狂 言 
 忍 池 抄 



(一) (二) (四) (五) (六)

めんじゅう うぬぼれ れんごく くじゅう うつせみ みえいく くせもの のほうず ずべこう うらなし しっぽ ぽんちえ えんお おぶつ ついきゅう うんざり りじ じき

めんじゅう



私はジャーナリスト。テレビ局でディレクターをしていた頃から私の突っ込みは時の権力者にも恐れられていた。妻を亡くし七十を越す今日になってますます恐いものなし。思えば私の人生は反抗につぐ反抗。反抗こそ青春のシンボルだった。ところが私にはふつう一般にある「反抗期」がなかった。一度、五歳くらいのとき母親が憎くて包丁を持って追い回したことがあったらしいが、その後はまったく大人しく思春期を過ごした。そこで反抗し足りなかったせいで一生、反抗するはめになったらしい。結婚もずいぶん悩んだ。女は肉体的、観念的には好きだったが、こまっちゃくれた生態が許せなかった。それと同じく会社組織というのにも抵抗があった。人間関係に煩わされるのが嫌でドキュメンタリー作家として独立することにした。自由になるとかえって不自由を要するもので、私はあれほど恐れた結婚をして恐妻家になった。そうなるとますます私の反抗心はたくましくなって、蟷螂の斧みたいに巨大な敵に立ち向かうようになった。原子力問題、遺伝子産業、メディア戦争、官僚問題、飽食の性など人間社会に突っ込みを入れる仕事に打ち込んだ。何度かジャーナリズムから離れて家族と静かに暮らそうかとも考えたが、それはまるで生きる力を失ったように退屈だった。そこでつくづく思い知ったのは、私にはただただ反抗が必要ということ。敵がいなけりゃ生き甲斐がない。七十にもなれば心の欲する所に従って矩を踰えずなどと論語ではいうがとてもとてもそんな大人しくなんてしてられない。妻が病死してからは娘がその代わりになって、いまではマスコミ界に噛み付くのが生き甲斐。むろん私もマスコミの人間だが、私という人間を育てた親だからこそ愛情を持って噛み付くのだ。面従しながら腹では背く。それは母親に抱っこされながら抱いていた心なのだ。死ぬまで私はこの社会に噛み付くだろう。青春を諦めない限り。 2006年10月16日

うぬぼれ



ワタシは主婦。子供も夫もでかけた後がワタシの時間。今日もワタシはホムぺる。ほぼ毎日更新してるけどブログじゃないからトラバもないしメアドも載せてない。誰にも教えてないし誰が見てるかも知らない。知る気もない。だったら家計簿か手帳の隅にでも書けばいいんだけど、恥はかき捨ててこそ心地よい。最近、ブログに中傷書かれて自殺する子とかいるみたいだけど、そりゃ自業自得だよって思う。結局、ブログは公共空間だから。そんなとこで心の内さらすなら仕返しも承知の上じゃないと。隠れ家にするなら秘密にするのが鉄則でしょう。ワタシがこんな自惚れの強い人間になれたのも子供の頃からイジメられたおかげだ。ワタシはいつだって自惚れていたからどんな酷いことされたって心は傷ついたことはなかった。だけど昔の人はもっと自惚れてたと思う。自閉症ってくらい。それに比べると今の子はいわば開放症。何でも情報公開とくる。あれじゃ心の内まで管理されてるみたい。だから「ちょっとからかっただけ」で自殺なんてことになる。ワタシは子供のことも夫のことも放任主義。必要なことしかやらないし、詮索もしない。ワタシは自分の自惚れを自覚してるし、その神聖な場所を誰より愛してるから他人のそれも尊重する。ホムぺは誰に覗かれたっていいけど落書きなんてさせない。勝手に見るがいい。ワタシの呪いを見て目を覚ませばいいくらいに思ってる。「赤信号みんなで渡れば…」なんて甘い考えはここでは通用しない。生まれるときも死ぬときも一人。生きてる間も当然そうだ。みんながいて当然なんてワタシは信じない。信じられないのだ、イジメのおかげで。時代というのも一つの中毒症。誰もその自覚がないのは周りもそうだから。みんなアル中ならアル中なんて病気じゃないのと同じ。つまはじき者だけが時代の病に気づいてる。時代は常に変わるから、変わらないものは異常に映る。それが無常ということ。だからワタシは時代の異常だけを写しとってホムぺに書く。ワタシの自惚れの未来のためだけに。 2006年10月19日

