2025年1月26日
兵庫県の県議員がSNS上で拡散された誹謗中傷が原因で自殺というニュースがあり、政府はネット言論の規制を検討するといい、ネットではそれは言論統制だと炎上。このような、死につながらなくとも、心ない言葉で殴り合うメディア言論については、自分の言動も含め、いろいろ考えさせられる。
「どんどん発達していくことに伴って、よくない問題が出てきたら、その都度、どういう防ぎ方があるかとか考えればいいんで、発達していくこと自体を阻止しなきゃいけない理由はちっともないんですよね。小さな分野での問題を、全体論議にしちゃうのは、僕は違うと思いますね。」(『悪人正機』吉本隆明、糸井重里)
たしかにSNSの発達によって、今まで人の目に触れなかった事柄というのもあろう。それを規制によって阻止しなきゃいけない理由があるとしたら、人の目に触れられては困る事柄があるからだろう。
「メディアでは、けっして触れてはいけない「タブー」が3つ存在した。1.ジャニーズの性加害 2.財務省のカルト的財政緊縮主義 3.日本航空123便の墜落事件 この3つに関しては、関係者の多くが知っているにもかかわらず、本当のことを言ったら、瞬時にメディアに出られなくなるというオキテが存在する。それだけではなく、世間から非難の猛攻撃を受ける。下手をすると、逮捕され、裁判でも負ける。」(『書いてはいけない』森永卓郎)
そんなオキテを命懸けで破って、タブーを犯して、巨悪と戦い続けた森永氏がつい先日、予告通り、癌で逝去された。生前、放っておけばどうせすぐ死ぬ身だから、誰も口封じで殺しにこない、自分は今、最強のカードを持ってるとおっしゃっていた。それでも1年近く生き延びて、本を書きまくって、ネット配信にも出まくって、元気なお姿を見せておられたので、死ぬ死ぬ詐欺ではないかとも言われたが、やはり嘘ではなかった。だから暴露も本当なんだろう。ジャーナリストとして輝かしい晩年であったが、なぜ、彼はその勇気を出せたのか。
「わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃する(中略)第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立し――わたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。(中略)第三に、わたしは決して個人を攻撃しない――個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。(中略)第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。」(『この人を見よ』ニーチェ 手塚富雄訳)
まさに森永氏じゃないか。
「わたしの人間愛は絶えざる克己である。――しかしわたしに何より必要なものは孤独なのだ。」(『この人を見よ』ニーチェ 手塚富雄訳)
「克己」という言葉の読み方と意味を、今時、どれだけの人が言えるだろうか。そんな必要のないベンリな経済社会、科学文明ではないか。
「人類の発達というのは感覚器官の歴史じゃない、じゃあ何だって言うと、フランス人に言わせると魂なんですよ。日本の言葉では心っていうことかなあ。魂とか心とか、そういう言葉で表現されるものは、ギリシャ時代からちっとも変わってない。発達していない。そういうことは、別にメディアが発達することとは関係ないですよ、と僕は言うわけです。」(『悪人正機』吉本隆明、糸井重里)
むしろ、逆にSNSやAIが発達するほど、魂の卑しさとか、心の貧しさばかり目につくのはなぜだろう。
「生きているわれわれは、死んでゆく人たちに対して「他人」でいることができます。週刊誌は「他人」の目を代表する「他人」の雑誌です。『女性自身』も本当は「女性他人」と改名すべきです。私たちは「他人」の一人として、笑い、歌い、泣き、怒っていられるのです。自分があらゆる他人に見捨てられて死んでゆくときまでは――。」(『おわりの美学』三島由紀夫)
文学者として自己の魂と向き合い続けたであろう三島ですら、死ぬ直前にして初めて、そのことを書いてみようと思ったのではないか。ましてや、凡人となれば、他人の一人として他人を叩いても、そのことに気づかないだろう。
「現代の資本主義社会には生活はない。あるものはただ宿命だけだ。」(『アメリカ論』ジャン・ポール・サルトル)
それが現代社会ということだろうが、問題はそれだけではないようだ。
「「みんな神経症に罹っているといわれる現代」ということであるが、精神分析理論によれば、人類ははじめから神経症であった。(中略)とくに現代が神経症の時代というわけではない。ただ、近代においていろいろな形での集団神経症がますます崩れて、人類の神経症が個人の位相に押し戻され、現代人は、みんな一緒の集団神経症ということよりはむしろ、それぞればらばらな個人神経症に悩むようになったという違いがあるだけである。」(『人生をますます苦しく過ごす三つの方法』岸田秀)
