2006年11月22日
おいらは日雇い労働者。この季節になると寒い中、道路を掘り起こすのがおいらの仕事。しかし、この世はつねづね不平等だなあ。今日、新聞見たらよ、国が発注してる公共工事のほとんどが入札で六割にたたかれてるっていうじゃねえか。ホントならもう四割、おいらの賃金も高いはずってことだろ?そのカネはいったいどこにいってんだよ?役人の豪勢なホテル代とかじゃねえのか?だいたいこの業界、落札した企業は下請けに丸投げだ。「親分は親分で偉い役人にペコペコしたり大変なんだよ…」って言うだろうが、そのしわ寄せがおいらたちに全部来る。「どこに任せたってデキは同じなんだから、安くて確実にこなせるところに頼む」って理屈も分からねえこたアねえけど、「安かろう悪かろう」ってなってもしらねえぜ。いつか値切ったツケがまわってくるぜ。だいたい姉歯とかヒューザーなんて世間じゃ騒いでッけど、昔ッから手抜きなんて当たり前なんだ。線路の枕木とか鉄筋、ボルトとか間引きしたって、どうせ出来上がりゃわかりゃしねえ。コンクリにしても東京オリンピックの頃はまだよかったけど、昭和四十年代以降のコンクリは突貫工事だから瀬戸内海の海底の砂使ってて、ありゃ不良品だ。阪神大震災で高速道路の橋桁が根元からブッ倒れたのも当然だ。新幹線のトンネルとか橋桁なんかもとっくにボロボロのはず。いまに大惨事にならアな。けどつくった本人はもうこの世にはいねえんだから、誰の責任でもねえってわけさ。現場はつねに限界ギリギリでやってんだし、それを「無理だ!」って直訴できねえ立場だから仕方あるめえよ。それでも工期と工費は守らなきゃならねえんだから、どこで辻褄あわせるかっつったら品質でするしかねえ。足りねえとこはアスファルトに埋めちまえばわからんから。ごまかしなんざ、いくらでもできんのさ。何なら人足ひとりくれえ生き埋めしたってわかりゃしねえ。「あれ、そういえばアイツどこ行った?」「知らねえよ。給料安いんでトンズラしたんじゃねえの?」「そんじゃ、一人分余っちまア」「なら、おいらたちで山分けといこうぜ」そうやって四割分の辻褄合わせたっていいんだ。
2006年11月26日
腰痛といえば年のせいとかストレスのせいなどといわれるが、私が初めて腰痛になったのは中三の秋だった。運動会のリレーの練習中に激痛が走って、走れなくなった。あと、異性と付き合いはじめた頃、四六時中その人のことが頭から離れなくなると、今度は立てなくなるほど腰にきたこともあった。そして今も靴下をはけないほど腰にきている。顧みれば、最近、毎週楽しみに観ていたドラマがあって、番組サイトに設置された掲示板の閲覧にもハマっていた。寄せられた多数の投稿のほとんどは「感動しました!」「がんばって!」みたいな空褒めばかりで、それを見てるうちに、ちょっと意地悪な注文をつけたくなってしまった。お涙頂戴の綺麗事で終わるよりは、重い宿題を置き土産に終わるほうがいいではないか?と。だから誰もが悲しむけれども、主人公の母親が死ねばいいと投稿したら、見事に削除されてしまった…。落胆。いや、無性に腹が立った。都合の悪い意見は全部カットしてるんじゃないか?とさえ疑われてきた。こうなったらテレビ局に脅迫状でも送ってやろうか!とさえ考えた。しかし、いまはそれどころじゃない。腹立って腰立たず。年齢とかストレスのせいというより、私の腰痛は我を忘れて何かに没頭しているときに起こるらしい。受験勉強に没頭、カノジョに没頭、ドラマに没頭…その夢中から醒ますのが、体からの激痛なのだ。漱石先生が「楽しみの大いなる程苦しみも大きい」といったのも、そのように身と世が切っても切れない関係という意味ではなかったか?ならば、痛みがあるということは身と世がつながってるという印なのだろう。ドラマの視聴者が空褒めばかりということは他人事だからじゃないか?世間の手前ばかりで我が身を省みないからだろう。そのうち自分が障害者になるのだ。そうなるくらいなら、この痛みが一生治らない方が身のためかもしれない。
