで働くことにきみが腹を立ててくれてよかったよ。腹を立てずに喜んで働いていたら、いずれ『きみには何も教えられない』と言うしかなかったと思うよ。いいかい。本当に何かを学ぶためには、たくさんのエネルギー、情熱、どうしても知りたいという欲望がないとだめなんだ。怒りも原動力の一つになる。情熱は怒りと愛が合わさったものなんだから。」(『金持ち父さん 貧乏父さん』ロバート・キヨサキ) 経済力は下降、人口も減少の日本で、米不足が起きても米騒動も打ちこわしも起きないのは、ただルールを守る社会主義者になっているからではないか。高速道路を逆走して事故を起こしても何食わぬ顔をしている老害の方がむしろ頼もしく見える。 「人間は(私は、と云う必要はないように思う)最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になることを知った。私は、思うに、孤独感の最も激しいものは、意志力を失いつつある時に起り、意力を失うことは抑制力を失うことでもあって、同時に最も好色になるのではないかと思った。」(『我が人生観(四)孤独と好色』坂口安吾) この「孤独と好色」とは、ナルチシズムとエロティシズムといってもいいのではないか。安吾は自身の鬱病体験からそう語っているのだが、彼の場合、その攻撃性が創作への情熱にもなっていたのは明らかで、それは例えば『桜の森の満開の下(昭和22)』や『夜長姫と耳男(昭和27)』といった作品に昇華している。 「ぼくは坂口安吾の全作品からただひとつ作品を撰べと言われれば、この「桜の森の満開の下」を挙げるだろう。まぎれもない傑作である。芸術の鬼か神かが書いた作品としか言うほかのない出来ばえである。ぼくはこんな美しく、グロテスクで怖ろしい作品は、世界の文学の中でも、稀だと考える。しかし檀一雄によると、信じられぬことだが、この原稿は雑誌『新潮』の編集部の名編集長Sから、これは小説ではないと掲載を断られ返却され、『肉体』という三流雑誌にまわったものと言う。」(『坂口安吾』奥野健男) 悲惨な戦争の直後とあってか、純度の高い攻撃性はなかなか芸術作品として認められなかったようだ。『夜長姫と耳男』に登場する人物たちもナルチシズムの極みである。 「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」ヒメの目が笑って、とじた。オレはヒメを抱いたまま気を失って倒れてしまった。」(『夜長姫と耳男』坂口安吾) 時代が追いついてきたのか、今度は『新潮』に発表されているのが興味深い。 「作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上もない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味いつつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであった。」(『飛騨の顔』坂口安吾) 「ヒダのタクミと云えば日本ではまるで一人をさす名詞のように見られがちだが、ヒダその土地に於ては全然普通名詞の如くであって、各時代の多くのタクミに個々の名があったということが全く問題でない如くであるから面白い。(中略)しかしそれは仕事がいい加減であるということや、個性がないということを意味するものではない。むしろ彼らが生れながらにして全的にうちこんでいるからだと解して然るべき証拠がある。彼らのそういう仕事の後が残っています。彼らはただ一筋に打ちこんで、その出来栄えに自ら満足すればそれで充ち足りていたのであろう。」(『飛騨の秘密』坂口安吾) ナルシストの極みである、赤ん坊にも「吾輩は〇〇である」なんて名は無用だろう。無名の帝王なのだから。そして誰かのためになどとは考えず、ただひたすら自らの満足のために打ちこんで、充ち足りたらスヤスヤ眠ってしまう。これが情熱のフルサト、欲望のフルサトでないと、誰がいえよう。 「私はアキが私達の部屋に住むようになり、その孤独な姿を見ているうちに、次第に分りかけてきたように思われる言葉があった。それはエゴイストということだった。(中略)肉慾の場合に於ても単なるエゴイズムは低俗陳腐なものである。すぐれた娼婦は芸術家の宿命と同じこと、常に自ら満たされてはいけない、又、満たし得る由もない。(中略)「己れの欲するものをささげることによって、真実の自足に到ること。己れを失うことによって、己れを見出すこと」私は「無償の行為」という言葉を、考えつづけていたのである。」(『いずこへ』坂口安吾) 「幻想我と現実我、ナルチシズムとエゴイズムは根本的に対立する。