岸田氏によれば、そんな個人の神経症的悩みは他人に話してもアホらしいと思われるだけなので、解決を諦めて、別の悩みにすり替えず、他人になすりつけず、ありのままに悩んでいればいい、という。それができれば問題は起きないのだろうが、この経済社会はその「すり替え」によって発達して、宗教や学問なども「解決」を求めて発達し、現代文明は人類の個人的神経症を栄養にして成長してきたともいえ、その副産物として「なすりつけ」が、いじめや戦争、誹謗中傷となって、負の側面になってると言えなくもない。
「私は先日新潟へ旅行したら、古町のミヤゲ物屋に良寛の書の模型が売られていた。その額には
天上
大風
とあった。泥になった仙人でないとこんな文句は考えつかないと私はしみじみ思ったのである。むろん良寛は仙人だ。」(『豊島さんのこと』坂口安吾)
メディアとは「天上」であり、そこが「大風」吹き荒れている昨今、そんなとこには近寄らず、とことん地上を這いまわり、さらに下へ、泥の仙人となれ、ということか。
「生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。」(『不良少年とキリスト』坂口安吾)
こうイキってた人が死ぬ直前にもなると、泥になった仙人の気持ちがわかるらしい。わたしにはわからないけれど、その良寛の書よりも、その模型をせっせと拵えた無名の職人?が、数ある良寛の名句の中からこの言葉を選んだ心に、なぜか親近感を覚える。
2025年2月7日
ギターにとってナットは人間の喉みたいなものだ。一見ちゃんとなってるように見えてもしっかりセッティングされてないとギターは音痴になったり、発声が悪くなる。プロのリペアマンなら常識だろうが、ヘタに自分でリペアしてるとそのことに気づかない。何でそんなことになってたのか?ロックナットをやめてふつうのナットにした際にアソビができてしまい、非常に薄いプラバンをスペーサーに仕込んでいた。それで何年も使ってたのだが、何となくコードの響きがいまいちだし、リヤPUの音がイタイなと感じていた。ネックも反ってきてトラスロッドを目一杯締めて、フレットをかなり削って、なんとか弾けてる状態。古いから仕方ないのかなと。ピー・プロジェクトという今はもうないメーカーの35年も前に作られたギター。ちょい話はそれるが、それとほぼ同じ時期のやつを最近、駅のホームに貼ってあったポスターで見かけた。色はグリーンだが、たしかにピー・プロだ!誰このグラサンの人?よくみるとトッド・ラングレン。来日するらしい。ちょい調べると彼はそのメインギターをフォームグリーンの色から「フォーミー」と呼んでいて、80年代後半、当時好景気だった日本にきた際に、いくつものギターメーカーからタダでもらった何本かをずっと保管していて、ちゃんとチェックしたらその中で一番気に入ったのがそれだという。いまだにピー・プロ使ってる人はアマでも見かけないから何となく親近感を覚えた。で、自分のピー・プロもあらためてちゃんとチェックしたら、ナットが変なことになってたわけ。先にも記したが、指板とナットの間に0.5mmプラ板が挟まっていた。自分でやったのだが、これでは開放弦でチューニングしてもフレットを押さえると20%ほどシャープしてしまう。これが音痴の原因だ。ネックの反りをロッドで調整せずに対応すべく、底に下駄履かせた0.5mmプラ板も、ロッドを目一杯回した上なら取り除いてもとくに高さの問題もなく、これでしっかりネックにナットが固定された。すると音程だけでなく、中低音も厚く出てきて、リヤも耳に痛くない。そうか、弦振動が隙間でロスしてたのかも。何年も患っていた喉の病気が完治した瞬間だった。
2025年2月25日
「閉ざされた社会の急激な崩壊がまず直接に人民に社会的現実として実感されるのは、経済の混乱と道徳的アナーキーである」と丸山真男は書いている。「多年のタブーの崩壊はいつの時代と場合にも反射的に官能性の奔放な氾濫をもたらす」とも丸山はいう。実はこれは丸山の論文「開国」からの引用である。」(戦後短篇小説再発見2 解説 井口時男)
この「道徳的アナーキー」とはどういうことか?
「明治七年に出版せられたる『東京新繁盛記』の如き、此年頃より十四、五年頃まで連続して出版せられたる『東京新誌』の如き、各新聞紙の雑報の如き、好んで閨房を書き、好んで痴情を写し、好んで肉欲を挑発し、殆ど春宮、淫書に異ならざるものありしにあらずや」(山路愛山『現代日本教会史論』)
昭和大恐慌後や敗戦直後のエロ・グロ・ナンセンスの流行のように、古い時代の常識や慣例が崩壊するとき、たしかに人民のレベルではそういう崩壊が起きるのだろう。昨今は恐慌も戦争もないのに高官レベルでの小児性愛や人身売買が密かに盛んのようだ。しかし、また別の次元では象徴的なアナキストも登場する。
「西郷の「理想」は「文明開化」でも「富国強兵」でもなかった。彼の理想とする社会は儒教の王道楽土であり、彼自身が豊かな文明開化の国の高官になり栄耀栄華の生活を送ることは、耐えられぬことであった。西郷は文明開化の世の中に、おそらく彼の儒教倫理の死を見たに違いない。そしてその「倫理」を失った世の中への怒りが、我々が理解に苦しむ、明治十年のあの「西南戦争」になったのではないか。」(『百人一語』梅原猛)
西郷隆盛という人は、徳川時代、国教であった儒教の中でも、とくに「知行合一」を説く陽明学に影響されたという。「知行合一」とは、真の知と真の行為とは一つのものであるということ。とかく知行は合一しがたいのはなぜか?