れんごく



私は二年前に地震に被災して何もかも失った。一番大きな喪失は生きる気力。最近の私の日課は震災で亡くなった人のお墓参りと、今もなお病院にいる被災者のお見舞いに行くこと。今日も病院にいったらちょうど昼時で、のど自慢が流れていた。と、突然罵声が聞こえた。「バカヤロー!殺すなら殺せー!」テレビとはずいぶん違う現実がここにはある。カトリックでは天国と地獄の間に煉獄という場所があって、そこでは死者の霊魂が火で焼かれて罪が浄化されるという。この村はどこもかしこも煉獄だ。思えば私が無気力になったのも煉獄に住むようになったからだ。悲惨な現実に遭遇すれば誰だって俗を捨てざるを得ない。小さな違いを競争させて成り立つ社会。それに勝つために才気を燃やす人々。私の目からすれば彼等はずいぶん暢気な現実の中に暮らしてる。社会そのものが催眠装置だから煉獄にも気づかない。私は無気力こそ罪が浄化された聖なる態度と思うだけ。別に俗を離れて聖人になろうなんて思わない。ただすべてがバカらしい。バカらしくない話といえば最近じゃあ北朝鮮の核実験くらい。私は彼等が好きでたまらない。彼等こそ国際社会から見捨てられた現代のキリストだから。なのに彼等を制裁で虐めるアメリカや日本政府が憎い。早いところ核爆弾を打ち込んでほしい。制裁したすべての国を火の海にしたら原子力文明の罪も浄化できるだろう。核兵器の原料は我々が使ってる電気の廃棄物なんだから自業自得なのさ。ああ、そうだ。今度わが村でのど自慢をやってもらおう。そしたら私が出てって絶対合格してやる。そして「お名前とおところは?」って聞かれたら、こう叫んでやる。「バカヤロー!みんな死んじまえ!」全国ネットで私の罵声が流される。みんなどんな顔するかな?いいきみだ。珍しく生きる気力が湧いてきた。 2006年10月22日

くじゅう



私は詩人。昔の作家は覚醒剤とウイスキーを交互に飲んで血を吐きながら言葉も吐いていたようだが、私は下戸なので珈琲を覚醒剤として常用している。詩人にとって言葉はカネのように生活に欠かせないもの。何ごとも言葉にして初めて生活になる。例えば、天国とか地獄というが、そんなところはどこにもないと思う。死んだら無に帰するだけ。天国や地獄と同様に、死というのも生活の中にある。誰でも眠ってるときがそうで、詩人はそれをなるべく常態化しようとして、生きながら死人になろうとする。それは、死の中に生もあるからだ。死とは現在が閉ざされた状態のことで、そこに過去もないのなら、それは死というより、無である。例えば、美味しい刺身を食べている時に現在はあり、また食べたいと思うから未来もある。未来は現在によって派生するわけだ。不安や希望も未来にしかない。五官を断ち切ってしまえば現在も未来も消えて、過去だけになる。それがまさに死の状態であり、夢を見てる状態もそうだし、詩を書いてる時も確かに不安や希望はない。過去の海に泳いでるようなものだ。あるいは死界をさまよっている。だけど嫌な夢もあれば、そうでない夢もあるなら、死というのも必ずしも苦ではないのだろう。楽しい夢があるなら楽しい死もあるはず。芸術家はつねに暗い過去から現在を照らしだし、未来を予言していく人々だ。そこに希望があるから彼らは偉大なのだ。しかし、その仕事は睡眠状態と覚醒状態を綱渡りするようなもので常人には至難の業だ。それが楽しいのだから仕方ないが、生活のすべてをそれだけに注ぐなら、どおりで体も壊す。それでは元も子もないから私もたまには言葉から解放されて、カネを稼いだり、使ったりする生活に浸る。するとなぜかまた言葉が降って湧いてきて書かなければならなくなる…。そのうち眠たくなって、やっと珈琲の覚醒作用から解かれるわけ。結局、珈琲とは私にとって苦汁にすぎない。きっと覚醒剤やウイスキーはもっと苦汁なんだろう。 2006年10月23日