ここに、人間存在の克服しがたい永遠の分裂と葛藤の源泉がある。」(『ナルチシズム論』岸田秀) 安吾も飛騨の匠たちもわかっていたのではないか、自由は孤独なものであり、その攻撃性が挫折しないためにはエゴイズムを捨てる、つまり、無名性が条件であると。そうか、新潮に認められたのも、時代が彼の芸術に追いついたからなどではない。 「カストリに酔い、ヒロポンを注射して暴れ、競輪の不正を告発したりする彼に、世間は冷たく、彼を狂人として扱った。昭和三十年、四十八歳で安吾は死ぬが、その時彼はすっかり忘れられた人であった。」(『百人一語』梅原猛) さらに付け加えると、昭和二十六年には税金滞納で国税庁と闘争したり、奇行ばかりが目立っていた。坂口安吾?誰それ?ああ、あの変人ね。彼の名声が地に堕ちた無名性ゆえの会心作だったに違いない。 2024年9月12日

KOKOKYOSHI

TVで真田広之が米国でエミー賞総ナメみたいなニュースをみて、何となく、三十年ぶりに真田が主演のドラマ「高校教師」を見たくなった。コンプラ的に日本では再放送されないという噂だが、YouTubeで全編見ることができた。最後の列車でのシーンについて、心中説が一般的だが、他に自殺説など、いくつかの解釈があるという。これについて脚本を書いた野島伸司は「二人の生死の決定はもはや作家の圏外で、視聴者が決めればいい」と語っている。また主演の真田は続編のオファーを断った際の理由として「死んだはずの人間が生きていたという話はおかしい」と説明している。なので、先生(以下、羽村)の死亡は確実だが、問題は生徒、繭の生死だ。夢のようなドラマのラストシーンからはどちらにもとれるので、好き勝手に考察してみた。 「人間には三つの顔がある。一つは自分の知る自分。二つ目は他人が知る自分。もう一つは、本当の自分」「本当の自分はどうしたらわかるの?」「さぁ、きっと自分が何もかも失った時にわかるのかも」「じゃあ、知らない方が幸せだね」(第三話 動物園にいくバスの中での会話) 「助けて」という手紙を匿名で羽村の下駄箱に投函しつづけていた繭は、父親との近親相姦という境遇から、誰かに救い出してほしくて、たまたま羽村に求めたに過ぎない。全部守ってあげる、というセリフに母性はあるが、恋愛感情があったかはわからない。 「人間はね、本気で人を愛すると狂いますよ。理性やモラルなんて何の歯止めにもなりません。例外なく人間はね」(第十話 入院中の藤村先生が羽村にいうセリフ) この藤村という人物のセリフは重要だ。野島自身が演者の京本政樹に「この役は深い役なんだ。藤村には『愛は永遠だ』という価値観がある」と語っていたというほど。 「頭がなくてもオスの性行為は止まりません。昆虫の頭は抑制中枢神経の座があるので、メスは頭を食べることで性行為を活発化させることができるんですね」「とにかく、力でもメスにかなわんちゅうことやろ?」うなずく羽村「哀しいんやな、オスって」「まったく」「けど、ほんま、お前何でもよう知っとるな」「経験のない知識だけですけどね」「それって、もっと哀しいんちゃう?」(第三話 羽村が新庄に語るカマキリの共食いの話) こういうさりげないウンチクもドラマの最後を暗示していて、頭を喰われて死んでも、本望を遂げたカマキリのオスのように、自殺した羽村はハッピーエンドだったのだろう。それは「本当の自分」がわかったからなのか? 「もちろんわたしも、外に表われている個人の現実の姿以外にその個人の可能性がないと言っているのではない。しかし、そういう可能性が個人の「深層」に抑圧されているとすれば、それは彼が認めれば不安に襲われるような可能性だからであり、「真の自己」のような都合のいいものではない。」(『くたばれ「自己実現」!』岸田秀) 八十年代半ばは、そういった「真の自己」の追求=「自己実現」といった心理療法やカウンセリングが一般的にあったようだ。それがのちにオウム真理教(統一教会や創価学会もかな)のようなカルトを生んだのではないか?繭にとって「本当の自分」とは、他人が知らない、自分だけが知る自分、つまり、実の父に抱かれている自分であり、ゆえに他人は「知らない方が幸せ」なのだろう。ここに羽村との乖離がある。 「君はただそこから逃げたくなって、僕と寝たんだ!」(第十話 二人でバスケをやってるシーンでの羽村のセリフ) 彼もうすうすわかっていた。これに対し、何も答えず、その場を立ち去る繭。動揺した目は何を語るか。 「「助けて」と書きつづけた彼女を教師として受け止めることはできるんです。けど男として僕は拒絶してしまうんです。いや、嫉妬なのかもしれない。どうしても、彼女と父親の間には割って入れないものを感じて、苦しいんです」(第十話 新庄と飲んでるシーンでの羽村のセリフ) そこに無理矢理、割り入ろうとして、空港で刺したのかもしれない。