「われわれは心の死にやすい時代に生きている。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」という人が無数にふえていくことが想像される。(中略)心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。」(『革命哲学としての陽明学』三島由紀夫)
ここで「平八郎」とは大塩平八郎のこと。
「大塩平八郎は天保八年の二月十九日、兵を起して大坂市中に火を放ち、貧民救済のためにほとんど望みのない暴動を企てたのであった。まず豪商の家に放火し、蔵を破壊し、金穀を四散した。しかしそれは貧民の手には渡らず、徒党の中で金を掴んで逃げたものがたくさんあった。」
これだけ読むと単なるテロリストだが、そんな人物のことをなぜ三島も鴎外も述懐したのだろうか。この平八郎にせよ、西郷にせよ、三島にせよ、知行合一の人には、とかく庶民には理解に苦しむような死に方によってしか世に問えない大問題があるようだ。
「彼(三島)にとって文学、あるいは詩は、そういう奇蹟を現出する魔法の杖であったが、彼は作品の上だけでなく、現実にもこのような奇蹟の実現を夢見たのである。そして戦後の啓蒙的合理主義に導かれた高度経済成長時代が来て、人々が全く奇蹟の足音を感じなくなると、彼はますます懐かしく奇蹟への強い希望に生きていた戦争の時代、特にあの純粋な「天皇信仰」に生きた特攻隊のことを想起したのである。そして彼はその奇蹟の希望を再現しようとして、まことに滑稽と思われる壮絶な死を遂げたのである。」(『百人一語』梅原猛)
3Sに洗脳された高度成長期の人民には「滑稽」としか映らなかった三島の死も、昨今の人口減少や移民による治安悪化、外国人による土地買収などに直面し日本消滅の危機を訴える人民には理解しうるかもしれない。ボディビルで肉体を鍛え上げ「憂国」では俳優まで演じ、ノーベル賞候補にもなって戦後日本に順応していたかにみえた三島が天皇信仰や特攻隊を想起し、楯の会なる民兵を挙げ、自衛隊の決起を訴えて自決したのも単に戦時中を懐かしんだのか。英語が堪能な彼には未来の悲惨な日本が見えていたのかもしれない。戦後日本の新しい時代を歓迎したものの、いざそれが進むにつれ、何かおかしいと行動を起こしたアナキストは三島の前にもいた。
「政府の背後にはGHQの存在があった。すべては糸であやつられたカイライだった。そんな政府であったから、アメリカの都合にあわせて、日本の将来はいとも容易に変えられていった。第二次世界大戦後の世界情勢は(中略)アメリカの対日政策を変化させた。そこで打たれた手というのが、「経済安定九原則」という命令だった。端的にいって、それは(中略)押し寄せてくる社会主義国の波から、自国アメリカを守るため、日本を防壁とする考えからであった。(中略)とにかく日本を、アメリカの防壁の一つにするために、GHQは日本を、「一番近い昔」に逆もどりさせた。それを安吾は怒るわけだが、フンマンの一つが税金の取り立てに反抗することで現われた。」(『聖なる無頼』村上護)
それが『負ケラレマセン勝ツマデハ』という著作になり、その執筆には朝日新聞、文藝春秋、中央公論の記者が協力したといい、一方、取り立てる国税局の部長も対抗して『負ケラレマセン取ルマデハ』なる一文を書いたという。なんとも滑稽な事態だが、日本中が被害者であり、わるいのは戦争であり、アメリカだ、という図式が無意識にあったのではないか。しかし、いつの世も傀儡政権というのは増税ばかりするのはなぜだろう。安吾が現代に生きていたら、先日の財務省解体デモを見物しに行ったことだろう。
彼の狂気としてもう一つ語られるのが、競輪事件。
「伊東競輪では、たいがいのインチキが誰の問題にもされない。競輪を見なれた者にはインチキが分るが、見なれない人にはインチキもよく分らないし、とにかく競輪場で騒ぐ者は最下等国民だという印象だけ強くうけているから、抗議する者のないのが自然の情というものなのである」(『光を覆うものなし――競輪不正事件――』坂口安吾)
「そもそも競輪は「経済安定九原則」の一環として、地方財政の健全化のために開かれたものであった。だが、その周辺には利権に目ざといボスたちが暗躍していた。安吾は日ごろから競輪のボスたちには快からず思っていた。だから不正をあばくよい機会だと考えた。」(『聖なる無頼』村上護)
なんだ、狂気どころか、正義心による、無償の行為ではないか。そういえば、昨今、「利権に目ざといボスたち」に立ち向かう人というと、兵庫県知事と立花党首であろう。安吾の時代と大きく違うのは、ジャーナリズムもまたオールドメディアとして古い利権に属し、インチキを幇助していることだろう。そのインチキには弁護士や警察も深く関与しているようだから目も当てられない。三島がいったように、この日本中が心の死ぬことを恐れぬ人々で占められているということだろう。どうか斎藤知事や立花氏が、西郷や大塩、三島、坂口のような一般庶民にとっては不可解な行動ではなく、その知行が合一し、革命が為されることを願うほかない。