2006年11月28日
オレは名前をいくつ持ってるのだろう?オレが歌舞伎町のホストクラブで働く時の源氏名。小遣い稼ぎにライターの仕事もしているから、そのペンネーム。何年か前に占い師に字画がよくないといわれて以来、別の漢字を当てるようになったから本名も二つ。他にもネット上のバンドルネームは三つくらいある。暗証番号みたいに、どれがどれだったかわからなくなるときもある。先日、クレジットカードの決済口座を変更しようとしたら「名前が違います。個人情報なんたら法を御存じですか?」といわれた。偽名を使った犯罪が多いから、世間はシビアになるのだろう。仕方なく、めったに使わない本名を持ち出す事にした。久しぶりに書いた本名は自分の名前じゃないみたいだった。この名がオレが死んだときの俗名になるんだ。だけどオレは戒名なんていらない。墓には何も刻まなくていい。いや、墓すらいらない。骨は川にでも捨ててくれればいい。オレには守るべき家族も地位や名誉もない。汚辱にまみれた世間との交わりはこの身がした迷走にすぎない。そんなの一切必要のなかったガキの頃にこそ、オレの魂が帰るべき故郷はある。「仏界易入、魔界難入」とは何という名僧の言葉だったか?オレは間違っても仏界なんかには入らない。死んだ後のことなんて知らない。つねに魔界の住人でいたい。そこはガキの頃のように懐かしい天国だが、もしそれをこの世で再現したら地獄に違いない。地上からみれば美しい星も、そこに人間が行けばただちに燃え尽きてしまうように。それじゃあまりに悲しすぎるから、こうして瞑想で済ませてるのさ。
2006年12月1日
人はよく、相手の目を見て話せというが私はそれが苦手だ。世の中には人の顔をじっと見すぎて嫌がられる人もいるという。そのノーベル賞作家Kは、自分が幼い時に二親に死なれ、他家に預けられたために人の顔色ばかり読むような卑しい人間になったのでは?と自己嫌悪していた。それがひょんな事から、まだ自分の家にいた頃に盲目の祖父の仕種をじっと観察していたためにそうなったのだと合点して安心したという。意地悪な事をいえば、人の顔色をうかがって喜ばすのが仕事の太鼓持ちなぞは、その卑しさが一種の才能だったわけだし、自分の家の人間の顔をうかがうのはよくて、他家の人間なら卑しいという考え方が卑しいではないか。だけど、この作家が「この癖を持つようになった自分を安心して哀れんでやっていいのだ」という姿勢は見習いたいものだ。私が人の目を見て話さないのは、恥ずかしくてできないのではなく、言葉の意味を噛み締めようとしているせいではないか?と思ってみた。目は口程に物を言うから私はその目に騙されないように目をそらすのではないか?と。その目に騙されてきたから自然そうなってしまったとしたら、それも哀れむに足る癖ではないか?しかし社会にいると言葉ほど頼りないものもない。造反議員の復党問題ではないが「コイツ言ってること前と違うじゃないか」と疑われたら、そいつの目をうかがってやろうと思う。
2006年12月1日
私は小さい頃、乗り物酔いがひどく、いつも酔い止めが手放せなかった。年とともに慣れたが、中学の頃までバスは後部座席には乗りたくなかった。逆に年とともに酔うようになった乗り物といえば、ブランコ。幼稚園の頃は立ち乗りからジャンプして飛距離を競っていたのに、小学校のブランコにはめったに乗らなかった、いや、酔って乗れなかったのだ。大人になって知る酔いといえば、酒。私は飲み始めた頃はあまり酔わない方だった。記憶が飛んだ事は一回もないし、どんなに酔っても、ちゃんと家まで辿り着けた。その頃、友人と八丈島に船で行った。その友人はあまりにひどい船酔いで、酒を飲みまくっていた。