うつせみ



私は五十代のガン患者。このまま死んでいくのかと思うと何を見ても寂しい。電車の車内吊りの広告には知ってる顔がたくさん写ってるのに一人も会ったことがない。車内にはたくさんの人がいるのに一人も知らない。目の前に少女がいる。新しい服なのだろう、首の後ろにタグがついたままだ。けど、それを教えてやる勇気もわかない。「何だよ、おっさん!セクハラだよ」なんて言われそうだ。五十といえば昔の人ならとっくに老人だ。おっさんどころではない。思えば、私の人生で本当に身も心も触れあったのは母と妻だけではないだろうか?その二人ももうとっくに他界した。人間の数はケタ違いに増えたはずなのに一向にそういう気がしないのはなぜだろう?ただ顔と名前を知ってるだけなら、そんなの情報にすぎない。すれ違っただけなら風景にすぎない。この身に焼き付いた肌の記憶が何もないとは何と寂しい人生だろう。このままでは私は土の中で死んでしまうセミの幼虫と同じだ。セミの一生は七年。そのほとんどは土の中。成虫になって最期の夏を求愛と産卵で燃え尽きる。残りの年月で私は燃え尽きることができるだろうか?私は急に焦りだした。こんな虚ろな世界をいくら這い回ったって土から出ることもできないのではないか?そう思ったら、いても立ってもいられなくなった。そして私は決断した。車内吊り広告のタレントさえ誰も知らない異郷の地に這い出そうと。言葉なんか分からなくたっていい。かえって分からない方が心で通じ合うはず。インドならどうだろう?あそこは何百もの民族がいて、何百もの言語があるという。きっと言葉より大切なものがあるだろう。そこで死ぬまで暮らしたっていいんだ。毎日、毎日、いろんな土地を歩き回って、いろんな人たちと心から打ち解けよう。見知らぬ女と寝まくったっていいんだ。どんな病気をうつされようがどうせ死ぬ身だ。あらゆる、この世の穢れさえもこの身に焼きつけよう。心から触れあうためには母や妻とそうしたように身も裸にならなければならない。薄物ひとつで暮らそう。そして私が死んだら燃やした灰はインダス河に流してくれればいい。その水が沐浴する人々の手によって掬われたら私の空蝉(うつせみ)も救われるに違いない。 2006年10月24日

みえいく



ぼくは鉄道マニアです。東海道本線の金谷―島田間に大井川橋梁があります。先日、そこで特急あさかぜの写真を撮ってきました。「あさかぜ」ですから早朝の鉄橋を渡る姿をねらいたいと思って前日は金谷に泊まりました。撮影ポイントへはだいぶあるのですが途中で大井川鉄道のC11形SLを撮影する目的もあって歩いていきました。さっき現像が焼き上がりましたが、なかなかいいショットがとれて満足です。最近はデジカメが主流ですがぼくは死んだ祖父から譲り受けたカメラを愛用しています。祖父は新聞記者で、戦争の記録写真をよく見せてもらいました。そこには瓦礫の山がたくさん写っていて、祖父はよくこういいました。「カメラは武器だから獲物を探して走り回るんだ。じっと待っていてはいい獲物はとれない」と。確かにショットとは英語で「撃つ」という意味ですから、ぼくも列車と言う獲物をねらって津々浦々を走り回ってるわけです。どれも大自然の中を走り抜ける鉄道の雄姿ばかりで、撮った写真は自慢の獲物ですから毛皮や剥製のように立派な額縁に入れて飾っています。そのうち部屋が額縁の山になりそうです。祖父が撮った瓦礫の山を思うと何か物足りないのはなぜでしょう?どうも、ぼくのカメラは武器になっていない気がしてなりません。何も破壊されてないからです。「あさかぜ」が廃止になるといっても何が壊れるわけでもありません。いつかあった福知山線の脱線事故みたいな光景が撮りたくなります。その記録写真を祖父に捧げて御影供をやりたい。ぼくは今度カメラを持ってでかけたら置き石するかもしれない。 2006年10月26日