オールドメディアも嘘八百だが、下々のネット言論にも道徳的アナーキーが氾濫して鬱陶しい。
「政治が好きな人というのは、どういう人であろうか。第一に、人を動かすのが好きな人である。世の中に人を動かすことほど面白いことはない。(中略)その点では政治がいちばんはっきりしており、その成否はすぐに結果に表われる。(中略)政治の結果は多くの人びとに影響を与え、多くの人びとが住んでいるこの世の中を動かす」(『政治家とは』岸田秀)
人間にたいして関心がない、ましてやそれを動かすことに興味もない人間にとって、政治が好きな人とは、ただただ騒々しい連中である。
2025年3月21日
恥ってなんだろう。例えば、ネット配信でどんどん服を脱いでいき、さいご、自慰行為に至り、それで収益を稼ぐ人々がいる。何も女性に限らず、男も、カップルもいる。メディアの進化で時と場所を選ばない、より自由なコミュニケーションの時代になっている。彼らのほとんどが下着はタダで脱ぐのにマスクは一番最後に有料配信で外す。今や顔こそ隠すべき最後の恥部ということらしい。全然、話はかわるが、マリ・ボイネというノルウェー出身のヨイク歌手がいる。何かでダウンロードしたDJミックスの中に紛れていて、最近、音楽検索アプリでそれが彼女の「Gula Gula」と知った。彼女は北欧の大自然豊かな、田舎で生まれ、キリスト教信者だった両親のもと育ち、歌手となってから己の先住民の暮らしや音楽に深く関心を抱き、それらが迫害されている現状への怒りから音楽を創作しているという。
あるインタビューで彼女はいう。「子供の頃、いつも歌っていたのは両親が教えてくれた宗教的な賛美歌で、伝統的な歌は聞いたことありませんでした。それは禁止されていたからです。ラジオでしか聞いたことありませんでしたが、その曲が流れるたびに、スイッチを止められました。最初はノルウェー語、英語、スウェーデン語で歌っていました。サーミ語で歌うことは考えたこともありませんでした。でも自分の曲を書き始めると、なぜ自分の母国語を恥じるのだろう、なぜ母国語で歌わないんだろうと自問自答し始めました。なぜ自分の生い立ちに誇りを持てないのかを自分で見つけなければなりませんでした。」
ライブ配信者にも、マリにも共通するのが、恥の力ではないだろうか。正確にいうと、恥をバネに弾ける力。
恥、というのかわからぬが、今まで歪められた歴史観をめくる言論というのも最近、あちこちで聞かれる。明治維新こそはグローバル勢力による日本民族消滅計画の始まりだとか、日米戦争とはその呪縛についにキレて、アジアを植民化から解放するための独立戦争であったとか、教科書で習う歴史はGHQに押し付けられた自虐史観であるという。こういう抑圧された怒りの解放こそが、マリの歌のように、日本が生きる力となりうるのかもしれない。
XのAI、Grokに聞いたところ、心理学的に、恥とは社会規範と自己評価のギャップから生じる一時的な感情で、これが長期的、慢性的に自己の内面に自己肯定感の欠如を感じさせるのが、劣等感である。
恥も積もれば劣等感、恥を脱ぎ捨てられたら怖いものなしなのだが。「人間はなぜ劣等感をもつのであろうか。(中略)それは人間にとって自分というもの―自我と呼んでもいいが―がそもそも他者との比較の上に成り立っており、他者がいないとすれば、自分も存在しなくなるからである。」(『劣等感について』岸田秀)
中には、自分より弱い他者のみ、たたいて優越感にひたる人も多い。SNS上の誹謗中傷もそうだし、毒親は子どもを従属させて、先進国は後進国を植民地支配し、キリスト教徒は先住サーミ族をいじめたのも、ユーエツ感ゆえで、彼らはユーエツ族といえる。
「われわれはともすれば、自分より優れている者と自分を比較し、わざわざ苦しい劣等感に囚われるのはなぜであろうか。自分より優れている他者とは一体、誰であろうか。それは、実のところ、他者ではなく自分なのである。自分だからこそ、気にしないでいることができないのである。自分と言っても、それは、現在の現実の自分ではなく、幼かった遠い昔のナルチシズムの時代、天上天下唯我独尊の時代の全知全能の誇大妄想的な自分である。」(『劣等感について』岸田秀)
なるほど、裸の王様だった頃に還りたくて、ライブ配信で世界に向けて恥も脱ぎ捨てて盛大にストリップショーをするわけか。きっとその最中の気分は「天上天下唯我独尊、全知全能、誇大妄想的」でハッピーだろう。ユーエツ族が弱いものいじめするよりは無害だ。ではみんなレットー族なら平和か?いじめとは反対に、劣等感から他者への崇拝も始まると岸田氏はいう。
「あたかも彼を自分の分身であるかのように感じ、彼と自分との距離を消すことによって劣等感から逃れることもある。」(『劣等感について』岸田秀)
恥部が宗教の源とは、アダムとイブの葉っぱみたいなものか。幼少時代が天国だった人ほど、大人になった劣等感から何らかの崇拝、推し活から始まり、カネとか神様とかにハマるのかもしれない。ならば、子どもの頃に恵まれなかった人は何もいらないわけだ。そういう子育てが平和な世界を創造するにちがいない、サーミやジョウモンなど、かつての先住民がしていたように。