どうせ酔うなら船酔いよりは…というつもりだったのだろうが見ていて気の毒だった。その彼も旅行会社に勤めて十年。酒には酔っても船にはもう酔わないのだろう。考えてみれば、あの頃が一番酔わなかった。でも、そのピークは三十歳くらい。今は酒を飲むと酔う前に胸が苦しくなるから、よほどの事が無い限り飲まない。電車も座ると酔うので、よほどガラガラでない限り立ってる。車の運転も最近はとんとご無沙汰で、ちょっと近所のスーパーに行っただけでも酔う。昔、犬を八ヶ岳まで車に乗せて行ったら酔って吐いたことがあった。今の私は本能なのか?無能なのか?酒も乗り物もダメ。まるで子供か犬みたいだけど、世の中をうろうろするよりは、夢の中をうろうろする方が酔い覚めはいい。ブランコもいまなら乗れるかも。
2006年12月4日
今年の流行語大賞に『品格』というのがあった。最近では「男のコケンに関わる」なんてあまりいわないが、これを今風にいいかえたのが「品格」ではないだろうか?男の品格、国家の品格というと何だか聞こえがいい。そのうち「女の品格」まで出てくるかもしれない。だけど、これってみんな沽券のことだ。沽券とはもともと土地の売り渡しの証券のこと。男や国家の値打ちも地価みたいに上がったり、下がったりするから品格が必要なんだろう。たたいても、なぐってもビクともしない実力があればそんなのいらない。昔の人が「男の沽券に関わる」とこだわったのは、子を生んで育てる女の実力の前には男は無力だったからだ。種の保存という生物の命題にとって子種以外に男は何の役にも立たぬ。それでは悔しいので家庭とか社会の約束事をつくって、実はなくとも名があれば男も役に立つようにしたのが文明だ。先日、ラジオで男性が「最終的に責任とるのは男であるべき」といっていたが、その「責任」というのも、沽券と同じく、男が必要としてるものにすぎない。女の世界には沽券も責任もいらない。一歩譲って男の顔を立てておけばいいのだ。しかし、女まで品格などと口走ったり、不妊治療だ幼児虐待などというようでは、女の実力もあやしい。少子化が進むのもわかる。女が下品で陋劣なロクデナシになったら、ベビーブームがやってくるだろう。あの終戦直後のように。
2006年12月4日
いじめで自殺する奴は死ねばいい。オマエなど、どうせ生きていたって遅かれ早かれ自殺するにきまっている。死ぬなら早い方がいい。ウソで汚れないうちに、あの世に行け。汚れてからじゃ、あの世まで汚くなる。ラクに死にたきゃガスか薬がいい。面当てに死にたきゃ首吊るがいい。どうせ死ぬなら盛大にやれ。けどな、他人のためにだけは死ぬな。死に損だ。オマエが死んだところでこの世は何一つ変わりはしないのさ。三日、三ヶ月、三年たてば誰も覚えてない。むしろいじめる相手がいなくなって寂しい思いをするのはオマエが一番憎んでる連中さ。そいつらも別の奴いじめりゃ気が済むだけだ。オレはオマエら「いい子」見てるとイライラする。どいつもこいつも親にもセンコーにも逆らわねえ。友だちなんかつくるな。テレビなんか見てヘラヘラしやがって、排気ガスで頭いかれちまったんじゃねえか?活字なんかにうなずくな。言っておくが、オマエらは洗脳されてるんだ。オマエらは社会教の信徒だ。その洗礼を受けて罪を負って生きてる。だから死にたくなるんだ。赤んぼみてえにやりたい放題やっちまえ。死ぬまで満足するな。しつこくやれ。あいつを殺したい?殺しちまったらつまらねえだろ。半殺しにしろ。死ぬまでそいつを追いかけまわして苦しめてやれ。その為にしぶとく生きろ。その前にな、オマエに必要なのは悪魔だ。愛の凶器を磨け。オマエが男ならこの世で一番美しい女をオマエのもっとも汚いもので汚せ。オマエが女ならこの世で一番汚らわしい男の、もっとも汚らわしいところを綺麗にしてやれ。そうして罪を自分に着せたらオマエが受けた罪は消えるだろう。オマエの愛はオマエを生かすだろう。