もうほとんど頭を喰われて抑えの効かなくなったカマキリのオス状態で、空港までタクシーで行ってしまう。電車で行くという思考すら無理。 そして最後、故郷への列車に乗るシーン。カバンも持ってない、新庄からの餞別も受け取ろうとしない。一人で死にに行くのに必要ないからだろう。すべてここからの回想がこのドラマの全部なのではないか。 「僕は今、本当の自分が何なのか、わかったような気がする。いや、僕だけじゃなく、人はみな、恐怖も、怒りも、悲しみも、まして、名誉や地位や、すべての有形無形のものへの執着もない、ただそこにたった一人からの永遠に愛し、愛されることの息吹を感じていたい、ただそれだけの無邪気な子供に過ぎなかったんだと」(最終話 列車の中での羽村の語り) これぞ、ナルチシズムの極み、幻想我であるならば、「自己実現」とか「真の自己」とは正反対の頼りない姿だろう。 ここにまさかの繭が現われて、一緒に弁当を食べ、赤い糸で結ばれて眠るように心中した、というのが実際の映像で、それが一般の解釈というが、果たして、繭に死ぬ理由があるのだろうか。本当の自分、それを他人が知れば嫌いになるであろう自分を支えていた父親も死に、あとは他人が知る普通の自分として生きていけばいいではないか。 「現代の女性には絶望してるんですよ。僕だけじゃない、あなたたちも含めたすべての男性がね。彼女たちはすべてにおいて利己的です。純粋な母性を持っているのは性体験のないティーンの間だけだ。むろん個人差はあるでしょうけどね」(第九話 藤村が隠していたビデオを発見されるシーンでのセリフ) 「悪いのは僕を愛さない女たちじゃないか。愛されることばかり求める女たちじゃないか。誰かに愛されたかっただけなんだよ」(第九話 屋上で新庄に殴られる藤村のセリフ) この作品、教師と生徒の禁断の愛を主軸に、同性愛や近親相姦といった重いテーマのオンパレードなわけだが、その中でも一番重要なテーマは、小児性愛、ペドフィリア。繭と父親との関係も十四歳から始まっている。この作品が平均22%、最高33%という高視聴率にも関わらず、テレビで再放送されない理由もそこなのではないか。実はあまり一般には知られていないが、現実世界で一番厄介なのが、この小児性愛。日本ではジャニーズ問題がようやく明るみになったが、世界ではエプスタイン島に象徴される要人による小児性愛、人身売買がまだ明るみになっていない。 さて、いよいよ結論。繭は心中したのか?その答えは脇役に秘められている。 第七話に出てくる風俗嬢の亜弓は、大きな夢を描いて一緒に田舎を出たはずの彼氏に裏切られてバスタブで自殺する。一度は信じあった男女の悲しい成れの果てを見てしまう繭。第五話でバスケ部の佐伯先輩とレズの関係を求められて冷たくした繭だが、転校することになった佐伯が最後に投げたセリフ、「あなたもいつかきっと男に幻滅するのよ」、ここら辺が繭の未来を暗示しているような気がする。羽村も父親も勝手に死んでしまい一人残された自分。男なんて弱いもんね、女は案外強いのよ、ネコの落書きでもしながら利己的に生きていくこともありうる。いや、そうであってほしい。 蛇足だが、羽村が服毒したのは、あさま号の席で珈琲を飲んだ後、顔を洗いに行く時ではないか。席に戻ってくる頃には幻覚が始まっていて、それ以降の弁当シーンも二人が眠るように死んでるラストシーンも羽村の夢であろう。 2024年9月19日

秋の夜長にアニメ三昧

火垂るの墓をみてみた。何度目かな?かなり久しぶり。しかし冷たい人間ばっかやな、昔から。日本人は無宗教だからかもな。私欲ばかり。そやからこの兄妹愛が際立つ。しかしこの兄妹愛もどこか不自然というか異常な気も。野坂氏にも実の妹が二人いたそうで、上の子は病死、下の子は「節子」のように餓死。この二人の妹が合わさった感じなのか。餓死した妹には泣き止まぬときに脳震盪おこさせてたなんてずいぶんひどい。そんな申し訳なさも込められてるみたい。実話を基に脚色した物語なので、そこは不自然なのも当然か。でも戦争遺児の悲惨な物語としてはこれで十分説得力がある。あくまで子供視点なので反戦の意図もなし。天災みたいなもの。他人の冷たさが際立つのも弱者ゆえ。全くイノセントな物語になってて、そこがいい。全部大人が悪いのに、一つもそんな描き方でない。犠牲になるのはいつも弱き被害者。そういう立場が文学的。野坂というと私的にはこっちが好み。「お父ちゃん、もういっぺんだけ、お父ちゃんに抱かれたいわァ。お父ちゃんの匂い胸いっぱいに吸うて、それで知らんうちにねてしまうねん、お父ちゃんの体はいつも熱うて、汗かいとってやったな、お父ちゃん、もういっぺん来てほしいわ」(『マッチ売りの少女』野坂昭如)最後はマッチ一本で焼身死。