くせもの



僕の読書法は一風変わってる。同じ本を何度も読むし、そもそも頭から読まない。ページを折りまくったり書き込みもしまくるので図書館じゃ借りれない。最近はネットの青空文庫からテキストでダウンロードしたのをワープロソフトで読み込んで、それに脚注を勝手に書き込んでる。昨年は坂口安吾の没後五十年で著作権が切れたからタダでいっぱい読めた。今年が生誕百年でもあって、いろんな人が彼を取り上げてるけど、ちょっと買い被りすぎじゃない?誉めるなんてラクな仕事だよ。いろいろ読んでみたけど、この安吾って人、相当の曲者だよ。苦しんでる顔して腹では笑い転げてる。例えば初期の『傲慢な目』って作品に出てくる「絵の天才」ってゴーガンのことでしょ?「傲岸」のひっかけ。ひと夏の恋物語みたいだけど単なる駄洒落じゃん。それに『吹雪物語』なんか婚約者から逃げるために時間稼ぎで書いてたわけで、必死になって書かなきゃならない理由なんか何もないんだからつまんないのは当然だよ。その婚約者に宛てた絶縁状なんかも、ずいぶん深刻ぶってるけど要はケムに巻いてるだけ。追ってこなくなったら、別の人と遊び回ったりして、挙げ句の果てには若い秘書と結婚しちゃう。可哀想に例の婚約者は独身のまま病死。きっとあの世で怨んでるよ。母親がフランス留学を勧めた時も「自殺するかも知れないから…」なんて煙に巻いてるし。戦時中も徴用逃れに映画社の幽霊社員になったり、召集令状も空襲でウヤムヤにしちゃったり。忍者みたいだね。女の人をその気にさせといて裏切るなんて一番タチ悪い。だけど僕も遊び人だから、その『逃げたい心』ってわかる。基本的にベタベタされんの嫌だし。きっと親に可愛がられなかったから、可愛げのないヘソ曲がりになったんだろうなって。 2006年10月27日

のほうず



『伊勢物語』の最終段に主人公、在原業平の辞世の歌があります。「終に行く道とはかねてききしがきのう今日とは思わざりしを」というのですが、「いつか死ぬとは聞いていたが、それがたった今とは」という意味です。この業平という人は天皇になるべき身分でありながら野放図な恋多き人生を送った人です。しかもそれがつねに禁じられた恋だったということは、この人には抑圧がなかったのだと思います。つねに今欲しいものに手をのばしてるうちに本当に欲しかったものに手が届いてしまった!それが臨終において彼が見た「きのう今日」、つまり今ということです。ずっと追い求めてきた恋の幻影はいったい何だったんだ?という戸惑いもあったでしょう。このように人生とは暗い野原を歩いているようなもので、それはすべてが過去だから宇宙のように暗いのです。そして、その始まる前と終わった後には真っ白な永遠の現在が開けてるばかりだと思います。さすがに生まれたばかりの赤ん坊が「いつか生まれる道とは聞いていたが…」なんていうわけありませんが、生まれる前はさぞかし野放図な世界だったことでしょう。いや、もしかしたら生まれてすぐあんなに泣きじゃくるのは、不自由な世界に生まれてきてしまった悔しさを歌ってるのかもしれません。 2006年10月29日

ずべこう



あたしは別に良い子ぶってるわけじゃないけどタバコは吸わない。でも友達とカラオケとか飲みに行ったりするとみんな吸ってるから、あたしもつい一緒になって吸っちゃう。こないだ新聞で見たけど先進国の中で日本はまだ喫煙率が高いんで下げなきゃならないんだって。女性の喫煙率は9%だっていうけど実際はもっと多い気がする。周りみんな吸ってるもん。職場に内気で無口な子がいるんだけど、彼女がもしタバコ吸わない人だったら、もうとっくに辞めてるんじゃないかな?タバコがあることで救われてる人って案外多い気がする。それって自分から心開いて人に話しかけるのが苦手なお国柄が出てるのかも。酒もタバコもやらないなんてつまんねえのって風潮、前はあったように思うし。だけど最近はどこもかしこも禁煙とか分煙で、何でそんなにタバコばっか毛嫌いすんのかわかんない。肺ガンの原因とか言われてるけど、それ言ったら酒だって肝臓ガンとかの遠因になるだろうし、ちゃんとしたもん食べててもガンになる人もいるし、タバコばっか悪者にする理由がないよ。看護師の子に聞いたんだけど、日本は世界一長寿だっていうけど、ほとんどの高齢者がクスリで維持してるらしい。欧米の喫煙率が低いのも、タバコ依存をクスリ依存に移しただけじゃないのかなあ?だったらタバコ・タブレットなんて開発したら?禁煙の為のクスリってことでさ。みんなでタブレット呑み合う光景…ゾッとするけど。そんなんだったらタバコの方が安いじゃん。ああ、そうか。安いからいけないのか!先進国ならもっと医療費にカネがかかるようにならないとマズイのかもね。エライ人的には。だったら、あたしも明日からは健康的にマルボロでも吸って、イッパシのずべ公になろうかな。 2006年11月1日