2006年12月8日
改造はなぜ楽しいのだろう?え?カイゾウなんてやったことない?化粧してるじゃん、毎日。爪やら睫毛やらつけてみたり、髪型かえたり、染めたり。ブランド品身につけてみたり、ピアスいれたり、タトゥーいれたり、プチ整形だ、豊胸手術だ、脱毛だ、育毛だ、ホクロ消したり、水泳やらジムで筋肉つけたり、ダイエットしたり、日焼けサロン…。そんなにナマの自分はヤバいですか?理想と現実がなかなか一致しないから改造も終わらない。「美しい…」なんて幻想を棄ててオバサンみたいに生きられれば何もする必要ないのに。昔、『改造』って雑誌があった。マルキシズムが流行った大正から昭和初期にかけて全盛だったけど、戦争が始まって共産主義が弾圧されるようになって廃刊に追い込まれた。有名な横浜事件。「改革、改革」なんて白々しい自作自演の劇場政治よりは「世の中を変えてやる!」というマジヤバさが臭う時代だった。そういうファッショな改造よりファッションな改造が現代の流儀。男の子もクルマのマフラー外したり、マーシャルアンプを300Wに…なんて改造より、キャリアアップ、スキルアップ、バージョンアップで改造してる風。どうせ自分を改造するなら中身をフルモデルチェンジすればいいのに。終戦の頃に<人間は変わらない。変わったのは世相の上皮だけ>といった人がいた。要は外面の改造なんかやめて内面を変えろ、いや、よけいな虚飾を棄てて元来の人間に帰れということらしい。その人は冬でも水風呂に浸かってたという。それは「禊」といって、身の罪やけがれを水で清める行為だったらしい。そんなら毎日、お風呂に入ってます?いやいや。イヤな事を水に流すってことです。そんなら浴びるほど酒飲んで忘れます?まあ、それもいいですが、心をつねに空しくして暮らす、そういうと難しいですが、それはオバサンのように幻想を棄てて生きるってこと。共産主義ならぬ、かあさん主義。だけど女子アナまで普段着・ノーメイクで出演なんてなったら世も終わりだろう。そのとき世間は、理想なき、かかあ天下だろうが、外では亭主が大改造、つまり大戦争だろう。
2006年12月12日
私は東大の学生です。今、就職するか、大学院にいくか悩んでいます。周りにも同じように悩んでる人が多くいます。先日、かの有名な漱石先生の『道楽と職業』という講演を聞いたら、いっそ、ニートかフリーターでもいいかなと思うようになりました。先生も「自分の生命を託すべき職業がなかなか無い」という理由で講師をしながら大学院に進学したそうです。ですが先生は博士号を辞退しました。その理由は「実は不具の不具の最も不具な発達を遂げたものが博士になる」だそうです。確かに大学の研究分野はどんどん細分化していて、それは洞穴を深く掘るばかりで、その先に鉱脈とか石油があるかなんてどうだっていいみたいな研究者が多いのです。そんな不具というよりモグラになるくらいなら、私は陽の当たる実社会への就職を希望します。ですが、先生はこうもいいます。「人間の職業が専門的になって、また各々自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなると、当面の事以外は何も分らなくなる」銀行にいけば経済のことしかわからなくなるし、医者になれば医学のことしかわからない。どこかに人間一般を専門にする職業はないのでしょうか?「それは科学者、哲学者もしくは芸術家」と先生はいいます。ですが、それは「道楽本位」な職業であって「割に合わない報酬」だから食っていけないと先生はいいます。それでは、みんな不具者になるしかないじゃないですか。ますます私は社会に出るのが嫌になりました。私は学生である今ですら自分なんか不具者だと思っています。自分一人じゃ、何もできません。