火垂るの墓と似てる。どんな不幸な人もこれよりはマシと救われる。悲惨だし不幸のどん底ではあるが、魂はメラメラと燃え尽きる人生のようで、それが生き生きとした文学の力になってる。文学が死んで久しいとしたら、日本人がこういう魂が燃えるような生き方をしなくなった、つまり日本の魂が死んだんだろう。 話は変わって、999(さよならの方)もみてみた。リマスタなのか絵がキレイすぎて、原画のアラが目立つ。メーテルだけは綺麗に描けてる。シリーズ中一番かも。名作はいつ見ても発見がある。機械化人vs人間というメタファー、今のアメリカの分断とか、西側とBRICSの構図に見えてくる。大アンドロメダでの祝賀パレード、背景のビルが何とも子供の絵みたい。それがかえってユートピアっぽい。その理想郷はある巨大な秘密で支えられている。それを見れるのは女王陛下だけという超トップシークレット。つまり生身の人間を眠らせて幽霊列車で運び、工場で命の火を抜き取って、小さなカプセルとなり全宇宙の機械化人に供給されるというシステム。永遠の命なんてウソじゃん、人間殺してんじゃん。温暖化とかSDGsなんてウソじゃん、森林破壊してんじゃん、みたいな。なんか、メーテルがトランプに見えてきた。インチキ不正選挙、イラク戦争に911、ウク、ガザ、世界各地で戦争を起こして大儲け、邪魔者は暗殺し、裁判所も買収、メディアも乗っ取り、芸能人や政府要人たちはかっさらった子どもと戯れ、地下に閉じ込めて虐めて、脳髄液を抜き取り若返りの妙薬を調合、最後は食ってしまう。平和で豊かな文明社会と思われてきた西側欧米が実は悪魔のシステムに支えられたユートピアだった、みたいな。日本人は幽霊列車(いわば大手メディアの謂か)で運ばれる眠った人々で、もうじき命の火を抜き取られる、ワクチン注射で。そして繁栄する医療業界と、それとつるんでる金融業界や政腐。そういった諸々をすべて飲み込んでしまうサイレンの魔女が本当にきたらいいのに。最後、メーテルが母と宇宙船でたどり着いた小さな星で母を悼むシーン、会社をゼロから立ち上げて世界企業まで成長させたのに大恐慌か金融リセットですべて失って、丸裸にされたみたいに見えて、笑えてきた。ファウストと鉄郎が出会うシーン、時間の彼方に旅させるとか、あれはキッツイなー。母が機械伯爵に惨殺される現場を本人が目の当たり。食い止めて時間の流れを変えようとするも、抵抗できず。あれはキツイよ。鬼滅の刃もパクるわけだ。本当天才だ、レイジマツモト。しかし実父と再会、決闘って、スターウォーズのパクリですよね? 2024年9月26日

赫い靴

映画『サウンド・オブ・フリーダム』をみた。赤い靴、はーいてた、女の子、いー人さんに連れられて行っちゃった。昔から日本でも子供をさらって売り飛ばすなんて人身売買はあったんだろう。ていうか、あまりに貧しくて、親が子を売っていた時代もあったと聞いている。野坂昭如の「マッチ売りの少女」なども戦後間もない頃の話だが、主人公のお安は人攫いではなく、十六で母を殺して、父を求めて家出して、自ら身を売りに東京や大阪を放浪する話。ところが父は六歳の時に亡くなっており、ほぼ記憶にない。誰彼かまわず、あんたお父ちゃんやない?と身を売るうちに、ヤバイ病気になり、二十四にして四十にしか見えない風貌に成り果て、最後は公園に立ち、マッチ売りの少女のようにマッチの火でご開帳というところまで堕ち、不鎮火により焼死を遂げるという壮絶な話。このように女性の場合、ある年齢になると自ら身を売る人がいまだに絶えない。それがみんな経済的な貧窮からでないのがいかにも現代的。「男の人に”セックスしたい”ってアピールされて、断った時にガッカリされるのが怖いっていうか。”明日から連絡なくなるんじゃないか”とか、”アイツはもう要らない”とか言われる気がして……。性的な役割でも、他人に必要とされているのは嬉しかったんです。」(『なぜ、私は誰とでも寝てしまうのか』福田光睦 2024)こう語る女性も早くに両親が離婚し、母子家庭でリスカを繰り返し、援助交際で稼ぐようになって母も田舎も捨てたという。ここに体を売っているという罪悪感はないのではないか。この女性、後にAVにも出て、3大NG、要は汚れ仕事専門を自らすすんでやるが、それが「楽しかった」という。「ダメ人間とヤッてる方が素直になれるし、自分らしくいられる。」とも。わからなくもない。老人の下の世話ばかりやって介護職ってかわいそうだね、と世間一般は思うのかもしれないが、やってる本人たちは自らすすんで、使命感すら持ち、時には楽しんでいるかもしれないから。売春と介護、全然ちゃうやん!と?同じ人間相手ですよ。