2025年5月22日
「ギターの上達とは、ギターを弾き始めた頃はどんどん上達するが、そのうち上達も頭打ちになる。自分のレベルを知ることになる。でも、ギターの音色は、いくつになっても、新しい武器を手に入れたら、その瞬間に劇的にレベルアップできる。そうなると、ギターを弾くモチベーションも上がる。それがアンプというものだ。」(『ギター・アンプの真実』アキマツネオ 2019 p.105)
聞くところによると、最近はコロナのリモート生活の影響だかで、世界中のギター人口は増えてるけれど、始めて一年以内にやめてしまうらしい。その原因はなんだろう?楽器の高騰とか住宅事情、趣味の多様化とか時代的な要因もあろうが、「モチベーション」の頭打ちなんではないか?「劇的にレベルアップ」は大袈裟だけど、一歩ずつ山を登ってる感覚くらいは35年目のわたしにもいまだにあるので、その「新しい武器」について書いてみたい。
「(ジミ・ヘンドリクスについて)マーシャルのアンプとストラトなのに、彼の場合は高域が耳に痛くない、まろやかな高域を出す人なんだよね。(中略)カールコードのような特殊なケーブルを使うことでハイ落ちしてしまったことに由来するのかもしれない。」(『ギター・アンプの真実』アキマツネオ 2019 p.108)
似たようなことを最近思った。マーシャルやソルダーノの電源ケーブルに怪物級のハイエンドを使うのをやめて、トランスメーカーが出した一般的なのに変えたら、非常にいいバランス。あれこれツマミをいじる必要がない。変にギンギンギラギラすることもない。どうもシールドが完璧すぎると電流が効率よく流れすぎて、アンプ設計者の意図とは異なる挙動をするらしい。ヘンドリクス先生もカールコードは見た目のインパクトより、音の悪さで選んでたんではないかなと。
「マーシャルのアンプはボリュームを7ぐらいまで上げるまでは、強力なブライト・スイッチがオンになってるようなイメージがして、とにかく高音が下がらない作りになっている。」(『ギター・アンプの真実』アキマツネオ 2019 p.71)
これがソルダーノではさらに強力に仕込まれていて、ギター側のボリューム操作で音色を作る昔気質のプレイヤーにとっては実にありがたい回路。これがないとボリュームを絞った途端、張りのない、萎えた音になるのが常だからだ。
「以前ギター・アンプに関して、音を決める要素という意味で「アンプ部が50%、スピーカー部が50%」って言ったことがある。そのくらいスピーカーが重要だ、という意味なんだけど、実はスピーカーのほうが(アンプ・ヘッド部よりも)そのパーセンテージは多いんじゃないかとも感じている。」(『ギター・アンプの真実』アキマツネオ 2019 p.48)
憧れのアーチストモデルを持った、アンプも買った、なのに、「あの音」が出ない!という場合、スピーカーが原因かもしれない。
「昔のフェンダーのアンプに採用されていたジェンセンのアルニコ ・スピーカーなんかの場合、年月を経て、今音を聴くと、ものすごく音が柔らかく変化していて、高音が出にくくなっているものもあるにはある。(中略)もともとジェンセンのスピーカーはハイ上がりという傾向があるけれど、そのスピーカーが甘くとろけるような音になり、雑味もなく、ある意味研ぎすまされた音になる。」(『ギター・アンプの真実』アキマツネオ 2019 p.60)
最近の機材にはキャビネットのシミュレートという機能が内蔵されていて、スピーカーのエイジングをコントロールできる。ブレイクアップすると、総じて音量は下がるが、中には「高音が出にくくなるもの」だけでなく、逆に低音が出にくくなるものなど多様で、例えば、ジェンセンはシャリシャリの軽い音になるが、これを4発、大きめのキャビネットに使うと、低域がさほど下がらず、中域が引っ込んだドンシャリになる。これがモコモコしがちなローズ指板のギターと絶妙に合う。古いVOXアンプもモコモコしがちだけど、スピーカーをエイジングさせたり、JBLの載ったキャビにすると、甘みと辛味の共存した吟醸酒のような音に豹変する。電気的特性でみたら劣化でも、楽器的にみると、熟成といえなくもない。
「ビンテージ・チューブでNOSと呼ばれる真空管がある。これらはおおむね1980年代までに当時の先進国で製造された真空管で、未使用品のことだ。(中略)これらの真空管は、現在製造されている真空管に比べて品質も良く、耐久性に優れているものが多い。(中略)これらでしか出ない音色がある。」(『ギター・アンプの真実』アキマツネオ 2019 p.34)
沼だとかオカルトの世界といわれそうだが、回路のシンプルな20W以下の小さいアンプほどその影響は大きいようだ。近年の製品だと増幅率が高く、歪みすぎたりするが、昔のものだと音の芯がちゃんと感じられ、高域が澄んでることが多く、値は少し張るけれど、テレフンケンとかムラード、GE、BRIMARといったブランドのデッドストックを探しては愛用している。ちなみに音色のチェックをするための演奏はするが、とくに練習はしないので、上達はまったくしない。