コンビニがなかったら生活もできません。サイフやケータイを落としたらパニックです。こんな私が何かの専門家になって、そのことだけで偉くなっていいのだろうか?と不安に襲われます。世間ではニートやフリーターを白い目で見ますが、昔から金持ちの家には道楽息子はいたと思いますし、先生が「極端な自然本位の道楽生活」という禅僧というのも、今だったらニートみたいなものではないでしょうか?いっそ、東大のニート仲間を集めて「坐禅倶楽部」でも結成しようか?そこで行住坐臥を徹底的に見直したい。トウダイ元暗しというから足元だけしっかり見て。
2006年12月14日
新聞によると「信頼できる機関」は、「新聞」が一位、「裁判所」が二位、ついで「自衛隊」、「病院」だとさ。一方、アメリカは一位がなんと「軍隊」、二位が「病院」だってさ。松坂ごときに61億もかける大リーグが背水の陣なのもわかる。自由の行く末には信じられるものは「カネ」「力」と「カラダ」の3力らしい。その点、日本の自由はまだ情報で偽装できる。だけどプロ野球界はマイナーリーグ化してるし、相撲界は外人頼り、ゴルフ界は色ぼけ、オリンピックはメダルマニア、サッカーは話にならないし、ボクシングや高校野球までショウビジネス化していて、内容よりも数字とか役者頼みの堕落ぶり。これはアメリカンドリームの凋落。わずか百年でアメリカの自由もスペースシャトルの機体のようにメッキがほころびて、自由の女神も酸性雨で黒ずんでいる。人間の考える自由なんて所詮、自然への儚い抵抗なのだ。だいたい新聞は自画自賛、我田引水な事しか書かない。本当の信頼とは、自分の非を世に曝せる勇気に対して持ちうる。都合の悪い事は全部隠して…それでは耐震偽装と同じである。読売がやった「戦争責任」の検証だってあんなの自分らの責任を隠す為のカモフラージュじゃないか。死んだ人に責任押し付けるならいくらだってできる。なんであの時反対しなかったんだ?新聞が売れなくなるからだろう。人気商売だからな。所詮、メディアは誰も見てくれなくなったら鏡みたいに曇るのだ。飾り立てたり、キレイに見えるように歪んで、みんなが見たくなるように脚色する。それが今のスポーツ界に起きてる現象だ。あんなの現実じゃない。つくりものだ。アメリカ人は病んでるけど、日本人よりは現実認識があるようだ。61億でも、だまされないんじゃない?姿形も無い情報を真実だと信じてる日本人は迂闊だよ。ありもしない悪がよけいに悪魔に見えて、あの戦争も現実認識の甘さが引き起こしたのだ。北朝鮮のミサイル、一体誰が見たんですか?核実験、誰が確認したんですか?そうやって前の戦争の時も情報機関が扇動したんじゃないか。現に今だって「防衛省」に格上げになって新聞は進歩だなんて言ってる。迎撃ミサイルなんてカネの無駄だ。わしは共産でも社民でもない。麻生さんや金正日みたいな悪人顔は嫌いじゃない。プーチンは現代のヒトラーだと一目置く。ブッシュとその言いなりになってる日本の首脳の無能さが情けない。もっと小癪にやれよ。まあ、わしのような頑冥な老人には頼れるものは自分しかないのだから何だっていいや。国破れて山河在り。国とか社会なんて影も形もないものをひたすら信じてきた自分が馬鹿らしいだけだ。
2006年12月16日
今年で八十六になるわしにとっちゃ、全財産がこのわし自身。生きる気力を失ったらお終い。幸い、わしには借金がない。そして妻も子供もいない。未来に対する負荷を一切背負わずにきた。それは戦時中、小笠原島で働かされた体験から、いつ何時死ぬかわからないと腹を括っていたからだ。世間が消費社会に様変わりする中で、わしはせっせと貯金した。借金が未来への債務なら、貯金は過去への清算であり、その為に現在を犠牲にすること。わしの知り合いはみな家庭を持ち、中には富や名声で成り上がった者もいるが、病気になって、わしより早死にした者も多い。