需要があるから立派な商売です。商売とはコミュニケーションです。じゃ、子供を売り飛ばすのも需要があるからいいではないか。成り立ってしまう世の中が悪い。もし莫大な報酬の一部でその子たちの身なりや生活が潤うなら、そのうちヤリガイを持つ子も出てきたり、優しいオジサンが「かわいいね」なんて褒めてくれて、ああ、生きててよかった、なんてトキメク瞬間もあるかもしれぬではないか。 肝心の映画は、まるで「踊る大捜査線」みたいにスリリングな、誘拐少女救出作戦として描かれていて、エンタメとして成功していた。また主人公の警官がいろいろな困難な状況に遭遇しても、これは仕事としてではなく、子を持つ一人の父としてやるんだ、みたいな感動の話に仕上がっているのも英雄伝説的でグッド。あとで時間をみたら二時間ちょいの尺。コロンビアの秘境での救出シーンが意外と簡単に思えたわりにちゃんと長い作品なのも、そこまでの弟君の救出とか、そもそも二人が拐われるところから始まっているから仕方ない。救出劇にもっと尺をとっていたら、もう一時間くらい長くなって、さすがに耐えられない。ただでさえ目を伏せたくなるヒドイ話なのだから。あそこはサクサクっと救出が進んで、メデタシ、メデタシでエンドロール、という急展開の方が、最後の役者からのシリアスなメッセージを伝えるのには大正解だろう。そのメッセージ、要はみんながこの事実を知って、共有することが問題解決にとって希望なんだという感じ。その通りですね。ジャニーズ問題にしてもBBCの番組がきっかけだったし、ペドの問題は権力側が深く関与しているから、なかなか内的圧力でエグることが難しい。エプスタインにしてもディディにしても、今のアメリカは分断してるから、外部圧力で明るみになったといってもいいんじゃないか。バイデン・ハリス政権じゃ無理だろう。むしろ不法移民をどんどん入れて人身売買の原因をつくってる側だから。日本も現在、年間9万人の子どもが行方不明というが、インバウンド大歓迎みたいな移民政策をやっていると、今にお宅のお子さんも異人さんに拐われて、偉人さんに高値で売り飛ばされますよ。 2024年10月13日

シン・ニッポン

「例の藤尾文部大臣(当時)の「放言」と、それにつづく中曾根首相の「人種差別発言」のおかげで、この文章がにわかに注目を浴び、この問題に関してあちこちのテレビ、新聞、雑誌からインタビュー、対談、原稿の依頼が殺到し、某官庁や某大学からは講演の要請まである始末」(『日本人は親米か反米か』岸田秀 1987) おそらく「この文章」とは、ペリー来航以来の近代日本が、アメリカに屈従、迎合する外的自己と、憎悪と攻撃、誇大妄想的誇りに走る内的自己とに分裂した、精神分裂病であるとする『日本近代を精神分析する』(1975)だろうと思われる。 また「放言」とは、藤尾大臣が雑誌の対談で「韓国併合は合意の上で形成、韓国側にも責任がある」と発言したことから罷免され、「人種差別発言」とは、中曾根首相が党の講演で「日本は高学歴社会になっていて、それに比べたらアメリカは黒人とかプエルトリコ、メキシカンなどが相当にいて、平均的にみたら知的水準が非常に低い」と発言し、米議会で弾劾決議案にまで発展した問題。そのときの中曽根の謝罪文がこちら。 「私は、最近の私の発言が多くのアメリカ国民を傷つけたことを承知しており、心からおわびします。唯一つはっきりさせておきたいことがあります。それは、私は、従来からアメリカの偉大さは、その多様な民族の活力と業績に由来するものであると確信しているということであり、私は、人種差別や、米国社会のいずれかの面を批判することを毛頭意図していなかったということです。」 この問題について岸田氏はこう分析する。 「日本は親米であると同時に反米であり、親米と反米との葛藤と対立を解決できないでいることが近代日本の最大の問題」(『日本人は親米か反米か』) 今から40年も前だから、とっくに日本はその葛藤を克服?と思いきや、昨今のコロナワクチン政策やウクライナ戦争支援、LGBT法案の速攻可決など見ていると、相変わらず従米式の外的自己に走ってるとみえる。その流れはどうやらもっと前からだったようだ。 「いわゆるGHQ(ジェネラル・ヘッド・クォーター、占領軍の総司令部)方式というのは、国家規模での民主化政策というソーシャル・エクスペリメンタリズム(社会的実験主義)あるいはソーシャル・コンストラクティヴィズム(社会的設計主義)のことでした。(中略)アプレゲール(大戦後)の日本とは、アメリカナイゼーションの実験国家ということであったのです。(中略)ニッポン列島はアメリカのテリトリー(属州)である、つまり「投票権なき自治領」である、といってさして過言ではありません。