2025年6月24日
もうすぐ参院選。でも、なんとなく投票いくのやめようかな、と天邪鬼が働きはじめている。というのも、毎日毎日SNS上におすすめで上がってくる投稿ばかり目にしていると、グーグル様やグロック様が「ホレ、お前、こんなん好きやろ」と餌で釣ってる気がしてくるから…。そう思っていた矢先、今朝、ふだんは見向きもしない新聞の一面が目に入った。「おすすめ動画「染まる」スマホ ユーチューブ、検索語変え視聴実験 参院選」と。その中に「フィルターバブル」という言葉が出てくる。
「この語はインターネットの環境活動家であるイーライ・パリサーが2011年に出版した同名の題の著書『The Filter Bubble』の中で作った。この本によると、ユーザーは次第に自分の考えと対立する観点の情報に触れることができなくなり、自分自身の情報皮膜の中で知的孤立に陥るという。イーライ・パリサーは2016年に「あなたに『いいね!』する人の書き込みだけを見ている間に、あなたが大嫌いな人が大統領になっていて驚くわけですよ」と述べた。」(Wikipedia『フィルターバブル』より)
その大統領とはもちろんトランプのこと。今、日本ではそのトランプ関税のせいで、80年代の貿易摩擦以来の大騒ぎだが、わたしのおすすめに上がってくる情報によれば、かつてフランスが自国の企業に輸出補助金を合法的に供与するために考案した「付加価値税」を真似たものが、日本の輸出企業への消費税還付制度であり、それが米国にとって非関税障壁となっていて、それが実質関税25%ほどになる、という。なので、もし首相が「消費税廃止します」と言えば、「なら関税は0でいいよ」となるはずだが、首相は「なめられてたまるか」と反米姿勢だし、自民党幹事長は「消費税を守り抜く」などと挑発的な発言をしている。
さらに追い討ちをかけるように、合成麻薬フェンタニルを不正輸出する中国組織の拠点が、日本の名古屋にあったことが判明。フェンタニルは末期癌患者などにも使用されるが、微量で致死量となり、しかも非常に安価なため、米国ではとくに若者の間で蔓延し、年間数万人の死者が出ていて、新アヘン戦争ともいわれている。その流通経路に日本がなっているとなれば、メキシコ・カナダ同様に20%代の関税は必至。
この情報、テレビではほぼ報道されていないので、パンピーには、陰謀論と言われそうだが、事実は事実。報道というのも強力なフィルターで、そのバブルの中に安住していると、知らぬ間に知的孤立する。
「アヘン戦争後、香港上海銀行(HSBC)が設立されます。HSBCはジャーディン・マセソン商会をはじめ、サッスーン商会、デント商会などのアヘン貿易商社の資金融通や、送金業務を請け負いました。HSBCは香港で、アヘン戦争以降、今日まで続く通貨の発行権を持ち、中国の金融を握ります。このように、イギリスの覇権は奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラッグ・ディーラーなどによって形成されたものであり、その犯罪的かつ反社会的な手法なくして、持続可能なものでなかったことは明白です。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明しています。その結果、イギリスは大英帝国を建設しました。そのイギリスと組み(日英同盟)、資金と情報を得た日本は、膨張を続けるロシアの南下に対し、日露戦争を挑んで独立をまっとうすることができました。このように国際関係とは、「善と悪の戦い」ではなく、「悪と悪の戦い」なのです。少なくとも明治期の日本人は、そのことを理解していましたね。」(『日本人が知らない!世界史の原理』宇山卓栄、茂木誠 2024)
そのジャーディン・マセソン商会の横浜支店長の養子が吉田茂で、その孫が麻生太郎という、華麗なる悪辣家系。また長崎支店にいたトマス・グラバーは薩長に武器を売りまくって大儲け。その豪邸、グラバー園は国の重文に指定され、「異国情緒あふれる長崎屈指の人気観光スポット」などと世界遺産にまでなってる。教科書の歴史しか知らない人からしたら、世界史は陰謀だらけ。教育というのもまた強力なフィルターで、高度な教育を受ければ受けるほどバブルに幽閉される、山椒魚のように。
「戦争は人類に多くの利益をもたらしてくれた。(中略)多くの流血と一家離散と流民窮乏の犠牲を賭けて、然し、今日に至るまで、戦争が我々にもたらした利益は大きい。その戦争のもたらした利益と、各々の歴史の時間に人々がうけた被害と、そのいずれかが大であるか、歴史という非情の世界に於ては、むしろその利益が大であったと云うべきであろう。」(『戦争論』坂口安吾 1948)
まことに、そのとおりだ。ブラボー!では参院選は、是非とも悪党に投票しよう!壮大な人類史の利益のために!