わしは幸い、風邪一つひいた事がない。ただ、母のように他人にシモの世話をされて生き延びるのだけは御免だから、こうしてせっせと体を気づかっている。四十くらいまでは女遊びするのが唯一の楽しみだったが、それも赤線廃止になるや、パッタリやめてしまった。それがかえって身の為には幸いだったと今は思う。あんなものは女の幸せの為にある行為だから。わしはもっと自由に没頭していたい。現在にも未来にも邪魔されずに。…そういえば、今日の新聞に五十年後の人口推計が出ていた。今より四分の三に減るという。この手の予測は当たった試しがないが、歓迎すべき数値だ。なぜなら終戦直後のあの幸福な時代に戻ればいいと思うから。一億総勢が何十年も右上がり…なんて、直球しか投げない野球みたいなものだ。未来予測が立つのはラクだが、ボールが丸くて、それが空気の中を走る以上、曲がるのが自然だ。人生もそんなもんだろう。人間を無菌の飼育器にいれて、その欲望を燃料にして経済の歯車を回そうッたって人間だってボールみたいに思った通りにゃ転がらない。だから生きることは面白いんだし。今回の人口推計だってきっと外れるに違いない。わしら大正生まれの無骨な人間と違って、戦後生まれは本当に呆気なく死ぬ。寿命が伸びるなんてウソだ。それに出生率が上がらないなんてのもウソだ。私生児をちゃんとカウントすればグンと伸びるはずだし、そういう父無し子やシングルマザーでもラクに暮らせる社会こそ目指すべきだろう。だけど、わしはそういう幸せには一切協力しなかったから、こうして一汁一菜で暮らしてるわけ。そして、後悔もしてないわけ。
2006年12月21日
私は脚本家。昔は演劇の脚本を書いていた。ある時、ひどくケナされて、それから本気でプロを目指してシナリオスクールに通った。その甲斐あって、今はテレビの脚本を書いている。先日、大好評の内に放映が終わった、あるドラマの脚本も私が書いた。ケナされることはもう恐くないけど、寄せられる投書は気になって、つい見てしまう。その中にカワハラというキャストの描き方がひどいという意見があった。その男は不倫の末にヒロインと結婚し、やがて捨てられる男だ。他のキャストは最初はイヤな奴でも、後に救われるようにしているのに、このカワハラだけは最後まで救われない。イヤな奴で終わってしまう。視聴者の中にはこの俳優のファンだっているだろうし、同じような境遇の人から見れば、救われて欲しいのだろう。私としてはこういう体面ばかり気にする男なんて地獄に落ちればいいくらいしか思わない。周りにもそういう男はいっぱいいたし…父がそうだった。母はいつも愚痴ってた。そんな家庭がイヤで私は演劇の世界に飛び込んだ。だけど、どこの世界も男はみんな自分勝手。バカを見るのはいつも女の方。せめてドラマの中くらい男は地獄に落ちればいいんだ。「メインキャストの二人が結婚すればいい」という意見もあったけど、もし続編を作るとしても、私はそんな甘ったるい脚本は書かない。私がそうであるように、ヒロインには独りで歩いていって欲しい。今朝偶然、あの有名な『肉体の門』を読んだ。終戦の頃の売春婦の話だ。その十八くらいの娘達は体を売ってるくせに、官能を知らないという。いや、官能を知らないから体を平気で売れるのだ。体は淫売でも心はヴァージン。男に媚びたり尽くしてる女に比べたら何と清らかな乙女心か。私も旦那だの彼氏なんていようがいまいが独りで処理する。指とかバイブを使って。それ以上の官能なんて認めない。あるとしても、その後にはバカバカしいお土産がついてくるに決まってる。だから四十になっても私の心は処女なのだ。このまま石女で終わるのもいいと思ってる。
2006年12月26日