「日米同盟」なる防衛論での用語も噴飯物でしかなく、自衛隊はアメリカの属軍であるにきまっているのです。(中略)軍事を外国の差配の下におけば、外交において独立が保たれるわけがありません。そうなれば、すでに「デモちゃん、クラちゃん」の流儀で設計されている内政がアメリカの要求にいっそう順応する成り行きとなります。その総仕上げがこの平成期に、アメリカから日本へのいわゆる「構造改革要望書」という形で行われてきたことについては、わざわざ検証する必要もありますまい。もう一度いいます、戦後の(日本人ならぬ)ニッポン人は、敗戦・平定・属国・隷従民族なのです。」(『文明の敵・民主主義』西部邁 2011) 主要メディアがよく使う文句「失われた30年」とは、80年前からGHQによって設計済みだったわけだ。そのアメリカ様のご意向の代行役、外的自己を担当してきた自公政権が、先の衆院選では大敗。そろそろ隷従民族も気づき始めたらしい。 「「デモちゃん、クラちゃん」がそうなるのを望んだのですから、反米を唱えても致し方ありません。唱えるなら反「親米」であるべきなのです。」(『文明の敵・民主主義』) 保守、保守といっても、それは戦後保守であって、つまり「親米」保守にすぎず、真の保守とは何か?と考えさせられる。 一方、アメリカの方も、今回の大統領選では相当、深刻に分断というより、分裂しているのが浮き彫りになった。 「内的自己と外的自己が分裂し、たがいに切り離されると、内的自己も外的自己もともに歪み、変質する。外的現実との関係をうまくやってゆくことを役目とする外的自己から切り離された内的自己は、現実が眼に入らなくなり、誇大妄想的となる。(中略)被害妄想的にもなる。そして、自尊心とアイデンティティを保つことを役目とする内的自己から切り離された外的自己は、目の前の相手とうまくやってゆくことだけに心を奪われ、ひたすら屈従と迎合に走り、(中略)相手を過度に理想化し、崇拝するようになる。このようにともに歪み、変質した内的自己と外的自己とでは、もはや同じ話し合いのテーブルにつくことはあり得ず、内的自己の立場から見た外的自己、外的自己の立場から見た内的自己はともに、考えられないような馬鹿か変人である。」(『日本人は親米か反米か』) 大統領選の結果を受け、アメリカを出国したり、断髪したり、絶叫して、暴れまくってる民主党支持者がいるらしいが、彼らからするとトランプは悪魔であり、その支持者は「馬鹿か変人」であろう。また、勝った共和党支持者側は、そうした民主党支持者の言動や行動を「馬鹿か変人」と思っているにちがいない。つまり、アメリカ社会にも外的自己(民主党)と内的自己(共和党)が存在する状況となっており、今回の選挙では内的自己が大勝利したわけだから、トランプはアメリカの「自尊心とアイデンティティ」を取り戻すために、アメリカ・ファーストの政策を実施するだろう。負けたハリス陣営は外的自己として「目の前の相手とうまくやってゆくことだけに心奪われ、ひたすら屈従、迎合に走り」それが過度な平等主義、LGBTや移民政策であり、大半の国民から敬遠されたのだろう。 「要するにアメリカは、個人にたとえれば強迫的な性格神経症者であると言うことができよう。精神分裂病と同じく、性格神経症も経験の欺瞞に発する。(中略)自我がある程度発達したのちに行なわれ、より能動的、主体的である。つまり、経験は当人の都合のいいように偽られている。(中略)同種の経験が強迫的に反復されるようになる。その強迫的反復は、経験の欺瞞が暴露され、当人が真実を認識するまでつづく。」(『アメリカを精神分析する』岸田秀 1977) 日本人とアメリカ人の病のちがいは、本人が主体的に欺瞞を行なっているか、あるいは、他者に押しつけられたかだという。要は、日本はアメリカの主体的欺瞞の犠牲者、被害者で分裂病になったという。じゃあ、アメリカと縁を切るか、日米合同で先住インディアンに大々的に謝罪し、慰霊塔でも建立すればいいか?それは冗談として、結局、両者の病の根元である経験の欺瞞について、真実を認識することから治癒ははじまるのではないか。そういえば、トランプ氏が設立運営するSNSの名は「Truth Social」といい、彼は大統領に就任した暁には、CIAやFBIがらみの暗殺や策謀など様々な機密情報だけでなく、人身売買に加担した者のリストを公開するといい、彼の片腕にもなったイーロン・マスクにせよ、ロバート・ケネディJrにせよ、タッカー・カールソンにせよ、彼らは日本でいうなら「暴露系」であり、民主系にいわせれば「陰謀論者」であろう。