「善か悪かよりも、本質かそうでないかのイメージをできるだけ明瞭につかまえる。それは明瞭で細かくニュアンスも含めてつかまえられればられるほどいい。現在っていうこと自体は、むきだしの本質であっても、悪でもなければ善でもないです。現在の中核にあるのは、善でも悪でもない、そういう言い方すれば必然がむきだしにしてくる本質が核だと感じます。」(『なぜ、猫とつきあうのか』吉本隆明 2016)
そういえば、我が家にもたまに猫がやってくる。今時分、まだ涼しい早朝に、隣家の倉庫の屋根をハンモック代わりに転寝し、わたしが起きてくる頃合いを見計らって?うちのベランダに移動する。そして運良くば、ちゅーるを食らう。その淡々とした仕草には、野良猫がするようなガツガツした様子もなく、飼い猫がするような可愛らしさは微塵もない。たぶん彼にはちゅーるだけが本質で、わたしの存在などどうでもいいのだろう。
「無関心――この反対を私流に「甘える」ということにする。たとえば、土地や人に甘えるという関係ができると、発病し易くなるのである。甘えるものがなければ、精神病は起らない。」(『我が人生観(四)孤独と好色』坂口安吾 1950)
そんな猫のクールさを、英国留学で患った神経衰弱の治癒に活用したのが、文豪、夏目漱石。
「漱石の『吾輩は猫である』、ああいうのは確かに猫を擬人化して描いているわけです。(中略)普通の人間しか出てこない小説では、ちょっとこういうことは書けないはずだというようなことを書いてますね。それから、こういう目では見られないはずだみたいな、そういう視線も使っています。」(『なぜ、猫とつきあうのか』吉本隆明 2016)
魑魅魍魎の人間界を、猫という無関心に移動する目によって描くことで、作者自身、その人間関係から一歩引いて、客観的に自己を見ることができたのではないだろうか。リハックというYouTubeで、AIエンジニアの安野貴博氏が「フィルターバブルの壁を乗り越える一つの方法として、全体のデータ解析によってマップを作って、共有することで、自分が見えていた範囲は実は地図のこの辺だけで、他にいろんな人がいろんなことを言っていることに気づく」みたいに言っていたが、このブロードリスニングというAI技術がいつか政策立案に導入された暁には、その名は「聖徳太子」にするといい。現代のネット社会に限らず、歴史上、偏狭な情報空間で、客観性を見失った情報難民たちは一体、どういう行動、言動に走ってきたか。
「いくらヒューマニズムなんて口で言ったって、実際には残酷なことをしちゃう。(中略)ふとした瞬間に、動物性が強大なあらわれ方をすれば、建前だけでほんとに動物と同じように、弱者をますますたたきのめしたくなっちゃったとか、建前にころりとだまされたりとかいうことになるんじゃないでしょうか。」(『なぜ、猫とつきあうのか』吉本隆明 2016)
3月に、NHK党の立花党首が街頭演説後に、30歳男にナタで頭部を斬り付けられ、大怪我した事件があった。参院選の期間中になってから、XやYouTubeのおすすめには、選挙妨害やら、しばき隊やら、真偽不明の政党批判やら、昔の発言の切り抜きやら、ゴシップ雑誌の三文記事がここぞというタイミングで流れてくる。ほんと、人間っていやらしい。まつりごとなんだからお祭りのように楽しめばいいのに、「もう日本はこのままでは破滅だ!」とか狂ったように叫んで、もう修羅場。
「世の中にはどっちでもよくない問題なんかめったにあるものではない。(中略)不安と猜疑心に追っかけられて自分の主体的意見を主張する者同士の主体的意見と主体的意見とが対立すると、両者とも不安と猜疑心のために盲目になり、余裕を失っているから、収集がつかなくなる。」(『どっちでもいい』岸田秀 1984)
今の参院選前の情報空間はそんな感じに分断しまくっている。結局、ユーチューバーとかそれを雇ってるプラットフォーマーが利するだけなのに。投票どうしようかな、もうわたしは猫になりたい。文字なんて書けませーん、とか。ど、れ、に、し、よーうか、なッ!で選ぶか。
2025年7月11日
「ニイッチェが「私は自分が主張を固執するために焼き殺される場合があったら、それを避けよう。主張の固執は私の生命を値するほど重大なものではない。しかし主張を変じたが故に焼き殺されねばならぬというのなら、私は甘んじて焼かれよう。それは死に値する」という意味のことをいったそうだ。この逆説は正しいと私は思う。生命の向上は思想の変化を結果する。思想の変化は主張の変化を予想する。生きんとするものは、既成の主張をもって自個を金縛りにしてはなるまい。」(『惜しみなく愛は奪う』有島武郎 1920)
こう主張した3年後に自殺したということは、有島はもはやその主張をもって自個を金縛りにしてしまったようだ。
「脱皮できない蛇は死ななければならない。その意見を取り替えていくことを妨げられた心も同じだ。それは心ではなくなる。(The snake which cannot cast its skin has to die. As well the minds which are prevented from changing their opinions; they cease to be mind.)」(『曙光』フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 1881)