おれはルンペン。若い頃、田舎から出稼ぎにきて一時は山谷に住んでたが、今は奥多摩に住んでる。山野のほうが性に合うってわけだ。大自然があるからっていうよりも、人間がいないことが何よりもいい。おれは毎日、川で釣りをする。それを塩焼きにして食う。山菜も採りに行く。唯一、天ぷらが食えないのが不便だが、新鮮な川魚の刺身は娑婆では味わえない。そして、それ以外の時間は寝てる。おれの生活には食うか寝るかしかない。すべてが孤独だから悩みもない。むろん酒なんかいらない。しかし、山谷に住んでた頃はそうじゃなかった。あんな吹きだまりにも世間はあるのだ。あの頃のおれは立派に鬱状態だった。鬱というのは「ホントは独りでいたいのだが…」という「…」が問題なのだ。それをそっとしておけるなら悩まない。誰でも社会に適応したいと願うから悩む。あるいは周りがそっとしておいてくれないから病む。おれにもし家族がいたらとっくに自殺してたかもな。そういえば、拾った新聞に「子供の4人に1人が鬱状態」と書いてあった。その中に自殺する子もいるから、教師が鬱の子を発見して医者の橋渡しになれという。その精神科医は、そんなに心配なら自分らが学校に出張診療すればいいのだ。メンタルケアなんか教師の仕事じゃない。そもそも親とか学校はどうでもいいことに目くじら立てる。そういう余計な干渉が「ひとりずき」を「ひきこもり」にするんだし、やたらと構うから死にたくもなるのだ。面容がいろいろなように、人生もいろいろでいいじゃないか。それでも何か合わせずにはおれないものだ。そこに表現が生まれるんだろう。それがどんな面妖さでも理解するのが大人の役目だろう。おれは何の表現もしたくないから、こうしてルンペンになっただけ。だけど、あのまま山谷にいたら今頃ガキ共にリンチされて、新聞に「ホームレス襲わる」なんて表現されてたかもな。
2006年12月29日
あたしは孤児。昔から「家なき子」みたいなアニメってあったけど、母を訪ねて何千里歩いたってあたしの親なんか何処にもいない。「みなしごハッチ」のほうがあたしに近い。こないだ同僚の子が育児ストレスっていうから「だったらベビーシッターに任せてサボっちゃいなよ」っていってやったら「それはできないよ」というんで「なんで?」ときくと「だって家族だもん」だって。「そんなの幻想だよ!」っていってやったら黙っちゃった。「だからどんどん離婚して、どんどん再婚しちゃえばいい!」といったら、やっと笑ってくれた。冗談だと思ったみたい。先日、必要があって自分の戸籍抄本を手に入れた。「こんなもの…」と思いつつ、銀行に持ってった。「カネの切れ目が…」というように血縁とは「金縁」なのだ。だから昔から遺産相続の争いが絶えなかった。それが今じゃカネじゃなく命が奪われる。親が子をいじめて殺したり、逆に子が親をうらみ殺したり、老々介護の末に親同士が殺し合ったり…そのうち子同士で殺し合うんじゃない?振り込め詐欺は血縁の隙を狙った犯罪だし。あたしは幸い、そんな家族幻想がないから偏見もない。誰の子だろうが育てられるし、きっと誰の親だって介護してあげられる。日本の福祉がいまだに慈善事業か賤業みたいな扱いなのも大昔の封建制が幅を利かせてるせいじゃない?だけどあたしの周りにも「マルコ」や「ハッチ」が増えてきた。そういう人が社会を進歩させていくんだろうな。人間って面白いもんで、一方でサル化が進めば、一方でもっとヒト化が進むみたい。福祉ってもっともヒト臭い世界だから「マルコ」や「ハッチ」が集まるのかも。だけど、血やカネとは縁を切れても愛やモラルと縁を切るのは難しい。そんなの必要悪だって捨てれば捨てるほど守ってる自分がいる。「みなしごハッチ」の物語を大事にしてる自分が。
2006年12月30日