うらなし



こんなあたしも女子高生のときはブランドもんとか有名ショップにハマったり、キレイになって男の子にモテたいなんて思ったこともあった。一児の母となった今となっちゃバカバカしい昔話だけど。世の中には年俸何十億なんて人もいるけど、その陰で落ちぶれてく人もたくさんいる。実力勝負の世界もある意味平等だけど、それがエスカレートすると今にアンチヒーローが全部ぶち壊しにすんじゃないかなって思う。あたしは社会に認められるとか、他人のために…なんて生き方より半径三メートルの幸せがあればいいや。そもそも自分のことをありのままに認められるのって自分しかいないって思うし。生きるって自分のイビツを認める苦行みたいなもんじゃない?あたしは結婚して以来、なんでも書き留めておく「どりーむじゃーなる」っていうのを持ってて、それにはあたしにしか分かんない文字(単に汚くて読めない!)で、くだらないアイデアとか夢の中で起きた出来事なんかを書き残してる。たぶん他人が理解したら引いちゃう内容かもしんない。だからなのかな?悩みらしい悩みが全然ないのは。だけど自分の経験からいって悩みって否定から始まってる気がすんだよね。まず自分を否定しちゃう。つまり、セルコンだね。セルフ・コンプレックス。そうしてると他の人とか別のことで代わりに満たそうとするでしょ?それが思うようにいけばいいんだけど、うまくいかないとさらに否定になって、よけいに悩ましくなっちゃう。夢と希望に向かって!とかいうけどさ、実際、松井とか松坂みたいな人は滅多にいなくて、ほとんどが中途半端なまま落ちぶれていくのがアメリカンドリームなわけだから、そりゃ頭ん中も悩みだらけでパンクするし、脳内血管も詰まるはずだよ。でもって行き詰まって自殺とか自爆なんてハメになる。だったら最初から自分と社会のギャップ認めまくっちゃえば平和じゃん。夢と現実は切り離してさ。夢を現実に、じゃなくて現実を夢にしちゃえばいいんだよ。人から「萌えー」なんて白い目で見られたって「そっか、あたし萌え系なんだ」って認めちゃえばいいんだし。結局「自分」なんてゆうのも、からっぽなんだから。 2006年11月2日

しっぽ



あたしはメス犬。この家にきて十二年になる。昔は知らない人が家の前を通っただけで吠えまくったけど今じゃそんな元気もない。昔から肌が弱くて体中がカユいから背中を床に擦りつけたりしてるうちにクタクタになっちゃう。カユいといえば、アソコもたまにカユくなる。子供生めないように避妊手術されてるんだけど野生の習性は消えないらしい。仕方なく飼い主の足のすねにまたがって擦り付けてるうちに、つい夢中になっちゃう。相手があぐらかいててやりにくい時はシッポ振ったり鼻でつっ突いたり、それでもダメなら催促の声を出すと足を投げ出してくれる。だけどホントは犬同士でどうやってやってるんだか知らない。たぶんオスが後ろから乗っかって差し込んでくるんだろうな。散歩のときそうされそうになったことあったから。人間と違って、あたしらは馬乗りのポーズが自然。シッポが退化して二本足で歩くようになる前は人間もそうだったのかもしれない。だけど、この年になると夜が寂しい。ついに捨てられたのかと不安になって遠吠えしてみたり、二階の方で人の気配がしたら駆け寄って手なんかペロペロしたくなる。勢いで階段を上ったはいいけど、恐くて降りれなくて地団駄踏んでるうちにオシッコしちゃったり。それで叱られて、ちょっと嬉しかったりして…。そんな、シッポ出しッ放しの毎日の繰り返し。 2006年11月5日