一方、日本ではガーシーはすでに暴露系から足を洗い、彼が播いたタネはジャニーズ問題へと発展し、統一教会や創価学会と政界の癒着や裏金問題など少しずつ「真実の認識」は進んでいるようにみえるが、トランプが日本もジャパン・ファーストでやっていいよ、と言ってきたらどうするのだろう? 「日本の場合、反米、親米と言っても現実的、合理的レベルのものではなく、むしろ、憎米、屈米と言ったほうが当たっている。このことは、戦争中と戦後の日本をふり返ってみれば容易に納得がゆくであろう。戦争中は内的自己がのさばっていて、外的自己を排斥していた。外的自己の立場に立つ人たち、戦争に協力せず、日本の勝利を疑う人たちは、たとえどれほど賢明に冷静に日本のためを考える人たちであろうと、アメリカのスパイであり、非国民であった。(中略)内的自己を代表する軍人たちが立てた作戦、行なった戦闘は、(中略)情報や補給などの現実的条件を無視し、ただひたすら大和魂や必勝の信念を強調した馬鹿げたものであった。」(『日本人は親米か反米か』) 日本の軍人、作戦がすべてそうだったのか?例えば、秋丸機関のような合理的な研究組織による現実的な作戦が実行されなかったところに、国民的な分裂病の歪みがあったと言えようか。元軍人の作家が終戦直後の状況を俯瞰してこう語る。 「終戦後のいまとなっての人々の言説を読んだり聞いたりすると、きまって、「生命が惜しかった」とか「戦争は儲からぬ」とかいった安易な平和愛好論が堂々とした正論として唱えられているのは(中略)やはり日本民族の人間性の貧しさを思わされた。それでは、かりにどんなにまちがった平和であるとしても、それが表面上平和である以上いいというのであるか。ひたすらに一身の安穏さえ保てれば、どんな卑屈な生き方でもしていいのだろうか。それが正論としたならば、自己犠牲とか正義を愛する勇気とかいうものは三文の価値もなくなるというのか。(中略)「人間は誰でも幸福を追求する権利がある」という言葉の、幸福なるものは、いまの日本人の間では、何と勝手に、安手に考えられていることであろう。」(『渇く日日』田村泰次郎 1946) そういえば、最近何かとネットで話題の、兵庫県知事選。ここでも卑屈な利権屋とマスコミとが結託して、合理的な知事を辞職に追い込み、その出直し選挙で、まったく知事と関係のない立花党首が正義の使者のように立候補して、街頭演説や政見放送で真実を暴露しまくっていて、失職した元知事の街頭演説を聞きに集まった有権者たちがこぞって「テレビにだまされて、知事さんごめんなさい」と謝ってる光景が面白い。「正義とか犠牲的勇気」というものに人々が真に価値をおくような時代になった時が、近代日本が分裂病を克服し、「新日本」として生まれ変わった時ではなかろうか。 2024年11月12日

古今和解集

尹大統領による戒厳令が宣布からたった六時間で解除され、内乱罪で弾劾されるに至った一連の流れをみていて、最初は米国大統領選とよく似てるけど正反対の結果だなと思っていたが、いや、ひょっとすると、これはこれで正しい朝鮮半島史の一頁なのかもと思い始めた。というのも、このままいくと半島統一という流れになりそうだが、同じことが過去にもたびたび起きている。 「7世紀に新羅は中国大陸の唐と軍事同盟を結び、百済・高句麗を相次いで滅ぼして統一新羅国家として朝鮮半島の大部分を統一した。(中略)10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。」(Wikipediaより) こうした半島内の内乱、いわば戦国時代の後、近代以降は日本など諸外国による占領統治を経て、朝鮮戦争後はまた南北に分断し内乱状態となっている。それがようやく統一というなら本懐ではないか?もう内乱はコリゴリだから弾劾せねばならないのでは? 「百済が滅亡し、大勢の百済人が列島に逃げてきたらしいですが、当時の記録には「百済から来た連中とは通訳は要らなかったけれど、新羅とは通訳が必要だった」とあるそうです。(中略)百済の滅亡により消滅した百済語といわゆる大和言葉と同系統の言語で、当時の新羅語がいまの朝鮮(韓国)語の原形である可能性もあると思います。」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) この白村江の戦い(663年)で、倭軍の指揮をしたのが中大兄皇子(天智天皇)で、彼は百済人ではないかともいわれている。 「高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ系、クダラ系、シラギ系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。」