私は直木賞作家。デビューの頃はロマン主義的な作風だったが、近年はずっと幕末を舞台にした武勇物ばかり書いていた。私もそろそろ五十半ば。江戸の武人ならとっくに隠居してる年齢だ。そう考えると焦らないわけにはいかない。作家としては成功したが、人間としては完全燃焼できたか?私がいくら小説の中に魂を込めても、広告や値札より小さい文字の羅列にすぎない。そこでは完全燃焼が不可能だから私は江戸に魂の救済を求めた。そこは社会の安定と個人の幸福が均衡した理想郷だった。戦後六十年どころではない二百六十年の不戦。その安定の底には人々の魂の完全燃焼が社会の秩序と結びついていた。いまも鎖国を続けていたら、自然と文化が調和してどんなに「美しい日本」だったか…しかし、いつの時代も老人は「昔はよかった」というものだ。この資本主義だって未来の老人は「昔はよかった」というだろう。その時代の悪いところしか見えないのが老人なのだ。今に生くる人にとって、いいもわるいも全部自分の問題。私がもし元禄の世にタイムトリップしたとしても、やはり平和すぎて「昔はよかった」などといって、今度は戦国の時代に遡りたくなって…鮭みたいに延々と河を遡って産卵でもするつもりか?私はキリのない夢想に縁を切って、逃れられぬ現代の中で暴れ、のたうちまわり、愛する者を憎み、苦しめるより完全燃焼する方法はないのではないか?ならば、昔の農民一揆みたいに文学で老人一揆でも起こすか?その前に私は一人でも戦う準備をしなければならない。そのために私は「私自身」の小説こそ、いま書かねばならない。あの忌わしき日本近代文学の汚点である私小説こそ書くべきだ。しかし、そのとき私は人気作家としての落命を覚悟せねばならぬ。『如是我聞』を書いた太宰のように文学で切腹せねば私の魂の未来もない。そして私の名が浮き世から忘れ去られたら、江戸末期の戯作者のように作者不明の落書でも書いて世間を煙に巻いてやろう。それで私の完全燃焼も楽勝だろう。
2007年1月1日
文明は人間のゆりかごである。どんなに大人しい人でも小さい頃は動物のように泣いたはず。それがいつの間にか文明のゆりかごに飼いならされて泣くのさえ忘れてしまうのが人間の儚い運命。赤ん坊のおむつを替えながらそんなことを考えた。この子には何の抑圧もないのだ。このおむつ替え以外は。好き勝手に暮らして、いいなあ。何でおむつなんてもんを人間は考えだしたんだ?おむつこそ文明化の始まりだ。これがなかったら、そこら中が糞尿だらけだけど、それじゃ、まずいのかな?ペストとかの病気が蔓延したのかな?じゃあ、家や街に住まなきゃいい。だけど、外は寒いし、雨は降るし、腹は減るし…猿か猪ならよかったのに。せいぜい私はおむつを呪おう。この子の汚した紙おむつを丸めて、それをサンドバックにしてブッ叩いた。きっと、この子も私をこうしてブッ叩きたくてギャーギャー泣きわめいてるんだろうな。それがしたくてもできないから怨みがましく泣くんだ。だけど祖母くらいの時代には紙おむつなんてなかった。さぞかし育児は大変だったのかな?案外、要領よくやってたんじゃないかな。生活水準が上がるってことは、生活ができなくなるってことだ。全部、機械とか他人任せだから。だけど生活水準に比べて育児の効率はあんまり上がってないから今の親は大変なんだ。行政は何の手助けもしないのに監視ばかりする。理不尽な話だ。私がもし育児放棄してこの子のしたい放題にさせたら、この子はきっと豪傑になるだろうな。猪みたいに何にでも突っ込んで世界を相手にブッ叩く偉大な破壊者になるかも。それで世界が一面の焼け野原になったら、人もケモノ同然になって、おむつなんかいらなくなるだろう。そのときこの子が今私に抱いてる怨みも晴れるはず。私がおむつに抱いてる呪いも。もっと泣け!もっとわめけ!おむつなんか替えてやらないよ。そして、猪になって世界をブッ破せ!そしたら新しい文明の揺籃期が始まるだろう。
2007年1月3日
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