ぽんちえ



私は小さいとき宇宙飛行士になるのが夢だった。宇宙戦艦ヤマトの影響かも知れない。しかし小学校で将来の夢を書かされたときには「サラリーマンだけにはなりたくない」と書いていた。所詮、マンガのようにはいかないと子供ながらに冷めていたようだ。ところで「急がば回れ」とは「急いては事を仕損ずる」という使われ方が一般的だが、私はそれよりも「案ずるより生むが易し」に近いと思う。はやる気持ちを抑えるよりも何かしていた方が安心だから。例えば、ここ十年近く中高年の自殺者とかウツ病の人が多いという。こういう社会現象にも「急がば回れ」がいいと思う。「別に急いでない」といわれるかもしれないが、戦後日本全体が急成長してきたのだから気づかないのも当然。一度、成長神話を捨ててみたらわかる。別に成長しなくてもいいのなら、それでいいではないか。何もしなくていいといわれても人は何かせずにはおれないもので、そんなときこそ何かを生んでるもの。子供だってそうでしょう?つくらずにおれないんであって、つくれ!つくれ!といわれたら、かえってできないもの。私も別に急いではいないが、ずいぶん回り道してきた。いまや宇宙飛行士の夢はどこへやら?まるでポンチ絵みたいに夢と現実がゴチャゴチャ。それも見ずにはおれない夢なのだろうが、それで何かを生んでるのだろうか? 2006年11月7日

えんお



私は長年の介護経験を生かして全国各地で研修講座を開いたり、新聞雑誌にもコラムを書いている。数多くの痴呆老人と接してきた私は彼らの問題行動には必ず何らかの抑圧があると考えている。問題なのは、むしろそれを無視して合理的に解決しようとする我々の方である。「現代は心の闇を失った」というが失ったのは夜の暗闇であって、逆に現代は抑圧が拡大している。例えば昔は立ち小便もタバコのポイ捨ても軽犯罪ではなかった。それがいまでは限られた場所でしか許されない。ちょっと色気を出せばセクハラとくる。そういう日常のあらゆる抑圧が非日常の欲望を高め、それがグローバル経済を支えている。悩みを欲望で隠すから病みに苦しむ。闇が病みを生んでるわけだ。それを投薬で合理的に解決するのが現代の流儀。そのうちアルツハイマー病の特効薬も開発されるはずだが…。思うに痴呆老人の問題行動は尿意や喉の乾き、肌の痒み、眠気などの生理的な欲求が原因になっている。痴呆というのもそういう生理の抑圧に慣れてしまうことから起こると思う。日本がこれだけ経済発展したということは、それだけ抑圧が大きいはずで、多くの人がそれに慣れきっているならば、痴呆はどんどん若年化して深刻な社会問題となるだろう。近頃起こる異常な事件や事故を見ていると、すでにその徴候が始まっているように思う。だから私の講座でも受講者をまず脅かす。「あなた方の痴呆もすでに始まっています。しかし将来、あなた方はあなたが今してる扱いを受けたいですか?」だいたい、みんな嫌な顔をする。その厭悪の顔といったら、まるでオムツ交換されてるときの老人そっくりなのだ! 2006年11月8日