(『安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――』坂口安吾 1951) 「ともかく、白村江での大敗によって倭人は韓半島から追い出され、そのため、大帝国の唐が列島にまで攻め込んでくる危機を感じたか、または、唐軍が列島の一部を占領したという事実があって、危機に対処するためにそれまでばらばらだった豪族たちは急遽まとまって中央集権体制を作り、日本という国を作ったのではないかと考えられます。」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) 「ともかく日本統一の機運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったと云えよう。支那の文物を直接とりいれる機運のたかまると共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。」(『安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――』坂口安吾 1951) ともかく日本は唐に対抗すべく統一国家として誕生したわけだ。 「中国大陸からやってきた渡来者は「われわれは外国からやってきたのではなく、天から降りてきた神の末裔なんだ」という物語を作って先住民を心服させ、共同体に取り込もうとしましたが、(中略)唐に対する日本の従属と劣位を否定し、われわれは唐の属国ではない、唐とは関係ない神の子孫であり、神である天皇が支配する神の国なんだと主張したということです。」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) ここまでの話で違和感を感じる人もいるかもしれない。 「戦前の歴史教科書には、白村江の戦いで敗北した話はいっさい出てきません。なかったことになっています。(中略)白村江で負けたことを隠蔽し、日本を建国したのが主として中国大陸や韓半島からきた連中であったことも否認して「日本列島には純粋な日本民族が昔から住んでいて、天から降りてきた神の子孫である天皇が統治する神の国だ」というフィクションを作ったのです。(中略)現在も、日本人は単一民族であり、大陸とは関係なく日本人だけで独自の文化を育んできた、という幻想が心のどこかに潜んでいて、この幻想の上に日本人のプライドやアイデンティティは成り立っている。」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) そういえば、最近SNS上でたびたび炎上しているクルド人問題とか、奈良公園の鹿への乱暴とか、神社の鳥居にぶら下がるとか、日本人には目に余る外国人の暴挙への批判なども、その根底には上記の幻想が影響しているのではないか。 「外的自己と内的自己との分裂はあらゆる面に表れるのです。たとえば、日本文化と外国文化は対立するという前提に立っています。その前提に立って、外国文化を崇拝したり嫌悪したりしています。(中略)国際化すれば、それだけ日本人としてのアイデンティティが傷つき、失われると思っている」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) たしかに世界遺産になって富士山は心ないインバウンドによってゴミで汚れるし、先ほど日本の伝統的酒造りがユネスコの無形文化遺産に登録されたが、変に高級化して値上がりしたら嫌だな。こういう心境の先に、移民への反感や、K-popなどへの嫌悪もきているのではないか。さて、お隣はめでたく念願の半島統一へ向かうとして、我が国はアメリカの支配から解放されたのち、どのような道を歩むのか? 「唐の衰えと共に、禁止されていた大陸との私貿易が活発化し、大国である唐から侵略される危険がなくなり、(中略)八九四年に遣唐使が廃止します。結局、唐は九〇七年に滅亡して(中略)その二年前の九〇五年には古今和歌集の編纂がスタートしました。東アジアの旧秩序が崩壊しようとするこの時期に、仮名序、つまりひらがなで書いた歌論から始まる古今和歌集が編まれたことはとても興味深いです。これを天皇家が版元になって作ったことは、中国文化からの独立宣言のような意味合いをもっていたのではないでしょうか。」(『日本史を精神分析する』岸田秀、柳澤健 2016) さて、トランプ政権がスタートした暁には、日本も米国文化、あるいは欧米文化やグローバリズムからの大胆な独立宣言をするのかもしれない。そのとき天皇家が出てくるかはわからないが。 2024年12月16日
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