もしかしたら、これが有島の抜粋したニーチェの原書か?だいぶ意訳だけど、言わんとすることは同じだ。
最近の政界では、市長時代の暴言により政界引退を宣言した後、それを撤回し、兵庫から無所属で参院選に出馬してトップ当選した泉房穂氏などが「主張を変じて、生きんとした」クチだろう。一方、今回の参院選で落選した自民党の古参たちは「主張を固執するために焼き殺された」クチというわけだ。
「事実は存在しない。あるのは解釈だけである。(There are no facts, only interpretations.」(ニーチェ)
ファクトチェックだの、コミュニティノートだの、報道特集など、いかにももっともらしいが、ニーチェやひろゆき風にいえば「それってあなたの解釈ですよね?」ということ。世に解釈などいくらでもあって然るべきなのに、これでなければならない、と固執するオールドメディアや、そのプロパガンダに加担する学者や専門家は、それゆえに焼き殺されねばなるまい。
「夏川はよく眠った。生活自体が睡眠のようなものだと彼はつくづく思ったが、要するにこの現実を夢と思えばいいではないかと彼は考えてしまったものだ。夢という奴は見たくないと思っても、厭な夢を見せられる。いくら見たいと思っても良い夢ばかりは見られない。その夢と同じことで、この現実も自分の意志ではどうにもならず、だから要するに、この現実も夢だと思ってしまうにかぎる。夏川はそう考えた。俺は知らない、俺は夢を見ているのだ、と。」(『母の上京』坂口安吾 1947)
全然話は変わるが、母が施設に入ってからだ、母が夢に現れるようになったのは。そして、その姿はつねに現実と違って、歩けている。たいていは少し昔の姿だが、今朝の夢では最近と変わりなかったので、目が覚めた瞬間、なんだ夢か、とちょっと残念だった。
「母に対するどうにもならないうしろめたさを、憎しみのまじった愛を書く。そうでもしなければ母の執念を描くことができない気持なのだ。しかも最後は急所をけられ、自然に親不孝をわびるかたちになったと、まるでドタバタ芝居である。ファルスでなければ書けぬかなしさの、赤面狼狽、穴に入りたいはずかしさの逆説的表現とでも言うべきか。」(『坂口安吾』奥野健男 1972)
というのが『母の上京』に対する文芸評論家の解釈だが、安吾の母に対する想いというと、今、ふと思い出したのは、このくだり。
「世に母親ほど端倪すべからざるものはないと教えられた。」(『母』坂口安吾 1932)
この作品では彼自身の母というより、一般的な「母」についてそう言っている。ちなみに「端倪」とは「はかり知ること」。後に安吾が心を病んでいた時には「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」(『クラクラ日記(闘病記)』坂口三千代 1967)と譫言を言ったといい、それほどはかり知れぬ存在である母が、混乱した終戦直後の自堕落な生活に突然やってくる、というシュールすぎる現実をどうしても忌避したい切羽詰まった心境をドタバタ劇として描いた作品が、安吾の『母の上京』というのがわたしの解釈。ちなみに「ヒロシ」という女形は「市井閑談」に登場する「やまさん」がモデルと思われるが、安吾の母アサは戦時中に亡くなっており、「夏川」は安吾ではないようだが、彼流の人生観や淪落論を語らしていて、ファンとしてはついオーバーラップしてしまう。何かの折に亡き母を思い出して、もし仮にオッカサマがいま生きていたら?という着想で書いてみたのかもしれない。そう想うと人々が混乱する世を彼はかなり楽しんでいたことが伺えて、何とも愉しい。
母は最近、便秘にもならず、よく眠れるという。以前、自宅にいた頃は、便秘薬に睡眠薬、精神薬と、薬ばかり頼っていたので、いいことだ。しかし、不眠症ってどうしてなるのか?私にも若干、身に覚えがある。コロナに罹患して自宅療養してた時。最初の数日は気ままでいいのだが、五日目くらいからあまり眠れなくなった。いつ寝ても、いつ起きても、いつ食べてもいいという生活はラクなようで、苦なのだと知った。規則正しく生活しなさい、と教えられるが、その必要なく、それを守るのは容易ではない。しかし仕事に戻ると、必然的に規則の中に入るので、よく眠れる。今の母も同じで、半強制的に起こされ、食べ、寝ての繰り返し、つまり自分ではどうにもできない現実が待っている。逆に、なんでも思いどおりになった自宅では、実は現実はなく(いわば、擬似現実であり)、不眠が待っていたのだろう。ちなみに安吾にとって作家の仕事は規則的な強制力は〆切りだけで、好きな時に働いて、好きな時に休めたわけで、それがかえって覚醒剤と睡眠薬の中毒を起こさせたと思われる。仕事が楽しくて寝る間も惜しいという人は注意されたい。
さて、先日の広島平和記念式典で石破首相や岸田元首相が居眠りなどと批判が相次いだそうだが、彼らがすぐ眠くなるのも、母や、「夏川」と同じく、自分の意志ではどうにもならないシュール過ぎる現実に「俺は知らない、俺は夢を見ているのだ」という思いだったか、あるいは、そろそろ脱皮する時と心の声でも聞いていたか。
2025年8月9日
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