おぶつ



わたしの母はいわゆるキャリアウーマン。わたしは二人目の夫との間にできた子で、二人の兄は最初の夫のときの子。そして今一緒に暮らしている父は母にとって三人目の夫だが、わたしとはひとまわりしか違わないし、一番上の兄とほとんど変わらない。わたしはそんな男好きな母が大嫌いだった。あれは小六の時だから、まだ生理がなかった頃。家族で旅行にいったとき、わたしは興奮したのか鼻血を布団の上にたらしてしまった。その赤いシミをみて「あたしが汚したみたいじゃない」と母は嫌みをいった。仕事柄、フォーマルな服装しか着ない母はわたしの格好をみていつも「服が汚い」といった。母はつねに流行りものをバカにしていた。そりゃ、母はキレイで、お金もあって、男にもモテモテで…だから大嫌いだった。そんなわたしが銀座のクラブで働くようになってからはそうでもなくなった。今では一緒に温泉にいったりできる仲になった。わたしも今年で25。友達の子は今年、三年連続で赤ちゃんを生んだ。わたしがまだ手に入れてないものといったら子供くらい。だけど今さら彼氏つくってサービスしたりする自信ないなあ。さんざん自由を謳歌したツケかも。そんな事をお客さんに話してたらドキッとする事をいわれた。「マザコンだからだよ」わたしの会話の節々に「お母さん」が出てくるのが前から気になっていたそうだ。「君がこうして男の人に尽くす仕事するのも、お母さんに張り合うためじゃないの?」わたしは急にその男が憎らしくなった。そんなある日、母にいわれた。「あなた好きな人いるでしょ?」その意地悪な目つきは、あの鼻血のときと同じ、何か汚物を見るような目だった。だからというわけではないが、わたしは店をやめることにした。わたしって、やっぱりマザコンなのかな? 2006年11月11日

ついきゅう



人はオレをギターの魔術師などと呼ぶが、そんな生易しいものじゃない。オレのギタープレイはつねにヘンドリックスがステージでギターを燃やした、あのバイブに導かれている。ガキだった頃のオレはそれに何か不思議な魅力を感じただけだったが、娘が生まれた今となっては、あの炎こそ神の愛だと思う。愛の炎というのは破壊的であるがゆえに創造的なのだと。だがオレはギターを燃やすパフォーマンスをしたりはしない。そういう破壊には興味はない。中にはアンプから煙を上げながらプレイする奴もいるが、オレはふつうにプラグインして、その辺のキッズと同じように弾くだけ。それでも人がオレを達人と呼ぶのは、オレのギターの愛し方が尋常じゃないからだろう。食欲と音楽はどこか通じるもので、料理人が肉を刻んだり、煮たり焼いたりするようにオレは音を料理する。「神の愛」という曲を録音するにあたって四日間絶食したのも、飢餓感が貪欲さになって音に出るからだ。オレはクリスチャンでありながら仏教寺にこもった経験がある。そこで知ったのは、信仰は恍惚をもたらすが、その固執が煩悩の種にもなることだ。音楽への信仰もそうで、成功と引き換えにカネの亡者になって、過去のプレイを繰り返しながらデブになっていくミュージシャンにオレはなりたくない。そういう過去へのこだわりこそ愛の炎で破壊すべきものだ。人は若い時、みんな自分の中に炎を持ってるけど、それは他人には見えても自分では見えにくいから失っても気づかない。ヘンドリックスが見せてくれた炎こそ、そういう魂の炎だったんだ。オレはその炎で音の料理を死ぬまで追求したいのさ。 2006年11月13日

うんざり



拙者は古代中国の教えにある「知行合一」を信ずる者なり。思想は肉体となり、肉体は思想となる。ゆえにその人の体型や行動をみれば、おのずとその人の思想がわかる。現代人の肉体も思想もぶよぶよしてぜい肉だらけにみえる。拙者自身はつねに頭がスッキリするよう体脂肪は15%に保っておる。それが快眠快食、不老長寿の秘けつと信じておるからだ。そして拙者は時計もメガネも持たぬ。テレビや新聞雑誌もできるだけみない。ケータイはメモに使うだけ。ネットは思考の道具。世間との付き合いはできるだけ断っておるゆえ、忘年会の誘いがあってもいかぬし、年賀状は一枚も出さぬ。そのお陰か、病気はおろか風邪ひとつひいたことがない。そんな拙者からすると、現代人は体が求めぬ事を頭が欲するままにしようとするから、すぐ風邪をひいたり、挙げ句の果てには自殺したりする。体が頭に振り回されておる。例えば政治家やタレントなどは有名になりたい意志で生きる階級という意味で武士と同じだが、華々しく散るという引き際をわきまえないから名まで汚す。昔の侍は人も刺したが、自分の腹も刺した。行動が意志を律していたから、意志が身から離れる事はなかった。ところが、現代は肉体と思想が分離した人間が才能や武器を使用しておるから、一方が自由といえば、他方はテロといい、戦いは泥沼化する。そういう戦争が個人の体内で起こるのが疾病。日本は平和というが、こんなにドラッグストアが大繁昌ということは、体内で大戦争が起こっとるんだろう。口喧嘩ぐらいなら拙者の中でもよく起こる。「わしは眠たい」と体がいい「早く起きなきゃ」と頭が言ったり、「わしは飲みたい」といえば「トイレが近くなる」という。総じて、体の意見が勝つから、結局、食っちゃア寝え、飲んじゃア出してばかり。頭が「あれしたい」といえば、体が「面倒臭い」といい、「これ欲しい」といえば「もっと安いのないのか」…考え込んでるうちに日が暮れる。これでは風邪などひくわけがない。うんざりするほど健康というのもつまらぬ人生だ。いちど体こわすほど欲望を燃やしてみたい…さア、どうしたものか?ホラ、また考え込んで眠くなってきた。 2006年11月18日

りじ



私はアダルトサイトの管理運営をしている。フリーカメラマンに女の子の斡旋をしてるだけだが、年収は数億円にのぼる。セックスはやはり誰の心の底にもある悪のユートピアだから儲かるのだろう。それにしても巷のニュースはつまらない。核バクダンだの新たな拉致被害者を出現させて、ありもしない犯罪国家をでっち上げては、庶民の不安と憎しみを煽ろうとしたり、幼児殺害だの子供のいじめ自殺ばかり報道して、庶民の憐れみを買おうとしたり、それで自分らの立場を確保しようという魂胆が見え見え。ブッシュ政権なんか、ホントにビルをブッ壊してまでテロをヤラセてしまった。自作自演にしてはずいぶんカネもイノチもかかって、さすがハリウッドの国はやる事がでかい。だけど今じゃ事態は火の車。敵地に足を突っ込み過ぎたのだ。日本もその二の舞いにならなければいいが。なったらなったで、それも面白いが。だけど、つまらねえな。やっぱりこの世は悪の席巻するユートピアでないと。私はもう女の肢体にも飽き足らない。無性に死体に惹かれる。猫の死体なんかじゃつまらない。誰かに女でも子供でもブッ殺してもらって、その肉体標本をネット上で競売したい。それが全然儲からなくたって自分のためにしたい。それが無理なら、せめて出産現場の超度アップ映像でもいい。きっと、ものすごいアクセス数だろう。セックスサイトならぬセップクサイト。そこまでしないと善も俚耳に入らない偽善の世だから。 2006年11月20日

じき



これは欲そのもの。誰だってモノを喰う。しかし、その栄養で生きているのではない。味とかカロリーより「喰いたい!」という欲が肝心。世の中は「食育」などというが、そんなのよけいなお世話。それより「欲育」が肝心。なぜなら時代や文化が変われば食事も変わるから。よけいなお世話といえば、世の中には「喰いたくない」人がいて、そういう人にもどうにか食べてもらおうとゼリー状にしてみたり、綺麗に盛り付けしてみたり「これはどこどこの特産で、こういう味付けで…」などと蘊蓄をつけてみたりする。何もそんなにしなくても自分がうまそうにムシャムシャ喰ってみせれば、その人もつられて喰いたくなるのだ。しかし喰いたくもないモノをいくら喰ったって、せいぜいカロリーに乗じて体重の数値が増えるだけだ。喰いたいモノを喰いたいとき、喰いたいだけ喰っていれば肥満にも栄養失調にもならない。したいことをしたいだけしているから慾念が絶える事もないし、それを他に燃やす余地がないのだ。それは言うは易く行うは難し。だから「欲育」が肝心というのだ。それには自分の欲だけ見ていては無理。むしろ自分の欲を捨てることで無限の欲を我がものにできる。一度、牢屋か禅寺にでもこもってみたらいい。悔いたい事を悔いたいだけ悔やむのも慾育だ。偉い坊さんというのは、ちゃんと欲を持っている。欲を絶やさぬことが大切と知っている。そして、それを誰にでも分け与えられるよう徹底的に自棄する。つまりそれが、良く生くというわけ。 2006年11月21日

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